重巡洋艦と軽巡洋艦の違い|大きさではなく「砲の太さ」で決まる──条約が引いた155mmの線と、軽巡として生まれた重巡「最上」の正体

重巡洋艦と軽巡洋艦の解説記事

重巡洋艦と軽巡洋艦。名前からすると、重い巡洋艦と軽い巡洋艦、つまり大きさの違いだと思いたくなる。正直に言えば、私も長いあいだそう思い込んでいた。

ところが、これが違う。第二次世界大戦のアメリカには、1万トン級の船体に15cm砲を15門も積んだ「軽巡洋艦」がいた。一方で日本の最上型は、軽巡洋艦として生まれ、あとから20cm砲に積み替えて「重巡洋艦」になった。船体は同じなのに、名前が変わったのだ。

重巡と軽巡を分けたのは、大きさではなく主砲の太さだった。そして、その線を引いたのは、造船の技術者ではなく、軍縮条約の交渉の場だった。私は、重巡と軽巡を「艦の格」ではなく「条約が付けた名札」だと思っている。名札だから、付け替えることもできた。

この記事では、重巡と軽巡の境界がどこにあるのかを、条約の歴史と各国の代表艦を横断して整理する。最上や高雄の艦歴そのものは個艦の記事に任せ、ここでは「艦種の線引き」に集中する。

この記事のポイント
目次

結論|線を引いたのは「主砲の口径」

まず、違いを表にまとめる。

いちばん大事なのは、排水量の上限がどちらも1万トンで同じだということだ。つまり条約の上では、重巡も軽巡も「1万トンまでの巡洋艦」で、違うのは載せる砲の太さだけだった。重い・軽いは、船体ではなく、砲の重さの話なのだ。

155mm以下の軽巡洋艦と155mmを超える重巡洋艦の条約上の境界を示す図
1930年の条約では主砲口径で区分。10,000トンの「トン」は英トン(ロングトン)。 図を拡大する

線が引かれるまで|ワシントンからロンドンへ

ワシントン条約が生んだ「1万トン・8インチ」の巡洋艦

話は1922年のワシントン海軍軍縮条約にさかのぼる。この条約は、戦艦や空母の数を厳しく制限した。ところが巡洋艦については、1隻あたり基準排水量1万トン、主砲は8インチ(20.3cm)まで、という個艦の上限を決めただけで、隻数の上限は決めなかった。

1922年と1930年の海軍条約が巡洋艦の分類に与えた影響の図
ワシントン条約の上限と、ロンドン条約の主砲による区分を分けて読む。 図を拡大する

すると何が起きたか。各国は、上限ぎりぎりの1万トン・8インチ砲の巡洋艦を、競うように造り始めた。戦艦を造れないぶん、条約で許された最大の艦に力を注いだのだ。これが「条約型巡洋艦」と呼ばれる艦たちで、のちの重巡洋艦の原型になる。

ロンドン条約が「155mm」で線を引いた

巡洋艦の建艦競争を止めるため、1930年のロンドン海軍軍縮条約は、巡洋艦を主砲の口径で二つに分け、それぞれの合計の量に上限をかけた。

155mm(6.1インチ)を超える砲を持つ巡洋艦がカテゴリーA、それ以下がカテゴリーBだ。このカテゴリーAが重巡洋艦、カテゴリーBが軽巡洋艦と呼ばれるようになる。日本では甲級巡洋艦、乙級巡洋艦とも呼んだ。日本に許された重巡は12隻までだった。

ここで面白いのは、どちらの排水量の上限も1万トンのまま変わらなかったことだ。重巡の枠が埋まったら、あとは1万トンの船体に155mm以下の砲を積む「大きな軽巡」を造ればいい。条約は、そういう抜け道まで最初から含んでいたのだ。

「大きな軽巡」と「軽巡生まれの重巡」

15門の軽巡|ブルックリン級

この抜け道をまっすぐ使ったのがアメリカだ。1934年以降、アメリカは重巡の起工を止め、同じくらいの大きさの船体に15.2cm砲を15門積んだブルックリン級軽巡洋艦を造った。

1939年、ハドソン川に停泊する軽巡洋艦ブルックリン。
1939年、ハドソン川に停泊する軽巡洋艦ブルックリン。
写真:U.S. Navy/出典(Public domain)

