バグラチオン作戦とは|ノルマンディーの2週間後、ドイツ軍は東部戦線で2か月に40万人を失った――「独ソ戦最大の敗北」で中央軍集団が消えた理由と、1年後にその手口が満州の関東軍に向けられるまで

バグラチオン作戦 記事表紙
要点

バグラチオン作戦。1944年6月22日、バルバロッサ作戦からちょうど3年の日に赤軍が始めた夏季攻勢で、2か月でドイツ中央軍集団を事実上消滅させ、前線を600キロ西へ動かし、ワルシャワの手前まで来た。ドイツ軍の損害は40万人前後と言われる。ノルマンディーと並ぶ、ドイツ軍の大損害だ。

この作戦は、日本人にとって他人事ではない。1年後の1945年8月、同じ将軍たちが、同じ方法で、満州の関東軍に襲いかかっているからだ。今回は、そこまで書く。

目次

30秒でわかるバグラチオン作戦

バグラチオン作戦の戦況図(1944年6〜8月)
バグラチオン作戦の戦況図(1944年6〜8月)。
資料:United States Army/出典・利用条件(Public domain)
30秒でわかるバグラチオン作戦

赤軍は4個方面軍、約120万人(増援を含めれば200万人超)、戦車・自走砲約5,000両、航空機約5,000機を投入した。対するドイツ中央軍集団は約80万人、戦車・突撃砲は500両前後。ドイツ側はソ連の夏季攻勢がウクライナ方面に来ると読んでいて、装甲師団を南に移していた。

赤軍は最初の1週間でヴィテブスク、ボブルイスクの「要塞都市」を包囲殲滅し、7月3日にミンスクを解放してドイツ第4軍の大半を包囲し、7月半ばにはバルト三国とポーランド東部に達し、8月にはワルシャワ対岸のヴィスワ川に到達した。ドイツ軍の損害は死傷・行方不明・捕虜を合わせて40万人前後、28個師団が壊滅。赤軍の損害は死傷約77万人。

これが、独ソ戦でドイツ軍が受けた最大の敗北だ。スターリングラードより大きい。

先に年表を置いておく。

  • 1944年3月:ヒトラー、総統命令第11号で「要塞都市」を指定。ヴィテブスク、オルシャ、モギリョフ、ボブルイスクを死守拠点に
  • 5月:スターリンとスタフカ、白ロシア攻勢を決定。ロコソフスキーが二正面攻撃を主張しスターリンと衝突
  • 6月6日:ノルマンディー上陸
  • 6月19〜20日:パルチザンが中央軍集団後方の鉄道を一斉爆破
  • 6月22日:作戦開始。バルバロッサ3周年
  • 6月27日:ヴィテブスク陥落
  • 6月28日:ヒトラー、中央軍集団司令官ブッシュを更迭、モーデルを任命
  • 6月29日:ボブルイスク陥落
  • 7月3日:ミンスク解放。東方に第4軍約10万人が包囲される
  • 7月13日:ヴィリニュス解放
  • 7月17日:モスクワでドイツ軍捕虜5万7,000人の「敗者の行進」
  • 7月20日:ヒトラー暗殺未遂
  • 7月28日:ブレスト解放
  • 8月1日:ワルシャワ蜂起。赤軍はヴィスワ川対岸で停止
  • 8月19日:作戦終了

両軍の顔ぶれも先に置いておく。

赤軍(北から)

  • 第1バルト方面軍:バグラミャン大将
  • 第3白ロシア方面軍:チェルニャホフスキー大将(38歳、赤軍最年少の方面軍司令官)
  • 第2白ロシア方面軍:ザハロフ大将
  • 第1白ロシア方面軍:ロコソフスキー大将(作戦中に元帥)
  • スタフカ代表:ジューコフ元帥(南の2個方面軍を担当)、ワシレフスキー元帥(北の2個方面軍を担当)

ドイツ中央軍集団(北から)

  • 第3装甲軍:ラインハルト大将。ヴィテブスク正面
  • 第4軍:ティッペルスキルヒ大将(代理)。オルシャ、モギリョフ正面
  • 第9軍:ヨルダン大将。ボブルイスク正面
  • 第2軍:ヴァイス大将。プリピャチ湿地の南側
  • 軍集団司令官:ブッシュ元帥(6月28日にモーデル元帥と交代)

