紙一枚、持ち帰れなかった
1956年12月、興安丸が舞鶴に着いた。シベリア抑留の最後の集団帰国船である。
その船に乗っていた男たちの何人かは、頭の中に、一人の男の遺書を分けて持っていた。紙には書けなかった。帰国時のソ連側の検査で、文字の書かれたものはすべて没収されたからである。だから、暗記した。ある者は母親宛ての部分を、ある者は妻宛ての部分を、ある者は子どもたち宛ての部分を。
遺書を書いたのは、山本幡男。ハバロフスクの収容所で、2年前に死んでいた。45歳だった。
1957年1月、埼玉県に住む山本の妻のもとを、見知らぬ男が訪ねた。男は、暗記した遺書を書き起こしたものを差し出した。それが最初だった。その年のうちに、6人の男が、それぞれ別の日に、別の方法で、遺書の一部を届けた。妻は、夫が死んで3年後に、夫の最後の言葉を、6人の他人の記憶から受け取った。
この話は、辺見じゅんの『収容所から来た遺書』によって知られ、2022年に映画『ラーゲリより愛を込めて』になった。だが、映画を見た多くの人が知らないことがある。山本幡男はなぜ25年の刑を受けたのか。なぜ1950年に帰れなかったのか。なぜ末期のがんと分かっても収容所に戻されたのか。そして、なぜ紙一枚が持ち帰れなかったのか。
この記事では、山本幡男の生涯と収容所での経過を追い、遺書が届くまでを記録し、映画と史実の差を整理する。抑留の全体像はシベリア抑留はなぜ起きたのかで書いている。
隠岐からハルビンへ|ロシアを愛した男

山本幡男は1908年9月10日、島根県の隠岐、西ノ島に生まれた。父は地元の小学校の校長で、六人兄妹の長男だった。
東京外国語学校でロシア語を学んだ。学生時代からロシア文学と革命後のロシアに惹かれ、親ソ的な考えを持つ青年だったと伝えられる。卒業後、南満洲鉄道の調査部に勤めた。満鉄調査部は、当時の日本で最も大規模な調査研究機関の一つで、ロシア語のできる山本はソ連研究に従事した。
1945年、召集され、ロシア語の能力を買われてハルビンの特務機関に配属された。特務機関とは、情報収集を任務とする軍の部門である。山本は、自分が愛した国を相手に情報を扱う仕事に就いた。そして8月、その国の軍隊が満洲に侵攻した。
妻のモジミと、4人の子どもがいた。
25年の刑|ロシア語ができたから
ハルビンで拘束された山本は、ソ連の裁判にかけられた。罪名は、ソ連の刑法第58条による「スパイ罪」と「資本主義幇助罪」。判決は25年。
特務機関にいたことが、根拠だった。だが、ソ連の刑法を、日本人である山本に適用すること自体が、法の外にあった。外国の軍人が自国の軍務として行った情報活動を、相手国の国内法で「国家反逆」として裁く。そのような裁判は、弁護もなく、証拠の吟味もなく、通訳を通じて判決を告げられるだけの手続きだった。
ロシア語ができ、ソ連を研究し、ソ連に親しみを持っていた人間が、そのソ連から、そのロシア語の能力を理由に、25年を宣告された。辺見じゅんは、これを「不条理な歴史の悲劇」と呼んでいる。
こうして山本は、抑留者の中でも「戦犯」として扱われる長期抑留者になった。約2,000数百人がこの扱いを受け、1950年にソ連が「帰還完了」を一方的に宣言した後も、収容所に残された人々である。
1948年9月|降ろされた列車
辺見じゅんの記録は、1948年9月の場面から始まる。
ウラル山中のスベルドロフスクの収容所で2年半を過ごした山本は、帰国に向かうすし詰めの貨車に乗っていた。日本に帰れる。そう信じていた。その貨車から、彼は降ろされた。
帰還が許されなかった。長期抑留者として、彼はハバロフスクへ送られる。翌1949年にはハバロフスクの矯正労働収容所の第6分所、その後、第21分所に移された。
ここで、山本の抑留は「戦争が終わって帰るのを待つ」ものから、「いつ終わるか分からない刑」に変わった。25年。1970年まで。そのとき山本は62歳になっている。
アムール句会|収容所の中の日本

