三船殉難事件とは|樺太の疎開船を襲ったソ連潜水艦の攻撃

三船殉難事件とは
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陸が見える海で、白旗の船が撃たれた

陸が見える海で、白旗の船が撃たれた

午前5時13分ごろ、留萌の北西33キロで、約3,400人を乗せた第二号新興丸が魚雷を受けた。船体に縦5メートル、横10メートルの穴が開き、400人以上が死んだ。

午前10時ごろ、小平町の海岸から7、8キロの沖で、泰東丸が浮上した潜水艦の砲撃を受けた。船は停止し、白旗を掲げた。砲撃は続いた。20分後に沈み、667人が死んだ。海岸の住民が、それを見ていた。

三隻を合わせて、死者1,558人、行方不明150人、計1,708人。日本が降伏を公表した8月15日から1週間後、北海道の海岸から見える海で起きたことである。

撃ったのが誰かは、47年間、公式には「国籍不明」とされた。撃った理由は、留萌市立図書館に保管された一枚の命令書が語っている。8月19日付、ソ連海軍。「航行中の敵船舶はすべて撃滅する」。

この記事では、三隻がどんな船で、どうやって大泊を出て、22日の朝に何が起きたのかを時間で追い、そのうえで、攻撃した潜水艦がどう特定されたのか、なぜ攻撃されたのかを見る。疎開の制度全体は樺太からの引き揚げで、樺太の戦況は樺太の戦いで書いている。

三隻はどんな船だったか

船名総トン数所属・用途武装乗船者(概数)死者・行方不明
小笠原丸約1,400トン逓信省の海底ケーブル敷設船なし約700人638人
第二号新興丸約2,600トン海軍の特設砲艦兼敷設艦(貨物船を徴用)12センチ砲2門、25ミリ機銃ほか約3,400〜3,600人400人以上
泰東丸約900トン貨物船機関銃約780人667人

小笠原丸は軍艦ではない。逓信省が樺太と内地を結ぶ海底ケーブルの保守に使っていた船で、稚内と大泊の間を往復していた。緊急疎開が始まると、逓信省の職員と家族を含む疎開者を運ぶ船に転用された。

第二号新興丸は、東亜海運の貨物船「新興丸」を海軍が徴用し、砲と機銃を載せた特設砲艦である。8月15日の時点では千島の得撫島への補給任務の途中で、終戦を受けて稚内に戻り、疎開者輸送に回されていた。三隻の中で唯一、撃ち返すことができる船だった。

泰東丸は小型の貨物船である。武装は機関銃程度で、疎開者を詰め込んで小樽を目指していた。

三隻に共通しているのは、いずれも「軍隊を運ぶ船」ではなく、「逃げる人を運ぶ船」だったことである。

大泊から留萌沖まで|出港の経緯

船を待つ人々と港の荷物
船を待つ人々と港の荷物。
大泊から留萌沖まで

小笠原丸は8月20日に大泊を出港し、約1,500人を乗せて21日に稚内に着いた。稚内で下船するよう勧められ、約半数が降りた。残りの約600人の疎開者と約100人の乗員・軍人を乗せて、小樽へ向かった。稚内で降りた人の中に、5歳の納谷幸喜がいた。母親の体調が悪くなったために下船した。のちの第48代横綱、大鵬である。母親が船酔いをしなければ、大鵬は存在していない。

第二号新興丸は8月19日夜に大泊に着き、20日に疎開者を乗せた。しかし艫綱がスクリューに絡まり、出港できないまま船内で一夜を過ごした。21日午前9時に出港。正午前に小樽行きの指示を受けた。約3,400人が、狭い船倉に2晩詰め込まれていた。

泰東丸は約780人を乗せ、同じく大泊から小樽を目指していた

三隻はそれぞれ別の時刻に、別の航路で宗谷海峡を抜け、日本海側を南下した。22日の朝、留萌の沖合で、三隻とも同じ海域に入った。そこに、2隻の潜水艦が待っていた。

船の中にいた人々

船の甲板に備えられた救命艇
船の甲板に備えられた救命艇。

三隻に乗っていたのは、緊急疎開の対象者、つまり老人・女性・子どもである。働き盛りの男性は樺太に残された。船倉にいたのは、母親と子ども、祖父母、そして家族と別れてきた人々だった。

船の中にいた人々

第二号新興丸の約3,400人は、大泊で2晩を船内で過ごしていた。艫綱の事故で出港が1日遅れ、狭い船倉に詰め込まれたまま、動かない船の中で待った。22日の朝、小樽まであと数時間という時刻に、船倉の人々の多くは眠っていた。魚雷が命中したのは、その船倉だった。