「装甲軍」と名がついていても、第3装甲軍にはこの時点で装甲師団が一つもなかった。中央軍集団全体でも、予備として使える装甲師団は第20装甲師団など数個で、しかも定数を大きく割っていた。名前と中身がずれていたのは、日本海軍の「機動部隊」だけではない。

「白ロシアのバルコニー」――なぜ赤軍はここを選んだのか

1944年春の東部戦線の地図を見ると、ウクライナでは赤軍が大きく西へ押し出していて、その北側、白ロシアだけがドイツ側に張り出した形で残っていた。「白ロシアのバルコニー」と呼ばれた突出部だ。ここを守るのが中央軍集団で、その後方には広大なプリピャチ湿地と、鉄道網の要衝ミンスクがある。

ドイツ軍の参謀本部は、次の夏季攻勢はウクライナ、つまり北ウクライナ軍集団の正面に来ると読んだ。理由はある。ウクライナ方面のほうが道路も地形も機甲部隊向きで、ルーマニアの油田にもバルカンにも近い。赤軍がそちらに戦力を集めているように見えたからでもある。

もう一つ、時期の話がある。1943年11月のテヘラン会談で、スターリンは米英に「西側の上陸に合わせて東でも大攻勢をかける」と約束していた。ノルマンディー上陸が6月6日、バグラチオン開始が6月22日。この2週間のずれは、ドイツ軍に西へ予備兵力を送らせてから東で殴る、という計算だ。実際、6月にドイツが西部戦線へ回した装甲師団は、東部戦線から抜かれたものが多い。ドイツは二正面戦争を、最悪のタイミングで、両方同時にやらされた。

見えるように、赤軍が仕込んだ。これがマスキロフカだ。

マスキロフカ――ドイツ軍を「見る側」から「見せられる側」に変えた

白ロシア攻勢の準備に当たる第1白ロシア方面軍の指揮官たち(1944年)
白ロシア攻勢の準備に当たる第1白ロシア方面軍の指揮官たち(1944年)。
資料:撮影者不詳/出典・利用条件CC BY 4.0
マスキロフカ――ドイツ軍を「見る側」から「見せられる側」
  • ウクライナ方面に偽の戦車集結地と偽の砲兵陣地を作り、偽の無線通信を大量に流した
  • 白ロシア方面への部隊移動は夜間のみ、無線封止、鉄道は夜間運行
  • 前線の歩兵は昼間、塹壕を掘る姿を見せるだけで、攻勢準備の様子を出さない
  • 攻勢に参加する戦車軍は、作戦開始の直前まで後方に隠した
  • 作戦計画を知る者を最小限に絞り、電話も書面も使わず口頭で伝達した

ドイツ側の航空偵察は、この時期すでに制空権を失っていて、赤軍の後方を十分に見られなかった。見えたものは、赤軍が見せたかったものだった。結果、ヒトラーと参謀本部は装甲師団を南に置き、中央軍集団には戦車がほとんど残らなかった。作戦開始時、中央軍集団の機甲戦力は赤軍の10分の1程度だったと言われる。

ドイツ側でソ連軍の動向を分析していたのは、参謀本部の東方外国軍課で、課長はラインハルト・ゲーレン大佐だった。ゲーレンは戦後、西ドイツの連邦情報局の初代長官になる人で、ドイツ情報部の伝説のような扱いをされることがある。だが1944年6月、彼の部署は赤軍の主攻をウクライナ方面と判断し、白ロシア正面の攻勢は「陽動か、限定的なもの」と評価していた。マスキロフカは、ドイツ最高の情報分析官を正面から騙した。情報機関の評価は、その最大の失敗で測るべきだと私は思っている。

技術屋として言えば、マスキロフカは情報戦の最も古典的な形だ。センサー(航空偵察・無線傍受)の弱い側は、センサーの強い側に「情報を与えられる」。バグラチオンの半年前、ノルマンディーの連合軍もパ・ド・カレーに偽の軍集団を置いてドイツ軍を欺いていた。1944年の枢軸は、東でも西でも、見せられたものを信じて負けている。

パルチザンの「鉄道戦争」――作戦は前線の後ろから始まった

解放されたミンスクに集まった女性パルチザン(1944年7月)
解放されたミンスクに集まった女性パルチザン(1944年7月)。
資料:Владимир Лупейко/出典・利用条件(Public domain)

