尼港事件はなぜ起きたのか|1920年、日本人700人が殺された港と、ソ連が「報復」の理由に使った記憶

尼港事件はなぜ起きたのか
目次

特集の最後に、25年前を書く理由

特集の最後に、25年前を書く理由

1920年の尼港事件である。

理由は二つある。第一に、この事件は日本とソ連の間で最初に起きた大規模な日本人殺害であり、その後の日ソ関係の底に沈んだまま、1945年まで消えなかった。第二に、1945年8月16日、スターリンがトルーマンに北海道の北半分を要求したとき、その理由として持ち出したのが、この事件を含むシベリア出兵だった。日本軍は1919年から21年にかけてソ連の極東全域を占領した、だからロシアの世論は日本本土に占領地を持たなければ納得しない、と。

つまり、1945年8月の侵攻は、1920年の記憶と無関係ではない。ソ連の側は、シベリア出兵を「報復」の理由に使った。日本の側は、尼港事件を「ソ連は信用できない」の根拠にしながら、1945年にはその国に和平の仲介を頼んでいた。

この記事では、尼港で何が起き、日本が何をし、ソ連が何をしたかを、どちらの側にも寄らずに書く。そのうえで、この記憶が25年後にどう使われたかを見る。北緯50度線の歴史の中での位置づけはハバロフスクの対日戦勝記念碑問題で書いた。

前提|日本軍はなぜ尼港にいたのか

広い川に面した木造の港
広い川に面した木造の港。

尼港とは、ニコラエフスク・ナ・アムーレの日本での呼び名である。アムール川の河口近く、オホーツク海に面したロシア極東の港町で、漁業と金の集散地として栄え、日本の領事館が置かれ、日本人の商人と漁業者が住んでいた。

日本軍がこの町にいた理由は、シベリア出兵である。1917年のロシア革命の後、英米仏日は革命政権に対抗する干渉戦争に乗り出した。日本は1918年8月、シベリアに出兵した。当初の名目はチェコ軍団の救出だったが、日本軍は7万人以上を送り、他国が撤退した後も残り、ロシア極東の広い範囲を占領した。尼港には1918年9月に日本軍が入り、1920年の冬には、陸軍の守備隊1個大隊、海軍の通信隊約350人、そして日本人居留民約380人がいた。

ここを押さえておく必要がある。尼港事件は、日本が他国の内戦に介入して、他国の町を占領している最中に起きた。日本軍は、招かれてそこにいたのではない。この前提を抜きにして事件を語ることは、ロシア側の言い分をすべて無視することになる。

尼港にいた日本人

通信のための電信機と机
通信のための電信機と机。

1920年の冬、尼港にいた日本人は三つの集団だった。

集団人数(概数)内容
陸軍守備隊1個大隊、数百人水戸の歩兵第2連隊から派遣された部隊
海軍通信隊約350人無線電信所の要員
居留民約380人漁業者、商人、その家族。女性と子どもを含む

居留民の多くは、明治以来この町で漁業や商業を営んでいた人々である。ロシア革命の前から住み、革命後の混乱の中でも町を離れなかった。彼らは軍人ではなく、出兵の当事者でもなかった。だが、日本軍が町を占領している以上、パルチザンから見れば占領者の一部だった。

年表

時期出来事
1918年8月日本、シベリア出兵を開始
1918年9月日本軍が尼港に入る
1920年1月トリャピーツィンの約4,000人が尼港を包囲
2月末停戦協定。パルチザンが入城
3月11日パルチザンが日本軍に武器の引き渡しを要求
3月12日深夜日本軍がパルチザン司令部を奇襲。失敗し、守備隊壊滅。副領事一家自決
3月中生き残った日本人百数十人が投獄される
5月下旬救援部隊の接近を前に、パルチザンが日本人捕虜を全員殺害し、町を焼いて撤退
7月日本、北樺太の保障占領を開始。トリャピーツィンは赤軍に銃殺される
1925年1月日ソ基本条約。日本は北樺太撤兵を約束し、利権を得る
1925年5月日本軍、北樺太から撤退
1945年8月16日スターリン、シベリア出兵を理由に北海道占領を要求

