二日市保養所とは|引き揚げ女性たちが受けた処置の記録

二日市保養所とは
目次

博多港、1946年春

博多港、1946年春

船を降りた人々は検疫を受けた。その中に、女性だけを対象にした検査があった。引き揚げの途上で性暴力を受け、妊娠した女性、あるいは性病に感染した女性を見つけるための検査である。

見つかった女性は、博多から南東へ約15キロの二日市温泉にある施設へ送られた。二日市保養所である。そこで、彼女たちは中絶の手術を受けた。当時、堕胎は犯罪だった。麻酔は足りなかった。記録は最小限にとどめられ、女性たちは名前を残さずに施設を出て、故郷へ帰った。

施設は1946年3月に開き、1947年の秋に閉じた。1946年末までの患者は380人とされ、その全員が中絶手術を受けたわけではない。閉鎖までの手術数は、医師の証言では400人から500人とされる。施設が閉じると、そこで何があったかは、30年間、誰も語らなかった。

この記事では、二日市保養所で何が行われ、誰が行い、なぜ記録が残らず、女性たちがどう生き、誰が記憶を守ったのかを追う。そして、彼女たちを妊娠させたのが誰だったのかを、正面から書く。性暴力と手術の具体的な描写はしない。

満洲で女性たちがどう差し出されたかは黒川開拓団の女性たちで、逃避行の全体は満蒙開拓団の逃避行で書いている。

帰国の前に、海に身を投げた人がいた

なぜ、そのような施設が必要だったのか

満洲と北朝鮮からの引き揚げは、ソ連軍の占領下で1年近く止められていた後に始まった。その1年の間に、女性たちは襲われた。逃避行の途中で、収容所で、占領下の町で。黒川開拓団のように、団の判断で差し出された人もいる。個人で襲われた人は、それより多い。

妊娠した女性は、帰国の船の上で、自分の状態を知っていた。当時の日本で、未婚の女性が妊娠して帰ることが何を意味するかも知っていた。父親が誰か分からない子を産むことが、家族と村で何を意味するかも。

博多港に入る前に、玄界灘に身を投げた女性がいる。帰国してから自殺した女性がいる。その数は、分かっていない。

引揚船の中でそれを見た医師たちが、施設の必要を訴えた。帰国後の自殺を防ぐこと。そして、性病の蔓延を防ぐこと。この二つが、二日市保養所が作られた理由だった。

満洲と北朝鮮|二つの占領地から

船を待つ人々と港の荷物
船を待つ人々と港の荷物。
満洲と北朝鮮

満洲からの引き揚げは、ソ連軍の撤退後、1946年5月に葫蘆島から始まった。開拓団の逃避行と収容所の冬を生き延びた人々が、博多や佐世保に着いた。

北朝鮮は、38度線を境に、北をソ連軍が、南を米軍が占領した。北にいた日本人は、1946年に入っても帰国を認められなかった。多くは、夜、徒歩で38度線を越えて南へ脱出し、釜山から博多へ渡った。この脱出行の途上でも、女性は襲われた。

二つの地域に共通しているのは、ソ連軍が占領し、日本人の帰国を長く認めず、その間に女性への性暴力が組織として抑止されなかったことである。二日市保養所は、その二つの占領地の出口に置かれた施設だった。

誰が作ったのか|京城帝国大学の医師たちと、泉靖一

医療用の器具と白い布
医療用の器具と白い布。

二日市保養所を運営したのは、京城帝国大学医学部の医師と看護婦たちだった。

誰が作ったのか

この動きの中心にいたのが、泉靖一である。京城帝大の助教授で、専門は文化人類学。医師ではない。朝鮮で生まれ育った植民地二世で、敗戦の混乱の中で京城の日本人世話会を組織し、引揚者の救援を指揮した人物だった。後に東京大学の教授になり、文化人類学者として知られることになるが、1946年の泉は、引き揚げてくる女性と孤児のための施設を、法の外側で作っていた。

同じ救療部は、引き揚げてきた孤児を収容する聖福寮も運営した。女性と子ども。引き揚げの中で最も弱い立場にあった人々を、国ではなく、引き揚げてきた医師たち自身が受け止めた。

何が行われたか

保養所で行われたのは、妊娠した女性への掻爬手術と、性病の治療である。

当時の日本には堕胎罪があり、中絶は犯罪だった。医師たちは、それを承知のうえで手術を行った。被害女性の救助のための人道的措置として、超法規的に行われた。厚生省も博多引揚援護局も、これを黙認した。国が公式に認めた施設ではなく、国が見て見ぬふりをした施設だった。

麻酔薬は不足していた。手術は、麻酔が十分でない状態で行われることがあった。

記録は最小限だった。手術は「死産」として扱われ、女性の名前は残されなかった。彼女たちが故郷に帰った後、この施設にいたことが分からないようにするためである。医師たちの問診日誌と月報が一部残っており、それが後年の検証の手がかりになっている。