白ロシアは、独ソ戦で最もパルチザン活動が激しかった地域だ。森と湿地に数十万人規模のパルチザンが潜み、ドイツ軍は後方の治安維持に何個師団も割かれていた。

赤軍はバグラチオンの開始に合わせて、このパルチザンに一斉行動を命じた。6月19日から20日の夜、中央軍集団後方の鉄道に対して1万か所を超える爆破が仕掛けられた。線路、橋、信号所。ドイツ軍の補給と増援は、攻勢が始まる前から止まった。

これも、独ソ戦の性格を考えると背景が重い。ドイツ軍は白ロシアで、パルチザン掃討を名目に村を焼き、住民を殺し続けていた。ベラルーシは第二次世界大戦で人口の4分の1を失ったとされる。パルチザンの鉄道戦争は、軍事作戦であると同時に、占領された3年間への回答だった。

要塞都市――ヒトラーが自分の軍を包囲させた

要塞都市――ヒトラーが自分の軍を包囲させた

これは、赤軍から見れば最高の贈り物だった。機動戦で最も難しいのは「敵をその場に留める」ことで、留まっていてくれれば包囲は簡単だ。ヒトラーは、自分の軍に「その場に留まれ」と命じていた。

中央軍集団司令官のエルンスト・ブッシュは、ヒトラーに逆らわない将軍だった。本人が「私は命令を執行する軍人であって、判断するのは総統だ」という趣旨の発言をしていたと伝えられる。前線の各軍司令官が、赤軍の攻勢準備を察知して要塞都市からの撤退や後方の防御線への移動を求めても、ブッシュはヒトラーに上申しなかったか、上申しても押し切られた。前線の各軍司令官が要塞都市からの撤退を求めても、ブッシュは総統命令を盾に拒んだ。ヴィテブスクの第3装甲軍は、赤軍の攻撃が始まって2日で包囲され、撤退許可が出たときには手遅れで、6月27日に3万人以上が失われた。ボブルイスクも同じ経緯だった。ロコソフスキーの二正面攻撃で第9軍の主力約4万人が市の東側で包囲され、赤軍の航空機が包囲の中の縦隊を昼間から爆撃した。逃げ道は市内を通ってベレジナ川の橋を渡る一本しかなく、橋の周辺で部隊と車両が渋滞して、そこに爆弾が落ちた。29日に市が落ち、包囲を突破して西へ逃れたのは1万数千人と言われる。残りは死ぬか捕虜になった。ヴィテブスクでは第53軍団の司令官ゴルヴィッツァーが捕虜になっている。将軍が捕虜になる包囲戦が、6月末の1週間で二つ起きた。

ヒトラーの死守命令が何人を殺したかは別の記事で書いたが、バグラチオンは、その最大の実例だ。スターリングラードで第6軍を失った教訓から、ヒトラーは何も学んでいなかった。むしろ、学ばなかったことを制度にした。

ロコソフスキー――スターリンに二度「考え直せ」と言われた男

ルブリンでの式典に臨むロコソフスキーら(1944年8月)
ルブリンでの式典に臨むロコソフスキーら(1944年8月)。
資料:Anatoly Arkhipov/出典・利用条件(Public domain)

作戦計画の段階で、第1白ロシア方面軍司令官のコンスタンチン・ロコソフスキーは、ボブルイスク正面で二つの方向から同時に主攻を行う案を出した。スタフカの常識では主攻は一つに集中するもので、スターリンは「隣の部屋へ行って考え直せ」と二度、ロコソフスキーを退室させた。ロコソフスキーは二度とも同じ案を持って戻ってきた。スターリンは折れた。

この人の経歴を知っていると、この場面の重さがわかる。ロコソフスキーは1937年の大粛清で逮捕され、拷問を受け、歯を折られ、3年近く投獄されていた。1940年に釈放されて軍に戻り、モスクワ防衛、スターリングラード包囲、クルスクの防御戦を経て、ここにいる。自分を投獄した独裁者の前で、二度「考え直せ」と言われて、二度同じ答えを返した。

ボブルイスクの二正面攻撃は成功し、ドイツ第9軍の大半を包囲した。ロコソフスキーはこの作戦でソ連邦元帥に昇進している。

6月22日――3年目の同じ日

6月22日――3年目の同じ日

最初は威力偵察で、翌23日から本格攻勢に移った。北から第1バルト方面軍(バグラミャン)、第3白ロシア方面軍(チェルニャホフスキー)、第2白ロシア方面軍(ザハロフ)、第1白ロシア方面軍(ロコソフスキー)。スタフカからはジューコフとワシレフスキーが調整役として派遣されていた。