第21分所で、山本は収容所の文化部長を任された。ロシア語ができたからである。
1950年、山本は数人の仲間と俳句を作り始めた。「アムール句会」と名づけた。俳号は北溟子。句会は収容所の食堂の片隅で開かれ、新年には獅子舞まで出た。白い敷布に青い絵の具で唐草模様を描いた獅子だった。山本は、俳句の心得についてセメント袋の紙に書いて回覧した。俳句を磨こうと思えば、まず人を磨かなければならない、と。
1952年、収容所で脱走事件が起きた。監視は強化され、文化活動は禁じられ、句会も解散を命じられた。それでも、彼らは片隅に集まって句会を続けた。開催は200回を超えた。最後の句会は、1956年12月、興安丸の船内で開かれている。山本の死から2年後だった。
私は、この句会を、山本幡男の生涯の中で最も重要な部分だと思っている。いつ終わるか分からない刑の中で、人は何によって人でいられるか。山本の答えは、日本語で俳句を作ることだった。それは、ソ連の思想教育に対する、最も静かな抵抗でもあった。「民主運動」が抑留者の心を分断していた時期に、句会は抑留者の心を結んでいた。
帰国後、句会の仲間の一人は、再就職の苦労と抑留経験者への差別を経験しながらも、シベリアの日々を思えば耐えられた、それも山本がくれた力だった、と語っている。
病|末期がんでも、収容所に戻された

1953年5月、山本は喉の痛みを訴え、収容所内の病院に入った。もともと丈夫ではなかった体に、収容所の環境と栄養失調が重なり、病状は悪化した。
1954年2月、ハバロフスク市内の中央病院に転院した。診断は、喉頭がん性肉腫。末期だった。
翌日、山本は収容所に戻された。
治療の手段がなく、末期と分かった囚人を、病院に置いておく理由はない。ソ連側の判断はそういうものだった。山本は、収容所の寝床で、死を待つことになった。5月には声が出なくなり、会話は筆談だけになった。
「明日」|一晩で書かれた4,500字
声を失った山本に、遺書を書いてもらおうと考えたのは仲間たちだった。だが、遺書を頼むことは、本人に死を告げることに等しい。誰も言い出せなかった。
満鉄時代の上司だった佐藤健雄が、決断した。万一のことを考えて、家族に伝えることがあれば書いてくれ、と頼んだ。山本は筆談のノートに、一言だけ書いた。「明日」。
翌日、山本は遺書を書き始めた。一晩で書き上げた。字数にして約4,500字。死の1か月半前のことである。
遺書は4通あった。老いた母へ。妻モジミへ。4人の子どもたちへ。そして、家族全員へ。
母への手紙は、先立つ不孝を詫びる息子の手紙だった。妻への手紙は、子どもたちを託す夫の手紙で、信頼と感謝に満ちていた。子どもたちへの手紙は、辺見じゅんが「私たち日本人の全てに向けられた遺書」と呼んだもので、生きること、学ぶこと、人としてどうあるかを、父親が子に語る形で書かれていた。
本文はここでは引かない。辺見の本と、映画の中で読んでほしい。
1954年8月25日、山本幡男は収容所で死んだ。45歳。遺体はハバロフスクに埋葬された。
分割暗記|6人の頭の中に
遺書は、収容所に残された。仲間たちは、それを日本に持ち帰ることを決めた。
だが、方法がなかった。帰国時のソ連側の検査は徹底しており、文字の書かれた紙はすべて没収された。日記も、手帳も、手紙も。収容所の内部を記録したものを一切外に出さないためである。遺書も、紙のままでは国境を越えられなかった。
仲間たちは、遺書を分割して暗記することにした。一人が全文を覚えるのは難しく、一人に何かあれば全部が失われる。だから分けた。母への手紙を覚える者、妻への手紙を覚える者、子どもたちへの手紙を覚える者。ある者は、自分の分を紙に書いて肌身に隠し、検査の直前に覚え直した。
1956年12月、彼らは興安丸で帰国した。頭の中に、山本の言葉を入れたまま。
1957年1月、暗記担当者の一人が、埼玉県の山本モジミを訪ねた。モジミは、このとき初めて、夫の遺書と、それが暗記で運ばれた経緯を知った。同じ年のうちに、計6人が、ある者は直接訪ね、ある者は郵送で、ある者は小包で、復元した遺書を届けた。山本が収容所で作った俳句と詩も、一緒に届けられた。