砲は細いが、数が多く、撃つ速さも速い。近い距離の撃ち合いなら、20.3cm砲を8〜10門積んだ重巡にも引けを取らないとさえ言われた。名前は「軽」でも、決して軽くはない巡洋艦だった。

軽巡として生まれた重巡|最上型

もっと大胆だったのが日本の最上型だ。ロンドン条約で重巡を12隻までに抑えられた日本は、最上型を軽巡、つまり二等巡洋艦として計画した。主砲は15.5cm三連装砲で、条約の線の内側にきちんと収まっている。公表した基準排水量は8,500トンだった。

ところが最上型は、最初から20.3cm連装砲に積み替えられるように設計されていた。砲塔を載せる台の寸法を、重い砲にも耐えられるように作っておいたのだ。日本が条約から抜けたあとの1939年から1940年にかけて、最上型は本当に20.3cm砲へ積み替えられ、重巡洋艦に変わった。外した15.5cm砲塔は、大和型戦艦の副砲や軽巡大淀に回されている。

それでも書類の上では、最上型は最後まで二等巡洋艦のままだったという。名札を付け替えたのは、条約の線と、現場の呼び方だけだった。

私はこの最上型を見るたびに、条約の抜け穴を、最初から設計図に描き込んでいた艦だと感じる。公表した排水量より実際はずっと重く、そのせいで造ってから船体の強度に問題が出て、補強の工事もしている。欲張った設計のつけを、日本海軍は自分で払った。それでも、限られた枠の中で少しでも強い艦を持とうとした執念は、帝国海軍らしいと思う。最上型の艦歴は最上型重巡洋艦の解説に詳しく書いた。

日本海軍の「一等・二等」|排水量から砲へ

ここで、日本海軍の書類上の区分にも触れておきたい。日本海軍は、巡洋艦を一等巡洋艦と二等巡洋艦に分けていた。この基準が、途中で変わっている。

1912年からの基準では、一等巡洋艦は排水量7,000トン以上、二等巡洋艦は7,000トン未満だった。つまり日本海軍は、もともと大きさで巡洋艦を分けていたのだ。冒頭の「大きさで分かれると思っていた」という私の思い込みは、実は戦前の日本海軍の分け方そのものだった。

それが1934年、主砲の口径が155mmを超えるかどうかの基準に切り替わった。ロンドン条約の線引きに、日本海軍の書類も合わせたわけだ。日本の巡洋艦を調べると、「一等」「甲」「重巡」、「二等」「乙」「軽巡」という呼び方が入り混じって出てくるのは、こうした経緯があるからだ。

各国の代表艦で見る境界

重巡と軽巡の違いを、国ごとの代表艦で並べてみる。数字はおおよその目安だ。

国 艦種 代表艦 主砲 役割の特徴
日本 重巡 妙高型、高雄型 20.3cm砲10門 魚雷と水上機も積む重武装
日本 重巡(軽巡生まれ) 最上型(換装後) 20.3cm砲10門 もとは15.5cm砲15門の軽巡
日本 軽巡 川内型、長良型 14cm砲 駆逐艦部隊の旗艦
日本 軽巡 夕張 14cm砲6門 3,000トン足らずの小さな船体に詰め込んだ実験艦
アメリカ 重巡 ボルティモア級 20.3cm砲9門 大戦中に量産された大型の重巡
アメリカ 軽巡 ブルックリン級 15.2cm砲15門 重巡並みの船体の「大きな軽巡」
アメリカ 軽巡 アトランタ級 12.7cm両用砲 飛行機を撃つための防空巡洋艦
ドイツ 重巡 アドミラル・ヒッパー級 20.3cm砲8門 プリンツ・オイゲンが有名
15.5cm砲を装備していた完成当時の最上(1935年、公試中)。
15.5cm砲を装備していた完成当時の最上(1935年、公試中)。
写真:撮影者不詳/出典(Public domain)

こうして並べると、同じ「軽巡」でも、3,000トン足らずの夕張から、1万トン級のブルックリン級までいることが分かる。軽巡という名札の中身は、驚くほど幅が広い。

日本の重巡は「大きな駆逐艦」でもあった

各国の重巡を比べると、日本の重巡には際立った特徴がある。魚雷だ。

アメリカの重巡の多くは、大戦までに魚雷発射管を下ろしていた。砲で戦うのが巡洋艦の仕事だと割り切ったのだ。ところが日本の重巡は、20.3cm砲を10門積んだうえに、強力な酸素魚雷まで抱えていた。さらに偵察用の水上機も載せた。1万トンの枠の中に、これでもかと武器を詰め込んだのだ。