第3白ロシア方面軍のイワン・チェルニャホフスキーは、このとき38歳で、赤軍で最も若い方面軍司令官だった。戦車部隊出身で、ヴィテブスクの北側を突破してミンスクへ最初に到達したのは彼の方面軍だ。翌1945年2月、東プロイセンで砲弾の破片を受けて戦死している。バグラチオンの主役たちは、ロコソフスキーのように粛清を生き延びた者と、チェルニャホフスキーのように戦争の最後の冬に死んだ者と、その両方でできている。

砲兵の準備射撃は、地区によっては2時間を超え、1キロあたり200門を超える密度で撃ち込まれた。ドイツ軍の前線陣地は文字通り耕された。そのあとに歩兵と戦車が入り、突破口が開くと、後方に隠していた戦車軍と騎兵機械化集団が突破口に突っ込んで、ドイツ軍の後方深くへ走った。

これが「縦深作戦」だ。1930年代にトゥハチェフスキーやトリアンダフィーロフが理論化し、その理論家たちの多くは大粛清で処刑され、理論だけが残って、1944年に初めて理論通りに実行された。前線を破るのは第一段階で、本番は突破後の後方への突進にある。ドイツ軍が1941年にバルバロッサでやった電撃戦を、赤軍は3年かけて自分のものにし、規模で上回った。

ミンスク包囲――第4軍が消えた

炎上する家屋から荷物を運ぶミンスクの市民(1944年7月)
炎上する家屋から荷物を運ぶミンスクの市民(1944年7月)。
資料:撮影者不詳/出典・利用条件(Public domain)

6月27日にヴィテブスク、29日にボブルイスクが落ち、中央軍集団の北と南の両翼が崩れた。中央のドイツ第4軍は、ヒトラーの命令でモギリョフとオルシャに張り付いていて、両翼の崩壊に気づいたときには、赤軍の戦車軍がすでに後方のミンスクに向かって走っていた。

7月3日、赤軍はミンスクに入った。第4軍の大半、約10万人がミンスク東方の森と湿地に取り残された。彼らは補給も指揮もないまま西へ逃げようとし、パルチザンと赤軍の追撃部隊に掃討された。包囲の中で何が起きていたかは、生き残ったドイツ兵の手記に断片的に残っている。指揮系統は最初の数日で崩れ、師団は連隊に、連隊は中隊規模の集団になって、それぞれ勝手に西を目指した。道路は使えない。森と湿地を、食料も弾薬もないまま歩く。上空にはIl-2、周囲にはパルチザン。降伏しようとしても、パルチザンに投降するのは3年間の報復を意味した。西へたどり着いた者はごくわずかで、多くは森の中で消息を絶った。

7月11日ごろまでに、包囲の中の部隊は全滅か降伏した。

中央軍集団は、作戦開始から3週間で、28個師団を失った。師団が「損害を受けた」のではなく、師団そのものが存在しなくなった。独ソ戦の3年間で、ドイツ軍がこれほど短期間にこれほど多くの師団を丸ごと失った例はない。スターリングラードで失った第6軍が約25万人だったことを考えると、規模の違いがわかる。

ヒトラーは6月28日にブッシュを更迭し、「総統の火消し役」と呼ばれたモーデルを後任にした。モーデルは着任時、中央軍集団に「軍集団」と呼べる実体がほとんど残っていないことを確認した。彼がやったのは、ヒトラーの要塞都市方針を事実上無視して、残った部隊を後方に下げ、北ウクライナ軍集団から装甲師団を1個ずつ引き抜いて、赤軍の戦車軍の進路に順番に置いていくことだった。第5装甲師団はヴィリニュス周辺で、第4装甲師団はワルシャワ東方で、それぞれ赤軍の先鋒に反撃して足を止めている。全体を救うことはもう不可能で、赤軍の突進を「遅らせる」ことだけに集中した。この人は防御戦になると異常に強い。ミンスクは救えなかったが、7月後半にはヴィスワ川の線で赤軍を止めている。それでも、失われた28個師団は戻らない。

7月17日、モスクワ――敗者の行進

モスクワを行進するドイツ軍捕虜(1944年7月17日)
モスクワを行進するドイツ軍捕虜(1944年7月17日)。
資料:Michael Trahman / Михаил Трахман/出典・利用条件CC BY-SA 3.0