項目内容
開所1946年3月25日
閉鎖1947年秋
運営在外同胞援護会救療部(京城帝国大学医学部の医師・看護婦)
場所福岡県筑紫野市二日市温泉(旧武蔵温泉療養所の建物)
1946年末までの患者数380人(内訳:不法妊娠213、正常妊娠87、性病35、その他45)
閉鎖までの手術数400〜500人(医師の証言)
法的位置づけ堕胎罪の下での超法規的措置。国は黙認

同様の処置は、博多だけで行われたのではない。佐世保など他の引揚港や、関東でも行われたとされる。だが、その記録は二日市よりさらに少ない。二日市が知られているのは、そこに医師たちの問診日誌が残り、1977年に語る医師がいたからである。

聖福寮の孤児たち

子どもの靴と旅の荷物
子どもの靴と旅の荷物。

二日市保養所を運営した救療部は、もう一つの施設を持っていた。福岡市の聖福寺に置かれた、引揚孤児の収容施設「聖福寮」である。

引き揚げの途上で親を失った子どもたちが、博多港に着いた。親が逃避行で死んだ子、収容所の冬で死んだ子、船の中で死んだ子。行き先のない子どもたちを、聖福寮が受け入れ、保母たちが育て、親族を探し、あるいは養子先を探した。

女性と孤児。同じ医師たちが、同じ時期に、引き揚げの中で最も弱い二つの立場を引き受けていた。国が作らなかった施設を、引き揚げてきた人々自身が作った。

「不法妊娠」という言葉

「不法妊娠」という言葉

この言葉を、私は二重に読む。一つは、当時の人々が「性暴力」という言葉を持たなかったことの表れとして。もう一つは、被害を受けた女性の妊娠が「不法」と分類されたことの、その言葉の残酷さとして。

213人が「不法妊娠」と記録された。213人の女性が、逃避行か収容所か占領下の町で襲われ、妊娠し、博多港の検疫で見つけられ、二日市に送られ、麻酔の足りない手術を受け、名前を残さずに帰った。

「不法」だったのは、彼女たちではない。

加害者は誰だったのか

二日市保養所の記録は、加害者の内訳を統計として残していない。だが、証言と記録に現れる加害者は、ソ連兵、中国人、朝鮮人である。

このうち、ソ連兵について書いておく。満洲と北朝鮮は、1945年8月から1946年にかけてソ連軍の占領下にあった。日本人女性への性暴力は、この占領下で、占領軍の兵士によって、組織として抑止されないまま起きた。黒川開拓団のように、部隊の将校が交渉に応じて女性を「取引」した例もある。個人の逸脱ではなく、占領軍の行動の一部だった。

加害者は誰だったのか

私は、二日市保養所の話を「引き揚げ史の一部」としてだけ語ることに反対する。この施設が必要になった理由は、占領下の満洲と北朝鮮で、占領軍の兵士が日本の民間人の女性を襲ったことである。施設は結果であり、原因は別の場所にある。二日市の話をするなら、その原因の名前を言わなければならない。

女性たちのその後

手術を受けた女性たちは、施設を出て、故郷に帰った。二日市にいたことは記録に残らず、家族にも語らなかった人が多い。

彼女たちのその後は、ほとんど分かっていない。名前を残さなかったからである。医師たちが名前を残さなかったのは、彼女たちを守るためだった。その結果、彼女たちがどう生き、誰と結婚し、何を抱えて死んだのかを、誰も知らない。

わずかに残る証言から分かることがある。結婚し、子を持ち、戦後を普通に生きた人がいる。生涯結婚しなかった人がいる。二日市のことを、死ぬまで誰にも言わなかった人がいる。そして、施設を出てから自殺した人がいる。

黒川開拓団の女性たちは、2013年に公の場で語った。二日市の女性たちは、語らなかった。彼女たちには、黒川のような「団」がなく、互いを知る仲間がいなかった。一人ずつ検疫で見つけられ、一人ずつ手術を受け、一人ずつ帰った。語る相手が、最初からいなかった。

誰が記憶を守ったのか

海を望む場所に手向けられた花
海を望む場所に手向けられた花。

二日市保養所は、閉鎖後30年、忘れられていた。

1977年、RKB毎日放送がドキュメンタリー『水子のうた』を制作し、放送した。医師たちの証言をもとに、施設で何が行われたかを初めて公にした番組である。1979年には、この番組を作った上坪隆が『水子の譜』を出版した。

だが、それは全国的な関心にはならなかった。福岡で散発的に報じられることはあっても、教科書に載ることも、国が調査することもなかった。歴史学も、女性史の研究も、この問題を長く扱わなかった。

変化が見え始めたのは、戦後70年が近づいてからである。2015年、山口放送が『奥底の悲しみ 戦後70年、引揚者の記憶』を放送し、引き揚げ途上の性暴力の実態を証言で描いた。2017年には、下川正晴が『忘却の引揚げ史 泉靖一と二日市保養所』を出版し、問診日誌や関係者の証言から施設の実像を復元した。