私は、日本の重巡は「大砲を持った大きな駆逐艦」でもあったと考えている。夜に忍び寄って魚雷を撃ち込む戦い方は、日本海軍の駆逐艦部隊の得意技だった。重巡もその戦い方に加わる前提で造られていた。1942年の第一次ソロモン海戦で、重巡の鳥海を先頭にした艦隊が夜戦で連合軍の重巡を次々に沈めたのは、その設計思想がいちばんうまく働いた場面だった。日本の魚雷については九三式酸素魚雷の解説で書いている。

一方の軽巡は、駆逐艦の群れを率いる旗艦として働いた。水雷戦隊の先頭に立ち、夜戦では真っ先に敵に突っ込む。コロンバンガラ島沖海戦の神通は、その役目を最後まで果たした軽巡だ。重巡と軽巡は、同じ「巡洋艦」でも、日本海軍の中で違う持ち場を任されていた。

名札はまだある|航空巡洋艦・防空巡洋艦・練習巡洋艦

重巡と軽巡のほかにも、巡洋艦にはいろいろな「〇〇巡洋艦」という名札がある。これも、砲の口径とは別の、役割による呼び分けだ。

航空巡洋艦は、水上機をたくさん積んで偵察に使う巡洋艦だ。最上はミッドウェー海戦のあと、後ろ半分の砲塔を下ろして飛行甲板に作り替えられ、この航空巡洋艦になった。利根型も、主砲を前半分に集めて、後ろ半分を水上機のために空けた独特の重巡だった。

防空巡洋艦は、飛行機を撃ち落とすことを主な仕事にした巡洋艦だ。アメリカのアトランタ級のほか、日本でも軽巡の五十鈴が、主砲を高角砲に積み替えて防空用に改装されている。練習巡洋艦は、士官候補生の遠洋航海などに使う巡洋艦で、日本の香取型がそれにあたる。

軽巡として生まれ、重巡になり、最後は航空巡洋艦になった最上は、巡洋艦の名札を三枚も付け替えた艦ということになる。これほど名札に振り回された艦を、私はほかに知らない。

重巡・軽巡が消えた戦後と、今の「巡洋艦」

名札が意味を失った

第二次世界大戦が終わると、条約はもう存在しない。しかも、主役は砲からミサイルと飛行機に移った。砲の口径で艦を分ける意味がなくなり、重巡と軽巡という区分も消えていった。アメリカの最後の砲装備の巡洋艦が退役したのは1975年のことだ。

今、巡洋艦と呼ばれているのは、アメリカのタイコンデロガ級のようなミサイル巡洋艦だ。そのタイコンデロガ級も、退役の時代を迎えている。詳しくはタイコンデロガ級巡洋艦の解説で書いた。

海自の「駆逐艦」は、外から見れば巡洋艦

面白いのは、今の艦種の名前が、ますます大きさと一致しなくなっていることだ。イギリスの国際戦略研究所は、満載排水量9,750トン以上の水上戦闘艦を、運用する国の呼び方にかかわらず、ミサイル巡洋艦として数えている。この基準だと、海上自衛隊のイージス護衛艦まや型やあたご型、中国の055型も、巡洋艦に入る。

まや型の名前は、旧海軍の高雄型重巡洋艦「摩耶」から受け継いだものだ。そして、海自の新しい護衛艦もがみ型の名前は、あの最上から受け継いでいる。重巡の名前が、今は「護衛艦」の名札を付けて海に出ている。艦種の名前は時代とともに変わっても、艦の名前は受け継がれていく。私はこのつながりが、たまらなく好きだ。今の海自のイージス艦については海自のイージス艦の解説で、もがみ型はもがみ型護衛艦の解説で書いている。

私流・艦種の名前を読み分けるコツ

最後に、私なりの読み分けのコツを三つにまとめておく。

一つ目は、時代を確かめること。1930年から第二次世界大戦の終わりまでなら、重巡と軽巡は主砲の口径で分かれている。それより前なら、日本海軍では排水量で一等・二等を分けていた時期がある。戦後なら、重巡・軽巡という区分自体がほぼない。