作戦の途中で、ソ連は一つの演出を行った。7月17日、モスクワの目抜き通りを、白ロシアで捕虜になったドイツ軍将兵約5万7,000人が行進させられた。先頭には将軍たちが歩き、後ろに兵士の列が延々と続いた。沿道にはモスクワ市民が並び、行進のあと、散水車が通りを洗った。ドイツ兵が歩いた道を「清める」という演出で、これはソ連の新聞と映画で大々的に報じられた。行進した捕虜たちは、その後シベリアや中央アジアの収容所へ送られ、帰国できたのは何年も後で、帰れなかった者も多い。

これは、ソ連が世界と自国民に向けて出したメッセージだった。中央軍集団は消えた、赤軍はもう止まらない、と。同時に、1941年の秋に「ドイツ軍がモスクワに入る」と信じられていた街で、3年後にドイツ軍が捕虜として歩く光景を市民に見せることが、この国の戦争の意味だった。

ヴィスワ川――止まった赤軍と、ワルシャワ

7月13日にヴィリニュス、28日にブレストが落ち、赤軍は8月初めにワルシャワ対岸のヴィスワ川に達した。ここで攻勢は止まった。600キロを2か月で走った補給線は限界で、戦車軍は消耗し、モーデルが集めた装甲師団の反撃がワルシャワ東方で赤軍の先鋒を叩いた。

バグラチオンが中央軍集団を壊すと、その南北で連鎖が起きた。7月13日、北ウクライナ軍集団の正面でリヴォフ・サンドミエシュ攻勢が始まり、モーデルが装甲師団を北へ引き抜いていた穴を赤軍が突いた。8月20日にはルーマニア正面でヤッシー・キシニョフ攻勢が始まり、南ウクライナ軍集団が包囲され、ルーマニアが枢軸から離脱してドイツに宣戦した。北ではバルト三国のドイツ軍が本国と切り離され、クールラントに孤立した。バグラチオンは白ロシアの作戦だが、東部戦線全体を崩す最初の一撃だった。

そして8月1日、ワルシャワで蜂起が起きた。ポーランド国内軍は、赤軍が目前にいると見て立ち上がった。赤軍は動かなかった。軍事的な限界だったのか、スターリンがポーランドの非共産勢力を見殺しにしたのか、その両方なのか。ワルシャワ蜂起については別の記事で書いたが、バグラチオンの終わり方は、この戦争の「戦後」がどう作られるかを、すでに示していた。

数字で見るバグラチオン

ドイツ軍の損害は、死傷・行方不明・捕虜を合わせて、作戦の2か月で40万人前後と推計されている。研究によっては死者・行方不明だけで30万人を超えるとする。28個師団が壊滅し、さらに多数の師団が半減した。将軍クラスの戦死・捕虜が30人を超えた。

赤軍の損害は、死者・行方不明約18万人、負傷約59万人、合わせて約77万人。戦車・自走砲の損失は約3,000両。

同じ時期の西部戦線と比べると、ノルマンディー戦役全体(6月から8月末)でのドイツ軍の損害は約30万人と言われる。バグラチオンは、それより短い期間で、それより多くのドイツ兵を消した。ドイツ軍を最も多く破壊したのは西の連合軍ではなく赤軍だった、という独ソ戦の基本構図が、バグラチオンに最も明確に出ている。欧州戦線の激戦地15選を死傷者数で並べると、東部戦線の戦いが上位を占める理由も、この構図で説明がつく。

ベラルーシの民間人については、数字を書く手が重い。この国は戦争で人口の4分の1前後を失ったとされ、その大半は占領下の3年間で殺されている。バグラチオンは、その3年間を終わらせた作戦でもある。

技術屋の補足――赤軍は何で走ったのか

イランで組み立てられた対ソ援助用トラックの3万台到達を祝う式典(1944年)
イランで組み立てられた対ソ援助用トラックの3万台到達を祝う式典(1944年)。
資料:Stanley Scott Collection/出典・利用条件(Public domain)

縦深作戦は理論だが、理論を600キロ走らせたのは車両だ。

赤軍の主力戦車はT-34-85で、1944年には85ミリ砲を積んだ改良型が大量に前線に届いていた。重戦車はIS-2、122ミリ砲を積んだティーガー対抗の新型で、バグラチオンが本格的な初陣に近い。自走砲のSU-76、SU-85、SU-152。航空機はIl-2シュトゥルモヴィクの大群が、制空権を失ったドイツ軍の縦隊を昼間から襲った。