1920年1月から3月|包囲、停戦、そして奇襲

1920年1月から3月

守備隊は1個大隊、数百人。相手は4,000人。持ちこたえられなかった。2月末、日本軍はパルチザンとの間で停戦協定を結び、パルチザンは町に入った。

3月11日、パルチザン側は日本軍に武器の引き渡しを要求した。3月12日の深夜、日本軍はパルチザン司令部を奇襲した。一部の居留民もこれに加わった。

この奇襲は、日本の研究においても、日本側の先制攻撃とする見方が有力である。停戦協定の下で武器の引き渡しを迫られ、それに応じれば居留民ごと無防備になると判断した守備隊が、先に動いた。だが奇襲は失敗した。パルチザンの反撃で守備隊は壊滅し、副領事の石田虎松は領事館で家族とともに自決した。守備隊長も戦死し、生き残った将兵と居留民百数十人は投獄された。

3月12日から数日の戦闘で、日本人の大半がここで死んだ。

5月|捕虜全員の殺害と、町の焼却

投獄された日本人は、獄中で2か月を過ごした。

5月

パルチザンは撤退を決めた。撤退の前に、彼らは獄中の日本人捕虜を全員殺害した。将兵も、居留民も、女性も、子どもも。同時に、反革命派とみなしたロシア人住民も殺害し、町に火を放って焼き払い、山中へ去った。5月25日前後のことである。

救援部隊が着いたとき、尼港には焼け跡と死体があった。生きている日本人は、ほとんどいなかった。

日本人の犠牲者は、守備隊、海軍通信隊、居留民を合わせて約700人とされる。731人とする資料もある。事件全体では、ロシア人を含めて数千人が死んだとされ、町の人口の半数を超える約6,000人とする記録もある。

トリャピーツィンはその後、赤軍自身によって裁かれ、7月に銃殺された。革命側にとっても、彼のやり方は行き過ぎだった。だが、殺された日本人が戻ることはなかった。

日本は何をしたか|北樺太の保障占領

針葉樹の森に続く国境の道
針葉樹の森に続く国境の道。
日本は何をしたか

日本政府は、事件の「解決」を見るまでの措置として、1920年7月、北樺太を保障占領した。保障占領とは、賠償や謝罪が得られるまで相手の領土を担保として占領する、という意味である。北緯50度線を越え、樺太の北半分を日本軍が押さえた。同時に、参謀本部はアムール州からの撤兵を中止し、ハバロフスクへの駐兵を続けた。

つまり、日本は尼港事件を、シベリア出兵を延長し、北樺太を占領する理由に使った。事件の悲惨さは本物だったが、それを政治的に利用したのも日本だった。研究者は、軍部が年来の宿願だった北樺太の占領を、事件によって形成された世論に乗って実行した、と見ている。

北樺太の占領は5年続いた。1925年1月、日本とソ連は北京で日ソ基本条約を結び、国交を樹立した。日本は北樺太からの撤兵を約束し、代わりに北樺太の石油と石炭の利権を得た。日本は尼港事件の賠償を求めたが、ソ連は拒否した。条約の付属文書で、ソ連側は事件について遺憾の意を表明するにとどまった。1925年5月、日本軍は北樺太から撤退した。

北樺太の5年について、もう少し書いておく。日本が占領した北樺太には、石油があった。1925年の条約で日本が得たのは、その石油と石炭の利権であり、翌1926年には北樺太石油会社が設立されて採掘が始まった。この利権は、1941年の日ソ中立条約の交渉でもソ連側が返還を求め、1944年、日本は利権をソ連に返した。つまり、北樺太をめぐる日本の関与は、1920年の占領から1944年の返還まで24年続き、1945年8月の1年前に、日本の側から手を引いていた。