二つ目は、主砲を見ること。20.3cm砲なら重巡、15.5cm以下なら軽巡。船体の大きさに惑わされない。

三つ目は、書類と現場の呼び方が違うことがある、と覚えておくこと。最上型のように、現場では重巡として戦い、書類では二等巡洋艦のままだった艦もいる。どちらの呼び方を使っているのかを確かめると、混乱が減る。

模型で「同じ船体、違う名札」を見比べる

重巡と軽巡の違いを、いちばん実感できるのは模型だ。まずは日本の重巡の代表、高雄型。巨大な艦橋と、前後に並ぶ20.3cm連装砲の迫力は、重巡ならではだ。

最上は、航空巡洋艦に改装されたあとの姿のキットがある。後ろ半分の砲塔を外して飛行甲板にした姿は、条約に振り回された艦の数奇な一生そのものだ。前半分に残った20.3cm砲塔を見ながら、ここにかつて15.5cm砲が載っていたことを想像してみてほしい。

同じ高雄型や最上型と並べて、妙高型も置きたい。日本の条約型重巡の最初の完成形だ。

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よくある質問

重巡と軽巡の違いを一言で言うと?

主砲の太さの違いだ。1930年のロンドン海軍軍縮条約で、155mmを超える砲を持つ巡洋艦が重巡、155mm以下が軽巡と決められた。排水量の上限は、どちらも1万トンで同じだった。

重巡のほうが必ず大きいの?

必ずではない。アメリカのブルックリン級軽巡は、重巡と同じくらいの大きさだった。逆に、日本の古鷹型のように、7,000トン級の小ぶりな重巡もいる。大きさの傾向はあるが、境界を決めたのは大きさではない。

巡洋戦艦と重巡洋艦は同じもの?

違う。巡洋戦艦は、戦艦と同じくらいの大きな砲を持ち、装甲を薄くして速さを上げた艦で、イギリスのフッドなどが有名だ。重巡よりずっと大きい。名前に「巡洋」が入るので混同されやすいが、別の艦種だ。フッドについては巡洋戦艦フッドの解説で書いている。

最上はなぜ軽巡から重巡に変わったの?

ロンドン条約で重巡の数を抑えられた日本が、最上型を軽巡として造り、条約から抜けたあとで20.3cm砲に積み替えたからだ。もともと積み替えられるように設計されていた。

今も重巡や軽巡はあるの?

ほぼない。第二次世界大戦後、砲の口径で艦を分ける意味がなくなり、重巡と軽巡という区分は消えた。今の巡洋艦はミサイル巡洋艦で、艦種の呼び方も国によって違う。

まとめ|「重い・軽い」は船体ではなく、名札の話

重巡洋艦と軽巡洋艦を分けたのは、大きさではなく主砲の口径だった。1930年のロンドン海軍軍縮条約が155mmで線を引き、それを超えれば重巡、以下なら軽巡。排水量の上限はどちらも1万トンで、だから大きな軽巡も、軽巡として生まれた重巡もありえた。

日本海軍は、もともと排水量で一等・二等を分けていたが、1934年に砲の口径の基準へ切り替えた。最上型は、その線の内側で生まれ、外側へ移り、書類の上では最後まで二等巡洋艦のままだった。条約という名札に振り回されながら、それでも少しでも強い艦を持とうとした日本海軍の姿が、この一隻に凝縮されている。

次に艦艇図鑑で「重巡」「軽巡」の文字を見かけたら、主砲の太さを確かめてみてほしい。名前の重さより、砲の重さが、その艦の正体を教えてくれる。日本海軍の主力艦の全体像は帝国海軍・最強艦ランキングでも整理している。

最後まで読んでくれてありがとう。長い記事を書くときのお供は、だいたいこれだ。

出典・参考資料

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この記事を書いた人

軍研ノート編集部のアバター 軍研ノート編集部 自衛隊・兵器 / 戦史 / サバゲー

自衛隊で6年間勤務した編集長を中心に、自衛隊時代の仲間やサバゲーを通じた知人と記事を制作。経験と公開資料をもとに、装備の仕組みや歴史、その背景にある人々の工夫を掘り下げています。「かっこいい」から、その先の理解へ。編集長のプロフィール → 運営・編集方針

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