そして、あまり語られないが決定的なのがトラックだ。赤軍の機械化部隊の足回りを支えたのは、レンドリースで米国から届いたスチュードベーカーをはじめとする40万両超のトラックだった。戦車が突破しても、燃料と弾薬と歩兵が追いつかなければ、突破は数十キロで止まる。600キロ走れたのは、後ろにトラックの列があったからだ。ソ連の工場はT-34を年に2万両造ったが、トラックは米国製だった。独ソ戦は、米国の生産力の上でも戦われている。

空の話も書いておく。ドイツ第6航空艦隊が中央軍集団の正面に持っていた実働の戦闘機は、作戦開始時に数十機程度だったとされる。対する赤軍は約5,000機。数字の差はもはや「制空権争い」ではなく、片方が空を独占している状態だった。Il-2が昼間にドイツ軍の縦隊を襲えたのは、迎撃してくる戦闘機がいなかったからで、ボブルイスクの橋の渋滞が爆撃されたのも、ミンスク東方の包囲の中で第4軍が空から掃討されたのも、同じ理由だ。

そして補給の600キロ。ソ連の鉄道はドイツより広い軌間で、ドイツ軍は占領した3年間に白ロシアの鉄道を自国の軌間に改軌していた。赤軍が西へ進むと、今度はそれを元に戻さなければ列車が走れない。鉄道部隊が線路を改軌しながら戦車軍を追いかけ、その間の穴をトラックが埋めた。ヴィスワ川で攻勢が止まった理由の一つは、この改軌が追いつかなくなったことだ。

T-34については別の記事で書いたが、この戦車の本当の強さは、設計より生産量にある。バグラチオンは、それが数として現れた作戦だ。

模型で言えば、タミヤからT-34-85とIS-2の1944年型が出ている。この二つを並べると、1944年夏の赤軍機甲部隊の「顔」が揃う。ドイツ側はティーガーやパンターを置きたくなるが、バグラチオンの中央軍集団には、それがほとんどなかった。それがこの作戦の絵だ。

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1年後、同じ手口が満州に向けられた

ここからが、日本の読者に一番読んでほしい部分だ。

1945年8月9日、ソ連は満州の関東軍に侵攻した。作戦を指揮したのは、バグラチオンでスタフカの調整役だったワシレフスキー元帥。第1極東方面軍の司令官はメレツコフ、ザバイカル方面軍はマリノフスキー。そして、バグラチオンで白ロシアを走った部隊のかなりの部分が、ドイツ降伏後にシベリア鉄道で極東へ運ばれていた。

手口は同じだ。徹底したマスキロフカで侵攻時期を隠し、複数の方向から同時に突破し、戦車軍を関東軍の後方深くへ走らせる。大興安嶺を越えた第6親衛戦車軍の突進は、バグラチオンでミンスクへ走った戦車軍の再現だった。関東軍は、1944年の中央軍集団と同じように、前線が崩れたことに気づいたときには後方を取られていた。

日本側の視点で書けば、8月15日以降も続いた日ソ戦、樺太、千島、そして満州の開拓団の悲劇は、すべてこの「バグラチオン方式」の攻勢の中で起きている。バグラチオンを知ると、1945年8月の満州で何が起きたかが、まったく違う解像度で見える。赤軍は、ドイツ相手に1年かけて完成させた方法を、そのまま関東軍に使った。関東軍は、それに耐えられる軍隊ではなかった。

投資家メモ――生産力と、80年後のロシア

投資家としてバグラチオンを見ると、これは「工業生産力が戦場でどう現金化されるか」の教科書だ。

ソ連は1944年に戦車と自走砲を年に3万両近く造り、米国からトラックと食料と航空燃料を受け取り、それを一つの作戦に集中投入した。ドイツは兵器の性能で勝ち、生産量で負け、しかも東西二正面で分散させられた。バグラチオンの28個師団の消滅は、ドイツの工業力ではもう補充できない損失だった。

80年後の今、同じ地域の隣で、同じロシア軍がウクライナで戦っている。2022年の侵攻は、バグラチオンの正反対だった。マスキロフカは効かず、縦深突破は補給が追いつかずに止まり、戦車の縦隊は道路上でドローンに叩かれた。一方でロシアは、砲弾の生産量では西側全体を上回る量を出し続けていて、消耗戦の形に持ち込んでいる。「性能か、量か」という80年前の問いは、まったく終わっていない。