北緯50度線を、日本が武力で北へ越えたのは、この一度だけである。そして、自ら撤退した。この線を武力で南へ越え、そのまま消したのは、1945年8月11日のソ連だった。その対比はハバロフスクの対日戦勝記念碑問題の年表で示している。

1945年8月16日|スターリンが持ち出した記憶

尼港事件から25年後、この記憶は別の形で現れた

1945年8月16日、スターリンはトルーマンへの書簡で、北海道の北半分の占領を要求した。その理由を、彼はこう書いた。1919年から21年にかけて、日本軍はソ連の極東全域を占領した。もし日本本土のどこかにソ連の占領地域がなければ、ロシアの世論はひどく傷つけられるだろう。

これは、シベリア出兵への報復を、北海道占領の根拠にしたということである。尼港事件そのものは書簡に出てこない。だが、ソ連の側から見た「日本軍による極東占領」の記憶の中心には、この出兵があった。

私はここに、日ソ関係の底に沈んでいたものが見えると思っている。日本は尼港の700人を、ソ連への不信の根拠として記憶した。ソ連は日本軍の極東占領を、日本への報復の根拠として記憶した。二つの記憶は、25年間、互いに相手を見ないまま並んでいた。そして1945年8月、ソ連の記憶のほうが先に動き、日本の記憶が守ろうとした人々、樺太の40万人と満洲の155万人が、その代価を払った。

ただし、スターリンの理屈をそのまま認めることはできない。1920年の出兵が不当な干渉だったとしても、それは1945年に降伏した国の民間人を殺し、連れ去り、領土を奪う根拠にはならない。25年前の報復のために、白旗の町に砲弾を落とすことを正当化する法理は存在しない。ソ連は、出兵の記憶を、自らの侵攻を正義に見せるための道具として使った。この構図は、2026年9月にハバロフスクで除幕された「軍国主義日本に対する勝利」の記念碑まで、変わっていない。

ロシアはこの事件をどう語るか

ロシアはこの事件をどう語るか

日本の歴史叙述では、逆になる。「殺された700人」が前に出て、「占領した7万人」は背景に退く。

どちらの叙述も、半分ずつ正しい。日本軍は招かれざる占領者だった。それは事実である。そして、投獄された捕虜と居留民を、女性と子どもを含めて全員殺し、町を焼くことは、いかなる前提の下でも正当化されない。それも事実である。

この特集は、ソ連の対日侵攻の被害を書くためのものである。だから最後に、日本の側にも語りたくない前提があることを、はっきり書いておく。1945年の被害を記録することと、1920年の出兵を正当化することは、別のことである。前者を正確に書くためには、後者を隠してはならない。

記憶の場所

海を望む場所に手向けられた花
海を望む場所に手向けられた花。

尼港事件の犠牲者の慰霊碑は、日本国内に複数ある。守備隊の主力だった歩兵第2連隊の所在地である茨城県水戸市には、事件の翌年から殉難者を悼む碑が建てられた。東京や各地にも、居留民や海軍通信隊の関係者による碑がある。

現地のニコラエフスク・ナ・アムーレに、日本人犠牲者を示すものはない。町は焼かれ、再建され、事件は「パルチザンの闘争」として記憶されている。

そして、北樺太の保障占領の記憶は、ロシア側にとって「日本の侵略」の一部であり、日本側では、ほとんど語られない。5年間、日本が北緯50度線の北を占領していたことを知る日本人は少ない。知らないまま、2026年にハバロフスクの記念碑を見ても、ロシア側の物語がどこから来ているかは分からない。

