北方領土の元島民はどう追われたのか|1万7,291人、脱出した半数と「日本へ帰れ、残るならソ連人になれ」

北方領土の元島民はどう追われたのか
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1万7,291人が住んでいた

1万7,291人が住んでいた

漁師、缶詰工場の工員、昆布採りの家族、商店、学校、寺、神社、郵便局。根室から船で行き来し、夏には昆布、秋には鮭を獲る暮らしがあった。四島は明治以来、一度も他国の領土になったことがなかった。

8月28日、ソ連軍が択捉島に上陸した。9月1日に国後島と色丹島、9月3日から5日にかけて歯舞群島。日本が降伏文書に調印した9月2日をまたいで、四島はすべてソ連軍の手に落ちた。戦闘はほとんどなかった。守備隊は武装解除され、島民は占領下に置かれた。

1万7,291人のうち、約半数は漁船で根室へ脱出した。残る半数は、1947年7月から1949年7月にかけて、四度に分けて「日本へ帰れ、残るならソ連人になれ」と告げられ、樺太の真岡経由で函館へ送られた。持ち出せたのは、わずかな所持品だけだった。

この記事では、四島の住民が占領の日から島を追われる日までに何を経験したのかを、証言と記録に基づいて追う。占守島の戦闘は占守島の戦いで、北海道への上陸計画はソ連の北海道占領計画で書いた。ここでは、島に住んでいた人の話を書く。

四つの島、四つの運命

北の海辺に並ぶ漁村の家
北の海辺に並ぶ漁村の家。
終戦時の日本人主な暮らし占領日占領後
択捉島約3,600人鮭・鱒漁、缶詰、林業8月28日船がなく、ほぼ全員が残留
国後島約7,400人漁業、昆布、農業9月1日多くが根室へ脱出、残りは残留
色丹島約1,000人漁業、捕鯨基地9月1日脱出と残留に分かれる
歯舞群島約5,300人昆布採り、漁業9月3〜5日根室に最も近く、脱出者が多い

人数の合計が1万7,291人である。島によって、逃げられた人の割合はまったく違った。根室から見える歯舞の島々と、100キロ先の択捉では、同じ「占領」が別の経験になった。

8月28日から9月5日|占領

日付出来事
8月28日択捉島ソ連軍が留別に上陸。守備隊は武装解除
9月1日国後島・色丹島ソ連軍上陸
9月2日東京湾で降伏文書調印
9月3〜5日歯舞群島ソ連軍が各島に上陸。四島の占領完了
8月28日から9月5日

歯舞群島と色丹島と国後島は、根室に近い。歯舞群島の一部は根室半島から数キロで、天気が良ければ肉眼で見える。占領が択捉より数日遅れたことと、漁船があったことが、脱出の余地を生んだ。

最初の数日|土足の兵士

択捉島の元島民の一人は、初めてソ連兵を見た日のことをこう記録している。上陸の数日後、黒光りする銃を片手に、土足のまま家に上がり込み、腕時計や万年筆を探し回って奪っていった。

別の家では、主人の留守に1時間以上、ソ連兵に家の中を物色された。その家の主婦は、恐ろしさのあまり、4人の子どもに晴れ着を着せ、死を覚悟した。

こうしたことは、日常だった。村の代表がソ連軍に日本人の安全を要請し、その後は減ったとされる。だが、占領の最初の数日、島の家々は無防備だった。男性の多くは召集されて島におらず、残っていたのは女性と子どもと老人だった。

樺太で、満洲で起きたことと同じ構図が、四島でも起きていた。降伏した国の、守る者のいない集落に、占領軍の兵士が入った。

脱出|漁船で根室へ

草に覆われた北の海岸と遠くの船
草に覆われた北の海岸と遠くの船。
脱出

脱出者は、終戦時の四島住民の約半数にのぼるとされる。だが、全員が根室に着いたわけではない。脱出の途中でソ連軍に発見された人、荒波で船が遭難して命を落とした人が相当数いたと伝えられる。何人が海で死んだかは、分かっていない。

脱出できた人々は、根室に着いた。だが、根室に家があるわけではない。彼らは島に家と船と漁場を残してきた。根室の親族を頼り、あるいは仮の住まいで、島に帰れる日を待った。その日は来なかった。

残された人々|財産没収と、「春になれば帰れる」

択捉の全島民と、脱出しなかった他の島の住民は、ソ連の占領下で暮らすことになった。

残された人々

1946年2月2日、ソ連は四島を自国領に編入した。同じ年の3月ごろから、ソ連の民間人が入植し始めた。択捉の一つの村に200人ものロシア人が住むようになり、木材の切り出しや木工場で働いた。日本人とロシア人が同じ島で暮らす時期が、1年から3年続いた。

残された島民の間には、噂が流れ続けた。春になれば帰れる。秋になれば帰れる。そのたびに島民は希望を抱き、そのたびに裏切られた。帰れる日は来ず、代わりに来たのは、出て行けという命令だった。