6人は、互いに示し合わせて届けたのではない。それぞれが、自分の記憶の中の言葉を、自分のやり方で、山本の家族に返した。夫の死から3年、家族はその言葉を、6人の他人の記憶を通して受け取った。
遺書が世に出るまで|1957年から2022年

遺書は、届いた後、30年間、山本家の中にあった。
1986年、角川書店と読売新聞社が「昭和の遺書」を募集した。モジミは、次男の妻から、これは昭和の歴史であり、仕事にしている人が必ずいるから話したほうがいい、と勧められ、夫の遺書を投稿した。企画の編集を務めていた辺見じゅんの目に留まった。
辺見は、句会の仲間たちを訪ね歩いて取材し、1987年に『文藝春秋』に中編を発表、1989年に『収容所から来た遺書』として刊行した。大宅壮一ノンフィクション賞と講談社ノンフィクション賞を受けた。辺見は当時、ソ連での現地取材を許されなかった。ソ連崩壊後に取材が叶い、2008年には新たな内容を加えた『ダモイ 遥かに』を刊行している。
1993年、テレビ西日本がドキュメンタリーを制作し、放送文化基金賞を受けた。テレビドラマにもなった。そして2022年12月、瀬々敬久監督、二宮和也主演の映画『ラーゲリより愛を込めて』が公開され、多くの人が初めて山本幡男の名前を知った。
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1908年 | 隠岐・西ノ島に生まれる |
| 1945年 | ハルビンで拘束。ソ連の裁判で25年の刑 |
| 1948年9月 | スベルドロフスクで帰国列車から降ろされる |
| 1949〜50年 | ハバロフスク第6分所、第21分所へ。アムール句会を始める |
| 1953年5月 | 喉の痛みで入院 |
| 1954年2月 | 末期がんと診断。翌日収容所へ戻される |
| 1954年7月ごろ | 一晩で約4,500字の遺書を書く |
| 1954年8月25日 | 死去。45歳 |
| 1956年12月 | 仲間たちが興安丸で帰国。船内で最後の句会 |
| 1957年 | 6人が分割暗記した遺書をモジミに届ける |
| 1986年 | 「昭和の遺書」募集にモジミが投稿 |
| 1989年 | 辺見じゅん『収容所から来た遺書』刊行 |
| 2022年 | 映画『ラーゲリより愛を込めて』公開 |
映画と史実|何が変わり、何が変わっていないか
映画『ラーゲリより愛を込めて』は、辺見の記録を原作にしている。大枠は史実に沿っている。山本の人柄、句会、病、遺書、暗記、届けられた経緯。どれも実際にあったことである。
変えられているのは、主に構成と人物である。映画は2時間に収めるために、複数の実在の人物を一人の登場人物に統合し、出来事の時期を圧縮している。山本と仲間たちの関係も、映画の中では劇的に整理されている。実際の収容所生活は、1948年から1954年までの6年間にわたり、その大半は劇的な出来事のない日々だった。
そして、映画がほとんど描いていないことがある。山本がなぜ25年の刑を受けたのか、その裁判がどのようなものだったのか、なぜ1950年の「帰還完了」の後も帰されなかったのか、という点である。映画は山本の善良さと仲間の献身を描くが、その山本を収容所に閉じ込め、末期のがんと分かっても戻し、遺書一枚の持ち出しを許さなかった側のことは、背景にとどまる。
私は、映画を見た人にこそ、この記事の前半を読んでほしいと思っている。山本幡男の物語は、一人の善良な男と、それを支えた仲間たちの物語である。だが同時に、ロシアを愛した男が、そのロシアに法の外で裁かれ、帰ることを許されず、死ぬまで働かされ、死んでからも言葉を持ち出すことを許されなかった物語でもある。後者を抜きに前者だけを見れば、涙は流れるが、怒りは生まれない。この特集は、怒りのほうを記録するために書いている。