分かっていること、分かっていないこと

項目状況
事件の大枠(包囲、停戦、奇襲、投獄、殺害、焼却)確定
3月12日の発端が日本側の先制攻撃だったこと日本の研究上、有力
日本人犠牲者数約700人(731人とする資料あり)
ロシア人を含む全体の犠牲者数数千人(約6,000人とする記録あり)。確定していない
投獄された日本人の獄中の状況生存者がほとんどおらず、詳細は不明
トリャピーツィンの処刑確定(1920年7月、赤軍による裁判)
日ソ基本条約でのソ連の遺憾表明確定。賠償は拒否
ロシア側の公式な謝罪なし

事件から106年。犠牲者の名前は日本側の記録に残っているが、現地には何もない。

判定|尼港事件は「ソ連の非道」の始まりであり、「日本の記憶の穴」でもある

三段階で判定する。

事実の判定。1920年3月から5月、シベリア出兵中の尼港で、日本の守備隊と居留民約700人がパルチザンに殺された。2月末の停戦の後、3月12日に日本側が奇襲をかけて失敗し、生き残った日本人は投獄され、5月下旬に救援部隊の接近を前に全員殺害された。日本は報復として北樺太を1920年7月から1925年5月まで保障占領し、1925年の日ソ基本条約で撤兵と引き換えに利権を得た。

意図の判定。パルチザンによる捕虜と居留民の全員殺害は、日本軍の占領という前提があっても正当化されない。同時に、日本は事件を利用して出兵を延長し、北樺太を占領した。そして1945年8月、スターリンはこの出兵を北海道占領の理由に持ち出した。25年前の記憶を、降伏した国への侵攻を正義に見せる道具に使った。

歴史の判定。尼港事件は、日本とソ連が互いに相手への不信と報復の記憶を持ち続ける出発点だった。日本はその700人を記憶し、ソ連はその占領を記憶した。1945年8月、ソ連の記憶が先に動き、その代価を払ったのは、1920年に何の関わりもなかった樺太と満洲と千島の人々だった。この特集が記録してきた30万人の死者は、1920年の港町から始まる、長い連鎖の末端にいる。

特集の入口はソ連の対日侵攻と日本人被害である。25本を読み終えた人は、そこに戻って、一枚の表をもう一度見てほしい。数字が、数字以上のものになっていれば、この特集の目的は果たされている。

よくある疑問

尼港事件とは何ですか

1920年3月から5月、シベリア出兵中のロシア極東の港町・尼港(ニコラエフスク・ナ・アムーレ)で、日本の守備隊と居留民約700人がパルチザンに殺害された事件である。停戦後の3月12日の戦闘で大半が死に、投獄された生存者は5月下旬に全員殺害された。

日本軍はなぜ尼港にいたのですか

1918年からのシベリア出兵で、日本軍がロシア極東の広い範囲を占領していたためである。尼港には1918年9月から日本軍が駐留し、日本領事館と約380人の居留民がいた。

3月12日の戦闘はどちらが先に攻撃したのですか

日本の研究では、停戦協定の下で武器の引き渡しを迫られた日本軍が、パルチザン司令部を先制的に奇襲したとする見方が有力である。奇襲は失敗し、守備隊は壊滅した。

尼港事件は1945年のソ連参戦とどう関係しますか

1945年8月16日、スターリンはトルーマンに北海道北半分の占領を要求した際、1919〜21年の日本軍によるソ連極東の占領を理由に挙げた。尼港事件を含むシベリア出兵の記憶が、25年後の侵攻を正当化する道具として使われた。

出典・参考

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この記事を書いた人

軍研ノート編集部のアバター 軍研ノート編集部 自衛隊・兵器 / 戦史 / サバゲー

自衛隊で6年間勤務した編集長を中心に、自衛隊時代の仲間やサバゲーを通じた知人と記事を制作。経験と公開資料をもとに、装備の仕組みや歴史、その背景にある人々の工夫を掘り下げています。「かっこいい」から、その先の理解へ。編集長のプロフィール → 運営・編集方針

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