私は、この「春になれば帰れる」という噂に、四島の占領の性格が現れていると思う。島民にとって「帰る」とは日本本土へ帰ることではなく、島での元の暮らしに帰ることだった。彼らは島にいた。島が自分たちのものでなくなっただけだった。ソ連が最後に与えたのは、島に帰ることではなく、島から出ることだった。

「日本へ帰れ、残るならソ連人になれ」|四度の強制退去

駅のホームにまとめた荷物
駅のホームにまとめた荷物。

北方四島からの強制引き揚げは、ソ連側の方針で1947年7月から始まった

時期概要
1回目1947年7月4日ごろ択捉島のソ連軍事拠点周辺の日本人から先に
2回目1947年9月下旬各島
3回目1948年10月上旬各島
4回目1949年7月下旬最後の集団

色丹島の元島民の一人は、1947年9月下旬のことをこう記録している。急にソ連側から「日本へ帰れ、残るんならソ連人になれ」と言われた。一家は母を中心に引き揚げの準備にかかった。米、こうせん、乾パン。母は先祖の位牌と、古い島の写真を、調べられても見つからないよう荷物の底に入れた。姉は、一週間前に死んだ長男の遺骨を一緒に入れた。

引き揚げの順路は決まっていた。択捉の留別、別飛、神威古丹。国後の古釜布、乳呑路。色丹の斜古丹。歯舞の多楽、志発。ソ連船がこれらの集結地を回って島民を乗せ、樺太の真岡へ運んだ。真岡で厳しい所持品検査を受け、樺太の日本人とともに函館へ送られた。

四島から根室へは船で数時間である。だが島民は、根室ではなく、北へ、樺太へ運ばれ、そこから函館へ回された。目の前の故郷の港を通らず、遠回りで「返された」。

これは、ソ連側の一方的な命令だった。日本人島民の意思による選択は一切認められなかった。ソ連占領下の暮らしを嫌って帰国を望んだ人は多い。だが、祖先伝来の土地を守り、住み慣れた島で暮らし続けたいと願った人も少なくなかった。どちらの人にも、選択肢はなかった。家、船、財産のほとんどを放棄させられ、所持品まで制限されて、裸同然で島を追われた。

2025年、千島歯舞諸島居住者連盟の関東支部が、樺太から出た引き揚げ船の乗船者名簿31万人分から四島の居住者を抽出し、強制退去させられた人数を初めて具体的に割り出した。約8,800人。1万7,291人のおよそ半数である。名簿を一人ずつ数えて、80年後に分かった数字である。

根室から始まった運動

1945年12月1日、根室町長が連合国に対して北方領土の返還を求める陳情を出した。四島の占領から3か月後、脱出した島民が根室にあふれていた時期である。北方領土返還要求運動は、外交官が始めたのではなく、島を追われた人々と、彼らを受け入れた町から始まった。

元島民は、返還運動の第一線を80年間支えてきた。だが、その人々は減り続けている。1945年に1万7,291人いた元島民は、2021年の時点で平均年齢が86歳を超え、2026年の現在、存命の人はさらに少なくなっている。島を自分の目で見た世代は、いなくなりつつある。

北海道は、元島民の証言を動画と文書で公開している。根室振興局は、元島民が語る動画を地図の上に配置した「想いマップ」を作った。誰が、どの島の、どの集落で、何を経験したかが、クリック一つで見られる。証言を残す作業は、存命のうちに、と急がれている。

追われた後|補償のない80年

追われた後

財産の補償は、行われていない。ソ連は没収した財産について何も認めず、1956年の日ソ共同宣言で日本とソ連は互いに請求権を放棄した。日本政府は元島民に対して、融資や生活の援護、返還運動への支援を行ってきたが、島に残した家や船や土地の価値を補償したことはない。

元島民の子と孫、二世・三世は、現在数万人にのぼるとされる。返還運動は、この世代に引き継がれつつある。だが、島を自分の目で見て、島の家で育ち、島の港から追われた記憶を持つのは、一世だけである。その一世が、2026年の現在、90歳前後になっている。

墓参|島に眠る人々のもとへ

海を望む場所に手向けられた花
海を望む場所に手向けられた花。

四島には、日本人の墓がある。脱出した人も、追われた人も、先祖の墓を島に残してきた。

元島民の墓参は、1964年に始まった。ソ連時代を通じて、条件付きながら続けられた。1992年からは、パスポートもビザも使わない「ビザなし交流」の枠組みができ、元島民とその家族が島を訪れ、ロシア人住民と交流し、墓に手を合わせた。2017年には、高齢の元島民の負担を減らすため、航空機を使った特別墓参が国後島と択捉島に対して行われた。政府代表が同行し、国後島の墓地で追悼の辞を読み上げた。