泰東丸の約780人のうち、生き残ったのは113人だった。疎開は家族単位で行われたため、母親と子ども、祖父母と孫が同じ船倉にいた。一家のうち一人だけが助かった例、一家全員が犠牲になった例が少なくないとされる。

三隻に乗った人々は、宗谷海峡を渡れば安全だと思っていた。北海道は日本本土であり、8月15日で戦争は終わっていた。留萌の沖で、陸地が見える距離まで来て、彼らは撃たれた。

4時20分|小笠原丸

4時20分

生存者は61人。638人が死んだ。生存者の証言によれば、沈没後に浮上した潜水艦が、海に浮かぶ人々に向けて銃撃を加えたという。この銃撃はソ連側の記録では確認できないが、複数の生存者が証言している。

遺体は増毛の海岸に流れ着いた。増毛町の町営墓地には、小笠原丸の犠牲者の碑が立っている。

5時13分|第二号新興丸の反撃

小笠原丸の沈没から約50分後、留萌の北西33キロで、第二号新興丸が魚雷を受けた。回避を試みたが、右舷の船倉に一発が命中し、大きな穴が開いた。船倉には疎開者が詰め込まれていた。

直後に、2隻の潜水艦が浮上し、銃撃を始めた。ここで、第二号新興丸は撃ち返した。特設砲艦として12センチ砲2門と機銃を持っていたからである。乗組員だけでは砲を扱う手が足りず、船に乗っていた民間人が弾薬運搬を手伝った。砲撃の結果、潜水艦の1隻に命中弾が出て、潜航後に大量の油が海面に浮いたとされる。

反撃と、通報を受けて飛来した日本軍の水上偵察機の掩護によって、潜水艦はそれ以上の攻撃をやめた。第二号新興丸は、船倉に穴を開けたまま留萌港にたどり着いた。

しかし、魚雷を受けた船倉にいた人々は助からなかった。死者・行方不明者は400人以上とされ、遺体が確認できたのは298人だった。船が沈まなかったために、船倉から引き上げられた遺体は留萌の港に並べられた。留萌は疎開船が着く港ではなく、受け入れの準備はなかった。町の人々が救護にあたり、負傷者は学校や寺に収容された。

艦長は萱場松次郎大佐。三隻の中で唯一、沈まずに港に着いた船であり、唯一、撃ち返した船だった。

10時ごろ|泰東丸と白旗

10時ごろ

泰東丸は停船し、白旗を掲げた。砲撃は続いた。船にあった機関銃で応戦したが、約20分後、機関部に命中弾を受けて沈んだ。

砲撃は、小平町の海岸から見えていた。大椴の住民が、沖合で船が撃たれ、傾き、沈むまでを目撃している。陸地から見える距離で、陸地にいる人々が見ている前で、白旗の船が撃たれた。

生存者は113人。667人が死んだ。三隻の中で最も多くの犠牲者を出した。付近を通りかかった海軍の艦艇が救助にあたったが、収容できた人は限られていた。沈没後、45人の遺体が海岸に漂着した。

白旗を掲げた船に砲撃を続けたことについて、潜水艦側が白旗に気づかなかったという説がある。しかし、陸地から見える距離で、停船した船に20分間砲撃を続けた事実は残る。気づかなかったのか、気づいても撃ったのか。この問いには、後で命令書が答える。

誰が撃ったのか|47年間の「国籍不明」

史料を読み解くための冊子と閲覧机
史料を読み解くための冊子と閲覧机。

事件の直後から、日本側は攻撃した潜水艦を「国籍不明」と発表した。8月22日の時点で日本はすでに降伏を公表しており、GHQの占領下で、どの国の潜水艦かを特定して公表することはできなかった。

戦後しばらくは、米軍の潜水艦による誤射という説も流れた。しかし米軍の潜水艦はこの海域で作戦していなかったことが確認され、この説は否定された。第二号新興丸の乗組員は浮上した潜水艦の形状を見ており、ソ連の潜水艦だと考えていたが、証明はできなかった。

47年間も特定できなかった理由は三つある。占領下の日本は連合国の一員であるソ連を名指しできなかった。冷戦の間、ソ連は自国の軍事記録を一切公開しなかった。そして日本政府自身が、日ソ国交回復、北方領土交渉、抑留者の帰国という課題の前で、疎開船の沈没を「終わったこと」として扱った。1,708人の死は、外交の都合で、47年間、誰のせいでもないことにされていた。

転機は1992年である。歴史家の秦郁彦がソ連国防省戦史研究所に照会し、ソ連太平洋艦隊の潜水艦による攻撃だったという回答を得た。攻撃を行ったのは、ウラジオストク所属のL-12とL-19の2隻である。

