日本海軍の艦上攻撃機の系譜は、九七式艦上攻撃機に始まり、天山、そして流星へと続く。どれも空母から飛び立ち、魚雷で敵艦を沈めるための機体だ。
ただ、天山と流星は、同じ「艦上攻撃機」という名前で呼ばれながら、中身はかなり違う。天山は、九七艦攻の後を継いだ、3人乗りの雷撃の専門家。流星は、雷撃に加えて、急降下爆撃までこなすように作られた2人乗りの機体だった。それまで別々の機体が担っていた二つの仕事を、一機にまとめようとしたのだ。
しかも、二機の運命を分けたのは性能だけではない。いつ戦場に間に合ったか、そして乗るべき空母が残っていたか。この記事では、天山と流星の違いを、役割、機体の設計、投入の時期という三つの軸で整理していく。
- 天山は九七艦攻の後継となる3人乗りの雷撃機。流星は、雷撃機と急降下爆撃機を一機にまとめた2人乗りの機体
- 流星は天山より約85km/h速く、主翼に20mm機関砲を持ち、急降下爆撃用のブレーキと胴体内の爆弾倉を備えた
- 天山は1943年から実戦に出て約1,270機が作られたが、流星の量産型は1944年に生産が始まり、約100機にとどまった
- 流星が乗るはずだった大型空母の大鳳と信濃は相次いで失われ、流星は陸上基地から戦うことになった
まず名前の整理|「流星」と「流星改」
最初に一つ確認しておきたい。一般に「流星」と呼ばれる機体には、試作の段階の「流星」(B7A1)と、量産された「流星改」(B7A2)がある。実戦に出たのは主に流星改だ。この記事では、見出しや一般的な呼び方として「流星」を使い、数字を比べるときは量産型の流星改を指す。名前の扱いについては流星改の解説で詳しく整理している。
比較の条件を先に決める
| 条件 | この記事での決め方 |
|---|---|
| 比べる型式 | 天山は主力の量産型の一二型(B6N2)、流星は量産型の流星改(B7A2) |
| 数字の出どころ | 両機とも同じ資料系統(英語版Wikipediaの諸元)にそろえる。資料によって数字には差がある |
| 最高速度 | それぞれの最高速度が出る高度での値。天山は4,900m、流星改は6,550mで、高度は同じではない |
| 航続距離 | 最大航続距離どうしで比べる。天山の通常の航続距離は別に記す |
| 比べないもの | 天山の初期型(一一型)、流星の試作機、計画だけの型 |
最高速度の高度がそろわないのは、エンジンの過給器の設計が違い、力を一番出せる高さが違うからだ。ただし、後で見るように速度の差は大きく、高度の違いで順位が入れ替わるほどではない。
数字で比べる|天山一二型と流星改

写真・素材:/Wikimedia Commons(Public domain)
数字を並べると、流星改が「一回り大きく重く、そして速い」機体だったことが分かる。最高速度の差は約85km/h。最大航続距離はほぼ同じだ。一方で、生産数には10倍以上の開きがある。
軸1|役割の違い|「艦攻」と「艦爆」を一つに

写真・素材:Unknown author Unknown author/Wikimedia Commons(Public domain)
日本海軍の空母の攻撃機は二本立てだった
日本海軍の空母には、敵の艦船を攻撃する機体が二種類載っていた。魚雷や水平爆撃で攻撃する「艦上攻撃機(艦攻)」と、真上から急降下して爆弾を落とす「艦上爆撃機(艦爆)」だ。
真珠湾攻撃の時代なら、艦攻は九七艦攻、艦爆は九九艦爆。その後継が、艦攻は天山、艦爆は彗星だった。天山は、この二本立ての艦攻の側をそのまま受け継いだ機体だ。
天山|雷撃の専門家
天山の仕事は、九七艦攻と同じく、魚雷を抱えて低く敵艦に近づき、雷撃することだった。3人の乗員は、操縦、航法と爆撃の照準、そして無線と後方の見張り・射撃を分担した。広い海の上で敵の艦隊を探し、正確に位置をつかんで攻撃するには、この分業が欠かせなかった。
流星|雷撃も急降下爆撃も
これに対して流星は、艦攻と艦爆の両方の仕事を一機でこなすことを求められた。魚雷を積めば雷撃機に、爆弾を胴体内の爆弾倉に積めば急降下爆撃機になる。主翼には急降下の速度を抑えるブレーキがつき、主翼の20mm機関砲で、戦闘機のように撃ち合うこともできた。
一機で二役をこなせれば、空母に載せる機種を減らせる。限られた空母の格納庫に、より柔軟な戦力を積める。流星は、天山と彗星の両方を置き換えるつもりで作られたのだ。
一方で、乗員は2人に減った。急降下爆撃機は、機体を素早く動かすために小さくまとめる必要があり、2人乗りが普通だった。流星もそれにならった。3人で分担していた航法や見張りの仕事を2人でこなす必要があり、乗員の負担は大きくなった。
同じ時代のアメリカは