2022年、ロシアのウクライナ侵略に対する日本の制裁を受けて、ロシアはビザなし交流と自由訪問の枠組みを一方的に停止した。墓参はこれより前の2020年から新型コロナウイルス感染症の影響で実施されておらず、その後も再開できていない。2026年8月13日には、プーチン大統領が現職として初めて択捉島を訪れ、日本政府は「断じて許容できない」と抗議した。

元島民が墓参できない一方で、ロシアの大統領が島に立つ。この非対称は、1945年から続いている。北方領土問題の外交的な経緯はこの特集の範囲を超えるが、島に眠る人の墓に、その子や孫が行けない状態が2020年から続いていることは、書いておく。

誰が四島を奪ったのか|法的な整理

四島の占領について、日本政府の立場は一貫している。四島は日本が平和的に領有してきた固有の領土であり、ヤルタ協定は日本を拘束せず、サンフランシスコ平和条約で放棄した「千島列島」に四島は含まれない。ソ連の占領は、当時有効だった日ソ中立条約に反する参戦の延長であり、9月2日の降伏調印後に行われた歯舞群島の占領は、戦闘が終わった後の領土の奪取である。

ロシアの立場は逆で、四島の領有は第二次世界大戦の結果として確定しており、国連憲章の旧敵国条項によって覆されない、というものである。この対立は日ソ中立条約はなぜ破られたのかとソ連対日参戦はなぜ起きたのかで整理した。

だが、この記事の主題は法的な帰属ではない。1万7,291人の人間が、住んでいた土地から、財産を取り上げられ、労働を強制され、選択の余地なく追い出された、という事実である。領土の帰属がどちらに決まろうと、この事実は変わらない。

判定|四島の占領は「領土の変更」ではなく「住民の追放」だった

三段階で判定する。

事実の判定。1945年8月28日から9月5日にかけてソ連軍が北方四島を占領し、1万7,291人の日本人住民のうち約半数が漁船で根室へ脱出し、残る住民は財産を没収され労働を強制された。1947年7月から1949年7月にかけて四度、ソ連の一方的な命令で強制退去させられ、樺太の真岡経由で函館へ送られた。強制退去者は名簿の照合で約8,800人と確認されている。

意図の判定。ソ連は四島を1946年2月に自国領に編入し、入植者を送り、日本人を労働力として使った後、「日本へ帰れ、残るならソ連人になれ」と告げて全員を退去させた。住民の意思による選択は認められなかった。目的は領土の既成事実化であり、住民は既成事実の障害として排除された。歯舞群島の占領が降伏文書の調印後だったことは、これが戦争の結果ではなく、戦争の終わりを利用した領土の奪取だったことを示している。

歴史の判定。四島の元島民は、故郷を追われ、財産を失い、80年間返還を求め続け、その間に大半が世を去った。墓参は2020年から実施されず、2026年にはロシアの大統領が島に立った。北方領土問題は外交の問題として語られるが、その根には、住んでいた人々が選択の余地なく追い出されたという事実がある。領土がどちらのものかを議論する前に、そこに1万7,291人が住んでいて、全員がいなくなったことを、記憶しておく必要がある。

同じ時期に樺太から追われた30万人の話は樺太からの引き揚げで書いた。特集全体はソ連の対日侵攻と日本人被害から辿ってほしい。

よくある疑問

北方四島には何人の日本人が住んでいましたか

1945年8月15日の時点で1万7,291人である。約半数は占領後に漁船で根室方面へ脱出し、残る住民は1947年から1949年にかけて強制退去させられた。

強制退去はいつ行われましたか

1947年7月4日ごろ、1947年9月下旬、1948年10月上旬、1949年7月下旬の四度に分けて行われた。島民は樺太の真岡に運ばれ、所持品検査を受けた後、函館へ送られた。2025年の名簿調査で、強制退去者は約8,800人と確認された。

元島民は島の墓に行けますか

1964年から墓参が行われ、1992年からはビザなし交流の枠組みで訪問が続いていたが、2020年から感染症の影響で墓参は実施されていない。2022年にはロシアが四島交流・自由訪問の枠組みを一方的に停止し、その後も墓参を再開できる状況にない。

元島民は今何人いますか

2021年時点で平均年齢は86歳を超えており、2026年現在、存命の元島民はさらに減っている。北海道と関係団体は、存命のうちに証言を記録する作業を続けている。

出典・参考

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この記事を書いた人

軍研ノート編集部のアバター 軍研ノート編集部 自衛隊・兵器 / 戦史 / サバゲー

自衛隊で6年間勤務した編集長を中心に、自衛隊時代の仲間やサバゲーを通じた知人と記事を制作。経験と公開資料をもとに、装備の仕組みや歴史、その背景にある人々の工夫を掘り下げています。「かっこいい」から、その先の理解へ。編集長のプロフィール → 運営・編集方針

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