L-12はウラジオストクに帰還した。L-19は8月23日、礼文島沖での通信を最後に消息を絶った。ソ連の記録では「宗谷海峡で機雷により沈没、乗員全員戦死」とされている。第二号新興丸の反撃で受けた損傷が原因だという説もあるが、確認されていない。泰東丸を撃ったL-19は、翌日には海に沈んでいた。

ソ連政府、そしてソ連崩壊後のロシア政府は、この攻撃を公式には認めていない。1992年の回答は研究者への回答であり、政府間の公式の認定ではない。三隻を撃った国は、今も自分がやったと言っていない。

なぜ撃ったのか|8月19日の命令書

「なぜ、降伏した国の疎開船を撃ったのか」。この問いに対する答えは、留萌市立図書館に保管されている一枚の命令書にある。

1945年8月19日付、ソ連海軍艦隊人民委員部発、ソ連太平洋艦隊第一潜水艦隊司令官宛の命令書「No. OP/00455」。要旨は次の通りである。

敵の海軍は積極的な戦闘を行っていない。だが、サハリンとシムシュ・パラムシル諸島においては、貴重品を本国に搬出しようと抵抗を続けている。第一極東方面軍は、北海道北部占領の任務を負う。艦隊には次の任務が課せられる。8月24日未明、占領軍の留萌上陸予定。L級潜水艦を2隻派遣せよ。航行中の敵船舶はすべて撃滅する。

この命令書が示しているのは、三船への攻撃が偶発的な誤射でも、暴走した艦長の判断でもなかったということである。8月16日にスターリンはトルーマンに北海道北半分の占領を要求し、18日に拒否された。だが19日の時点で、ソ連海軍は留萌への上陸を24日未明に予定し、その前に海域の船舶を「すべて撃滅」する命令を出していた。

命令書は「貴重品を搬出しようと抵抗を続けている」と書いている。留萌沖を航行していた「敵船舶」が運んでいたのは、貴重品ではない。老人と、女性と、子どもだった。

スターリンが北海道上陸を中止したのは8月22日、三隻が撃たれた後である。つまり三船殉難事件は、実現しなかった北海道上陸作戦の、最初で最後の「戦果」だった。北海道占領計画の全体はソ連の北海道占領計画で史料に基づいて書く。

ここで、一つの反論に触れておく。第二号新興丸は海軍の特設砲艦であり、武装していた。だから攻撃対象として正当だった、という議論である。この議論には二つの問題がある。第一に、小笠原丸と泰東丸は非武装の民間船であり、泰東丸は白旗を掲げて停船していた。第二に、8月22日の時点で日本は降伏を公表しており、ソ連自身も8月19日に樺太の日本軍と停戦交渉に入っていた。降伏した国の、避難民を乗せた船を、上陸作戦の準備として撃つことを正当化する法理は、当時の戦時国際法にも存在しない。

この命令書の存在は、2018年に衆議院に提出された質問主意書でも取り上げられ、政府の答弁書が出ている。国会の記録に残る、ソ連による疎開船攻撃の証拠である。

私は、この命令書を読んだときに、白旗の問いへの答えを得たと思った。泰東丸の白旗に気づいたかどうかは、もはや問題ではない。「航行中の敵船舶はすべて撃滅する」という命令のもとでは、白旗を掲げた貨物船も、ケーブル敷設船も、疎開者を乗せた貨物船も、等しく「撃滅」の対象だった。命令を書いた人間は、留萌沖を通る船に誰が乗っているかを知っていた。知っていて、「すべて」と書いた。

「遭難」と「殉難」|名前が示す47年

この事件には二つの呼び名がある。「三船遭難事件」と「三船殉難事件」である。遺族会の名称は「樺太引揚三船遭難遺族会」であり、小平町の碑は「三船遭難慰霊之碑」、留萌市の碑は「樺太引揚三船殉難者慰霊碑」と刻まれている。

「遭難」は、海の事故に使う言葉である。嵐に遭い、座礁し、沈む。誰かに撃たれたという意味は含まれない。事件の直後、攻撃した潜水艦が「国籍不明」とされた時代には、「遭難」以外の言葉を使うことができなかった。誰がやったかを言えない以上、事故に近い言葉で呼ぶしかなかった。

「殉難」は、災難に遭って死んだことを悼む言葉であり、「遭難」よりは事件の性格に近い。しかし、これも「攻撃された」とは言っていない。1992年に潜水艦が特定されて以降も、事件の名前は変わらなかった。

私は、この記事の題名に「殉難」を使った。それが最も広く使われている呼び名だからである。しかし、事件の内容を一言で言うなら、「留萌沖疎開船攻撃事件」である。名前が事実に追いついていないことは、覚えておいてよい。