これは防衛関連株の世界でも同じで、日本の防衛産業の課題は高性能な装備を造れるかより、弾薬と部品を量で継続的に出せるかに移っている。防衛関連銘柄の投資ガイドで個別企業は整理してあるので、興味があれば。ただし、ここに書いたのは私個人の見方で、投資を勧めるものではない。防衛関連株は政策と地政学で大きく動く。投資判断はご自身の責任で、必要なら専門家に相談してほしい。

旧軍ファンとして、関東軍のことを書いておく

関東軍がバグラチオン方式に耐えられなかった理由を、ドイツ中央軍集団と並べると、ほとんど同じ構造が見える。

主力の精鋭師団は南方に引き抜かれ、1945年の関東軍は新設の師団と召集兵で数だけ揃えた状態だった。中央軍集団が装甲師団を南に持っていかれたのと同じだ。国境の要塞地帯(虎頭、東寧など)は死守を命じられ、赤軍の主力はそこを迂回して後方へ走った。要塞都市の再現だ。開拓団が国境近くに置き去りにされ、軍が先に後退した経緯まで含めて、守る側の判断が民間人の運命を決めた点も、白ロシアとよく似ている。ソ連の参戦時期について、日本側は「早くて1945年秋以降」と読んでいた。マスキロフカに騙されたゲーレンと同じ立場に、大本営の情報部門はいた。

私は関東軍を弁護する気はないが、1944年の夏に世界最強の陸軍と言われたドイツ軍が同じ方法で崩れている以上、1945年の関東軍が持ちこたえられなかったことを、日本軍だけの無能として語るのは正確ではない。赤軍の方法が、その時点の世界で最も完成された機動戦だった、というのが正しい。

自衛隊が学んでいるもの

陸上自衛隊が想定している戦いは、専守防衛だから、バグラチオンを「やる側」ではなく「やられる側」から学ぶことになる。そして日本には、やられた経験がある。1945年8月の満州だ。

要塞に籠って前線を固めても、機動部隊に後方を取られれば意味がない。守る側に必要なのは、前線の陣地ではなく、突破された後に機動して包囲を防ぐ予備兵力と、それを動かす道路と補給だ。ヒトラーの要塞都市は、この逆をやって28個師団を失った。陸自が機動戦闘車や即応機動連隊で「機動」を重視するようになった背景には、こういう戦史の積み重ねがある。

もう一つはマスキロフカへの耐性だ。相手が見せたいものを見せられて、装甲師団を南に移した参謀本部の失敗は、情報の「量」ではなく「質」の問題だった。今の日本が衛星やレーダーで大量の情報を集めても、相手が意図的に流している情報を見抜けなければ同じことになる。1944年のドイツは、航空偵察の能力を失った瞬間に、この罠に落ちた。

白ロシアを歩く――ミンスクの戦跡

燃えるミンスクの大学の建物(1944年7月3日)
燃えるミンスクの大学の建物(1944年7月3日)。
資料:撮影者不詳/出典・利用条件(Public domain)

戦跡として訪ねるなら、ミンスクの市街に「勝利広場」と、郊外に「スターリン・ライン」の野外博物館、そして東方にあるハティニの慰霊碑がある。ハティニは1943年にドイツ軍の懲罰部隊に住民ごと焼かれた村で、白ロシアで消えた600を超える村の象徴として、村があった場所に煙突だけが並ぶ形で残されている。バグラチオンの戦跡を訪ねるということは、ここを訪ねるということだ。

ただし、ベラルーシへの渡航は現在、政治情勢の面で容易ではない。外務省の海外安全情報を確認し、渡航自体を慎重に判断してほしい。私自身、まだ行けていない。

本と映像で深掘りする

独ソ戦の全体像を一冊で掴むなら、大木毅『独ソ戦 絶滅戦争の惨禍』(岩波新書)が今の日本語の決定版で、バグラチオンも「絶滅戦争」の文脈の中に置かれている。この一冊を読んでから戦役の細部に入ると、数字の意味が変わる。

もう一冊、私が挙げたいのは、ノーベル賞作家アレクシエーヴィチが白ロシアの子供たちの証言を集めた『ボタン穴から見た戦争』だ。バグラチオンが解放した土地で、その3年間に何が起きていたか。作戦の話ではないが、この作戦が何を終わらせたかを知るには、これ以上の本はない。