保養所の跡地は、現在は済生会の高齢者福祉施設「むさし苑」になっている。その駐車場の一角に、水子地蔵が立っている。手術で「死産」とされた子どもたちの慰霊碑である。毎年5月14日、ささやかな供養祭が行われてきた。参加者は40人ほど。市役所の人も、近所の人も、その存在を知らない。

二日市保養所には、女性たちの碑がない。あるのは、生まれなかった子どもの碑だけである。

分かっていること、分かっていないこと

項目状況
施設の存在と運営期間確定(1946年3月25日〜1947年秋)
運営主体確定(在外同胞援護会救療部、京城帝大医学部の医師団)
1946年末までの患者数と内訳確定(博多引揚援護局『局史』)
閉鎖までの手術総数推定(医師証言で400〜500人)
女性たちの名前・出身・その後不明(意図的に記録されず)
加害者の内訳統計なし(証言に現れるのはソ連兵、中国人、朝鮮人)
帰国前に自殺した女性の数不明
他の引揚港での同様の処置存在は伝えられるが記録が乏しい
ソ連側の記録存在しない

分からないことの多くは、当時の医師たちが女性を守るために記録を残さなかった結果である。だが、加害者の側が何も記録せず、何も認めていないことは、それとは別の問題である。

年表

年月出来事
1945年8月ソ連軍が満洲・北朝鮮を占領。女性への性暴力が始まる
1946年2月京城帝大医師団が在外同胞援護会救療部を組織。福岡・聖福寺に聖福病院
1946年3月25日二日市保養所開所
1946年5月葫蘆島からの満洲引き揚げ開始
1946年北朝鮮からの38度線越えの脱出が続く
1947年秋二日市保養所閉鎖
1977年RKB毎日放送『水子のうた』放送
1979年上坪隆『水子の譜』刊行
2015年山口放送『奥底の悲しみ』放送
2017年下川正晴『忘却の引揚げ史』刊行
現在跡地の水子地蔵で毎年5月14日に供養祭

判定|二日市保養所は「救済」であり「隠蔽」であり、その原因は占領軍にある

三段階で判定する。

事実の判定。1946年3月から1947年秋まで、福岡県二日市温泉の施設で、満洲・北朝鮮からの引き揚げの途上で性暴力を受けて妊娠した女性への中絶手術と性病治療が行われた。運営は京城帝国大学の医師団による在外同胞援護会救療部で、堕胎罪の下での超法規的措置だった。1946年末までの患者は380人、閉鎖までの手術数は400〜500人とされる。女性の名前は残されなかった。

意図の判定。医師たちの目的は、帰国後の自殺を防ぎ、性病の蔓延を防ぐことであり、記録を残さなかったのは女性たちを守るためだった。同時に、国はこの施設を公式に認めず、黙認にとどめた。救済と隠蔽は、同じ施設の中で同時に行われた。そして、この施設が必要になった原因は、占領下の満洲と北朝鮮で、ソ連軍の兵士が日本の民間人女性を襲ったことにある。ソ連はそれを認めていない。

歴史の判定。二日市の女性たちは、占領軍に襲われ、自国の法の外で手術を受け、名前を残さずに帰り、語る相手を持たなかった。施設は30年忘れられ、記憶を守ったのは一人の放送記者と、その後を継いだ数人の書き手だった。跡地には女性の碑がなく、生まれなかった子の碑だけがある。この非対称は、日本がこの被害をどう扱ってきたかを示している。

満洲の逃避行の中で親と引き離された子どもたちのその後は中国残留孤児で書く。特集全体はソ連の対日侵攻と日本人被害から辿ってほしい。

よくある疑問

二日市保養所とは何ですか

1946年3月から1947年秋まで福岡県二日市温泉にあった施設で、満洲や北朝鮮からの引き揚げの途上で性暴力を受けて妊娠した女性への中絶手術と、性病の治療が行われた。京城帝国大学の医師団が運営し、堕胎罪の下で超法規的に行われた。

何人が手術を受けたのですか

1946年末までの記録では患者380人(うち「不法妊娠」213人)、閉鎖までの手術数は医師の証言で400〜500人とされる。帰り着かなかった人や検疫で見つからなかった人は含まれない。

なぜ記録が残っていないのですか

女性たちが故郷に帰った後、施設にいたことが分からないようにするため、医師たちが意図的に名前を残さなかった。手術は「死産」として扱われた。医師の問診日誌と月報の一部が残っており、後年の検証の手がかりになっている。

跡地はどうなっていますか

現在は済生会の高齢者福祉施設「むさし苑」になっており、駐車場の一角に水子地蔵が立っている。毎年5月14日に供養祭が行われている。

出典・参考

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この記事を書いた人

軍研ノート編集部のアバター 軍研ノート編集部 自衛隊・兵器 / 戦史 / サバゲー

自衛隊で6年間勤務した編集長を中心に、自衛隊時代の仲間やサバゲーを通じた知人と記事を制作。経験と公開資料をもとに、装備の仕組みや歴史、その背景にある人々の工夫を掘り下げています。「かっこいい」から、その先の理解へ。編集長のプロフィール → 運営・編集方針

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