ちなみに、太平洋戦争中のアメリカ海軍は、雷撃機のTBFアベンジャーと急降下爆撃機のSBDドーントレスやSB2Cヘルダイバーという二本立てを最後まで続けた。雷撃も爆撃もこなす一機種にまとめる流れは、アメリカでも戦争の末期から始まり、戦後のスカイレイダーなどで実を結ぶ。流星は、その流れを先取りした機体だったとも言える。
軸2|機体の設計の違い
天山|九七艦攻と「同じ箱」に収める苦労
天山の設計を縛ったのは、空母のエレベーターや格納庫の大きさだった。九七艦攻とほぼ同じ空間に収まりながら、性能を大きく上げなければならない。全長を抑えるために、垂直尾翼を前に傾けた独特の形にし、主翼は上に折りたためるようにした。
エンジンも苦労の種だった。最初の一一型は中島の「護」エンジンを積んだが、振動や過熱に悩まされ、本来の出力が出なかった。そこで一二型では、海軍がもともと望んでいた三菱の「火星」に積み替えた。天山の詳しい開発の経緯は天山の解説にまとめている。
流星|逆ガル翼と爆弾倉
流星の外見でいちばん目を引くのは、主翼を途中でW字に折り曲げた逆ガル翼だ。アメリカのF4Uコルセアと同じ形で、主翼を胴体の中ほどにつけながら、主脚を短く頑丈にできる。胴体の下には爆弾倉を設けた。
主翼を胴体の中ほどにつけたのは、胴体の下に爆弾倉を作る空間を確保するためでもあった。そのままでは主脚が長くなりすぎるので、主翼を途中で下に折り曲げ、その一番低いところに主脚をつけた。急降下爆撃用のブレーキや、大きな魚雷を抱えるための工夫と合わせて、一機で二役をこなすための設計が詰め込まれている。
エンジンは、中島の「誉」。18気筒の小さく強力なエンジンで、陸軍の疾風なども積んでいた。高い出力を出せる反面、扱いが難しく、量産の品質の安定にも苦しんだ。流星の生産が予定より2年ほど遅れた理由の一つが、この誉の不調だった。
大きな空母を前提にした機体
流星は、天山より全長が60cmほど長く、空の状態でも800kgほど重い。これは、流星がもともと、新しい大型の装甲空母「大鳳」での運用を前提に作られたからだ。大鳳のエレベーターは大きく、それまでの空母の約11mという全長の制限を超えられた。また、ほかの多くの空母の着艦制動装置は、これほど重い機体を止めることを想定していなかった。
つまり流星は、乗れる空母が限られた機体だった。この設計の前提が、のちに流星の運命を大きく左右することになる。
写真で見分けるポイント
二機を写真で見分けるなら、次の三点を見るといい。
- 主翼の形:正面や斜め前から見て、主翼が途中でW字に折れ曲がっていれば流星。天山の主翼はまっすぐ胴体の下側につく
- 風防の長さ:天山は3人分の長い風防が続く。流星は2人分で、天山より短い
- 垂直尾翼:天山の垂直尾翼は前に傾いた独特の形。流星の垂直尾翼は、ごく普通の形をしている
軸3|投入時期の違い

二機の運命を分けた最大の違いは、戦場に間に合った時期だ。
| 年 | 天山 | 流星 |
|---|---|---|
| 1939年 | 十四試艦上攻撃機として開発の要求 | ― |
| 1941年 | 3月、試作機が初飛行 | 十六試艦上攻撃機として開発の要求 |
| 1942年 | ― | 5月、試作機が初飛行 |
| 1943年 | 8月から少しずつ部隊に配備。11月、ブーゲンビル島沖で初の実戦 | 誉エンジンの不調などで開発が長引く |
| 1944年 | 6月のマリアナ沖海戦で空母から出撃。その後は陸上基地からも作戦 | 5月、量産型の流星改の生産開始。6月に大鳳、11月に信濃が沈む |
| 1945年 | 沖縄戦などで陸上基地から出撃 | 陸上基地の部隊(第752航空隊など)から出撃。地震や空襲で生産がさらに細る |
天山|空母決戦に間に合った最後の艦攻
天山は、1943年の後半から実戦に出た。1944年6月のマリアナ沖海戦では、空母から出撃した天山が米艦隊に向かった。日本海軍が空母の機動部隊を組んで戦った最後の大きな海戦に、天山は間に合ったのだ。
しかし、待ち構えていたアメリカ艦隊の戦闘機とレーダーで管制された防空網の前に、天山を含む日本の攻撃隊は大きな損害を受けた。九七艦攻より大きく性能を上げた天山でも、相手の防御がそれ以上に進んでいたのだ。その後の天山は、空母を失った海軍の中で、陸上基地からの作戦に回されていく。
流星|乗るべき空母がなかった
流星の量産型である流星改の生産が始まったのは1944年5月。そのわずか1か月後、マリアナ沖海戦で、流星が乗るはずだった大鳳が沈んだ。もう一隻、流星を運用できた大型空母の信濃も、同じ年の11月、完成からわずか10日あまりで潜水艦の魚雷に沈められた。