独ソ戦全体欧州戦線の年表は当ブログにまとめてあるので、バグラチオンの前後を追いたい人はそちらから。

長い戦史は、私は移動中にオーディオブックで聴くことが多い。独ソ戦は特に、活字で読むと途中で止まってしまう。

よくある疑問に、私なりに答えておく

「バグラチオン」の読み方と表記は

「バグラチオン」が日本語の標準的な表記で、「バグラチョン」「バグラティオン」と書かれることもある。英語表記は Operation Bagration。人名としてのバグラチオンは、トルストイの『戦争と平和』にも登場する実在の将軍で、ボロジノで致命傷を受けて戦死した。小説で読んだ名前が130年後に作戦名として戻ってくる、というのがロシアという国だ。

なぜバグラチオンはノルマンディーほど知られていないのか

理由は三つある。日本と西側の戦争の記憶が米英中心に作られてきたこと。冷戦下でソ連の戦史が西側で長く読まれなかったこと。そして、ソ連自身が戦後、この作戦を「ソ連の勝利」として語り、ベラルーシの民間人の被害やワルシャワでの停止といった不都合な部分を語らなかったこと。結果として、独ソ戦最大の作戦が、映画にも小説にもほとんどなっていない。

スターリングラードとどちらが大きいのか

規模でも損害でもバグラチオンのほうが大きい。スターリングラードで包囲されたドイツ第6軍は約25万人で、バグラチオンでは2か月で40万人前後を失い、28個師団が消えた。ただしスターリングラードは「初めてドイツ軍が大軍を丸ごと失った」転換点で、クルスクは「ドイツが最後に攻勢に出た」転換点。バグラチオンは「ドイツがもう立て直せなくなった」転換点で、転換の種類が違う。

7月20日のヒトラー暗殺未遂と関係はあるのか

直接の因果はないが、背景としては密接だ。7月20日事件が起きたのは、中央軍集団の壊滅がドイツ国防軍の上層部に伝わり、東部戦線がもう持たないと将校たちが確信した時期だった。バグラチオンの敗報は、暗殺計画を急がせた要因の一つと考えられている。

今のロシア軍はバグラチオンをどう扱っているのか

ロシアでは今も、バグラチオンは「大祖国戦争」の最大の勝利として教育され、毎年6月に記念行事が行われる。2022年のウクライナ侵攻の初期に、ロシア軍が複数方向からの同時突破で首都を狙った作戦構想は、バグラチオン以来の縦深作戦の系譜そのものだった。それが機能しなかったのは、マスキロフカが衛星と携帯電話の時代に効かず、補給が追いつかず、制空権が取れなかったからで、バグラチオンが成功した条件を、逆に一つずつ欠いていた。80年前の成功が、今のロシア軍の教科書であり、同時に呪縛にもなっている。

中央軍集団はその後どうなったのか

名前は残ったが、1944年夏以前の中央軍集団は存在しなくなった。モーデルがかき集めた部隊で東プロイセンとポーランドの線を支え、1945年1月の赤軍のヴィスワ・オーデル攻勢で再び崩れ、ベルリンへ押し込まれる。バグラチオンで失った28個師団は、最後まで補充されなかった。

バグラチオン作戦が今の私たちに残したもの

バグラチオンは、赤軍が電撃戦を自分のものにして、規模でドイツを上回った作戦だ。マスキロフカで相手の目を塞ぎ、パルチザンで後方を止め、要塞都市に張り付いたドイツ軍を包囲し、戦車軍とトラックの列で600キロ走った。28個師団が消え、モスクワの通りをドイツ兵が歩き、ヴィスワ川でワルシャワが見捨てられた。

そして1年後、同じ方法が、同じ将軍たちの手で、満州の関東軍に向けられた。バグラチオンを知らないと、1945年8月の満州は「突然ソ連が攻めてきた」としか見えない。知ると、あれは1年前に白ロシアで完成した方法の、二度目の実行だったとわかる。

ノルマンディーの陰で始まった作戦は、日本の敗戦の形を決めた作戦でもあった。

基本情報の参考資料

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この記事を書いた人

軍研ノート編集部のアバター 軍研ノート編集部 自衛隊・兵器 / 戦史 / サバゲー

自衛隊で6年間勤務した編集長を中心に、自衛隊時代の仲間やサバゲーを通じた知人と記事を制作。経験と公開資料をもとに、装備の仕組みや歴史、その背景にある人々の工夫を掘り下げています。「かっこいい」から、その先の理解へ。編集長のプロフィール → 運営・編集方針

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