なぜ紙が持ち帰れなかったのか
最後に、暗記という方法が必要になった理由を、もう一度書いておく。
ソ連は、帰国する抑留者から、文字の書かれたものをすべて取り上げた。収容所で何があったかを、外に出さないためである。日記、手帳、手紙、名簿、そして遺書。抑留者が持ち帰ることを許されたのは、労働証明書だけだった。
つまり、暗記が必要だったのは、山本の仲間たちが特別に献身的だったからではない。ソ連が、死者の言葉すら国境を越えさせない体制だったからである。仲間たちの献身は、その体制に対する、最も小さく、最も確実な抵抗だった。
同じ理由で、5万5千人の死者の多くは、名前も死亡日も持ち帰られなかった。山本幡男の遺書が届いたのは、6人が覚えていたからである。覚えている人がいなかった死者の言葉は、届いていない。
抑留中に死んだ家族の記録を調べる方法は抑留記録の調べ方で、興安丸が着いた舞鶴の話は舞鶴の引き揚げで書く。ハバロフスクには、山本幡男が埋葬された土地に、1995年に日本政府が建てた抑留死者の慰霊碑がある。2026年9月、その同じ街に、ソ連兵が日本の国境標石を砕く記念碑が建った。その話はハバロフスクの対日戦勝記念碑問題で書いている。
判定|山本幡男の話は「美談」ではなく「告発」である
三段階で判定する。
事実の判定。山本幡男は1945年にハルビンで拘束され、ソ連刑法によるスパイ罪などで25年の刑を受け、1948年に帰国列車から降ろされて長期抑留者となった。ハバロフスクの収容所で句会を主宰し、1954年に末期がんと診断されて収容所に戻され、死の1か月半前に約4,500字の遺書を書き、8月25日に死んだ。遺書は仲間6人が分割して暗記し、1957年に妻へ届けられた。
意図の判定。ソ連は、日本の軍務として情報活動に従事した日本人を自国の国内法で裁き、25年の刑を科し、「帰還完了」の宣言後も収容し、末期の病人を治療せず収容所に戻し、死者の遺書を含む一切の文字の持ち出しを禁じた。山本を閉じ込めたのは戦争ではなく、戦争の後にソ連が作った体制である。暗記という方法は、その体制が死者の言葉すら越境させなかったことの証拠である。
歴史の判定。山本幡男の物語は、辺見じゅんの記録と映画によって、一人の善良な男と仲間の献身の物語として知られた。それは正しい。だが、それだけでは足りない。ロシアを愛した男が、そのロシアに法の外で裁かれ、帰ることを許されずに死んだ。仲間の献身は、その不条理への抵抗だった。この話を美談として消費することは、山本を殺した側を見えなくすることである。山本幡男の遺書は、家族への手紙であると同時に、彼を帰さなかった国への告発として読まれるべきものである。
特集全体はソ連の対日侵攻と日本人被害から辿ってほしい。
よくある疑問
山本幡男は実在の人物ですか
実在する。1908年に島根県の隠岐に生まれ、東京外国語学校でロシア語を学び、満鉄調査部に勤務した。1945年にハルビンで拘束され、1954年8月25日にハバロフスクの収容所で死去した。
なぜ25年の刑を受けたのですか
召集後にハルビンの特務機関に配属されていたことを理由に、ソ連の裁判でソ連刑法第58条のスパイ罪と資本主義幇助罪を適用され、25年の刑を宣告された。日本人にソ連の国内法を適用した、弁護も証拠の吟味もない裁判だった。
遺書はなぜ暗記で運ばれたのですか
帰国時のソ連側の検査で、文字の書かれたものはすべて没収されたためである。仲間たちは遺書を分割して暗記し、1956年12月の帰国後、1957年のうちに6人が別々に妻のもとへ届けた。
映画『ラーゲリより愛を込めて』はどこまで史実ですか
山本の人柄、句会、病、遺書、暗記、届けられた経緯は史実である。ただし複数の実在人物を統合し、時期を圧縮している。山本が25年の刑を受けた裁判や、1950年以降も帰されなかった経緯は、映画ではほとんど描かれていない。







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