留萌・増毛・小平の慰霊と、海底に残る二隻

草に覆われた北の海岸と遠くの船
草に覆われた北の海岸と遠くの船。

事件の後、しばらくの間、留萌管内の海岸には遺体が打ち上げられ続けた。今も遺体が見つかっていない犠牲者が多い。

慰霊碑は三か所にある。小平町鬼鹿の「三船遭難慰霊之碑」、留萌市千望台の「樺太引揚三船殉難者慰霊碑」、増毛町営墓地の「小笠原丸殉難碑」である。毎年8月22日、遺族会の主催で慰霊祭が行われている。遺族は高齢化し、当時を知る人は少なくなったが、慰霊は続いている。

小笠原丸と泰東丸は、今も海底にある。2024年、民間の研究者と有志がクラウドファンディングで資金を集め、マルチビームソナーによる沈没船の位置と状態の調査が行われた。目的は、正確な海底地形図を作り、将来の遺骨収集や潜水調査の基礎資料にすることだった。80年近く経って、ようやく沈んだ船の「場所」が確かめられようとしている。

三船で死んだ人々の多くは、樺太で生まれ育ち、樺太の戸籍を持ち、樺太を逃れて北海道の海で死んだ。彼らの記録は、占領された土地とともに失われた部分が大きい。名前を刻んだ碑と、海底の船と、遺族の記憶だけが残っている。

判定|三船殉難事件は「悲劇」ではなく「攻撃」だった

三段階で判定する。

事実の判定。1945年8月22日、樺太からの疎開者を乗せた小笠原丸、第二号新興丸、泰東丸が留萌沖でソ連潜水艦L-12とL-19の攻撃を受け、二隻が沈没、一隻が大破し、1,708人が死亡・行方不明となった。泰東丸は白旗を掲げて停船した後も20分間砲撃を受けた。攻撃した潜水艦は1992年にソ連国防省の回答によって特定されたが、ロシア政府は公式に認めていない。

意図の判定。攻撃は誤射でも偶発でもなく、8月19日付のソ連海軍の命令書に基づく「航行中の敵船舶はすべて撃滅する」という作戦行動だった。その目的は8月24日に予定された留萌上陸作戦の準備であり、三船殉難事件は実現しなかった北海道占領計画の一部として起きた。命令を書いた側は、その海域を通る船に誰が乗っているかを知っていた。

歴史の判定。日本が降伏を公表した1週間後、北海道の海岸から見える海で、白旗を掲げた船を含む三隻が撃たれ、1,708人が死んだ。この事件は「終戦後の悲劇」と呼ばれることが多いが、正確には「終戦後の攻撃」である。悲劇という言葉は、誰がやったのかを曖昧にする。47年間、外交の都合で誰のせいでもないことにされていたこの事件に、命令書は、誰が、なぜやったのかを明確に答えている。

三隻に乗っていた人々がどうやって樺太を出たのかは樺太からの引き揚げで、同じ8月22日に樺太で起きたことは豊原空襲で、2日前の真岡で起きたことは真岡郵便局事件で書いている。特集全体はソ連の対日侵攻と日本人被害から辿ってほしい。

よくある疑問

三船殉難事件の犠牲者は何人ですか

死者1,558人、行方不明150人、合わせて1,708人以上とされる。内訳は小笠原丸638人、第二号新興丸400人以上、泰東丸667人である。第二号新興丸の数は資料により幅がある。

三船を攻撃したのはどの国の潜水艦ですか

ソ連太平洋艦隊の潜水艦L-12とL-19である。1992年に秦郁彦の照会に対するソ連国防省戦史研究所の回答で確認された。ロシア政府は公式には認めていない。

泰東丸の白旗は本当に無視されたのですか

泰東丸は砲撃を受けて停船し、白旗を掲げたが、砲撃は約20分間続いて沈没した。潜水艦側が白旗に気づかなかったという説もあるが、陸地から7、8キロという距離で、海岸の住民が目撃する中で砲撃が続いた事実は変わらない。8月19日付の命令書が「航行中の敵船舶はすべて撃滅する」と命じていたことを踏まえれば、白旗の有無は攻撃の判断に影響しなかったと考えられる。

なぜ降伏後の疎開船が攻撃されたのですか

8月19日付のソ連海軍の命令書が、8月24日の留萌上陸作戦に先立ち「航行中の敵船舶はすべて撃滅する」よう命じていたためである。三船殉難事件は北海道上陸作戦の準備行動として起きた。

出典・参考

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この記事を書いた人

軍研ノート編集部のアバター 軍研ノート編集部 自衛隊・兵器 / 戦史 / サバゲー

自衛隊で6年間勤務した編集長を中心に、自衛隊時代の仲間やサバゲーを通じた知人と記事を制作。経験と公開資料をもとに、装備の仕組みや歴史、その背景にある人々の工夫を掘り下げています。「かっこいい」から、その先の理解へ。編集長のプロフィール → 運営・編集方針

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