こうして流星は、空母から飛ぶために作られながら、一度も空母の戦いに加わることなく、陸上基地から戦うことになった。1945年には、第752航空隊などの流星改が、日本の近くまで来たアメリカの機動部隊に攻撃をかけている。さらに、1944年の末から1945年にかけての地震や空襲で愛知の工場が被害を受け、もともと少なかった生産はさらに細った。作られたのは100機あまりにすぎない。
時期の差が、評価の差になった
天山は約1,270機が作られ、空母決戦から陸上での作戦まで、戦争の後半の日本海軍の攻撃の中心を担った。流星は、性能では天山を上回りながら、生産も時期も、乗るべき空母も、すべてが足りなかった。
流星が「傑作機」と呼ばれることがある一方で、実戦の記録が少ないのはこのためだ。性能表の上の優秀さと、戦場で残した足跡は、必ずしも一致しない。天山と流星の比較は、そのことをよく教えてくれる。
もしも流星が早く間に合っていたら
ミリタリー好きなら、一度は考えたことがあるだろう。もし流星が1943年に量産されていたら、マリアナ沖海戦は変わったのだろうか。
私の考えは、劇的には変わらなかった、というものだ。流星が速く、機関砲を持っていたとしても、レーダーで管制された大量の戦闘機と、近接信管を使った対空砲火という米艦隊の防空の仕組みを、一機種の性能だけで突破するのは難しい。それに、流星を載せられる大型空母は大鳳しかなかった。
ただし、天山と彗星の二機種を流星一機種にまとめられていれば、生産や整備、搭乗員の教育の面では大きな効率化になったはずだ。流星の本当の価値は、速さよりも「二役を一機で」という考え方にあったのかもしれない。
今の日本の「対艦攻撃」との違い
天山や流星が担った、空から敵艦を攻撃する仕事は、今の日本では航空自衛隊の戦闘機が引き継いでいる。たとえばF-2は、超音速のASM-3Aなどの対艦ミサイルを積み、遠くから敵の艦艇を狙う。
魚雷を抱えて敵艦のすぐそばまで近づいた天山や流星の時代と比べると、攻撃の距離はまったく違う。それでも、一機で空中戦も対艦攻撃もこなすという流星の発想は、今の多用途戦闘機の考え方に通じるものがある。
模型で並べて比べる

天山と流星の違いは、模型で並べるとよく分かる。どちらもハセガワから1/48のキットが出ている。まずは天山。前に傾いた垂直尾翼と、3人分の長い風防に注目してほしい。
そして流星改。逆ガル翼の主翼と、天山より一回り大きな機体を並べると、二機の設計の違いが手に取るように分かる。
よくある質問
天山と流星のいちばんの違いは?
役割だ。天山は雷撃を専門にする3人乗りの艦上攻撃機、流星は雷撃と急降下爆撃の両方をこなす2人乗りの機体だった。
天山と流星はどちらが速い?
流星改のほうが速い。天山一二型は高度4,900mで482km/h、流星改は高度6,550mで567km/hで、約85km/hの差がある。
なぜ流星は乗員が2人なの?
急降下爆撃もこなすため、機体を素早く動かせるよう、急降下爆撃機と同じく2人乗りにまとめたからだ。その分、航法や見張りの負担は大きくなった。
流星はなぜ空母で使われなかったの?
流星の量産が始まった1944年に、運用を前提にしていた大型空母の大鳳と信濃が相次いで沈み、乗れる空母がなくなったからだ。流星は陸上基地から戦うことになった。
天山と九七艦攻の違いは?
天山は九七艦攻の後継で、エンジンの出力が大きく、速度や航続距離が大きく向上した。役割は同じ雷撃機だ。詳しくは、本文で紹介した天山の個別の解説で整理している。
流星は傑作機だったの?
性能の面では、雷撃と急降下爆撃を一機でこなす優れた機体だったと評価されることが多い。ただし、生産数は100機あまりで、空母での実戦もなかった。性能の評価と、実戦での戦果は分けて考える必要がある。
まとめ|性能では流星、足跡では天山
天山と流星は、同じ「艦上攻撃機」でありながら、まったく違う考え方で作られた。天山は九七艦攻の後を継ぐ3人乗りの雷撃の専門家。流星は、雷撃機と急降下爆撃機を一機にまとめた2人乗りの、速く重武装の機体だった。
性能では流星が上回る。しかし、戦場に間に合い、空母決戦から陸上の作戦まで戦い抜いたのは天山だった。流星は、乗るべき大型空母を失い、少数が陸上から戦ったにとどまる。二機の違いは、兵器の価値が性能だけでなく、いつ、どこで、どれだけ使えたかで決まることを教えてくれる。日本海軍の機体の全体像は第二次世界大戦の日本の戦闘機一覧で整理している。
最後まで読んでくれてありがとう。長い記事を書くときのお供は、だいたいこれだ。
出典・参考資料
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