8月23日、港が閉じた
1945年8月23日、ソ連軍は大泊港を閉鎖した。25日にはソ連軍が大泊を占領した。
その瞬間、樺太に残っていた約30万人の日本人の、帰る道が消えた。
8月13日から11日間、大泊と真岡の港からは老人と女性と子どもを乗せた船が出続けていた。島を出られたのは約8万人。40万人の2割である。残る8割は、船に乗る順番が来る前に、港を閉じられた。閉じたのは、日本が降伏を公表してから8日後の、ソ連軍である。
「樺太から引き揚げた」と祖父母が言うとき、それは二つの全く違う経験のどちらかを指している。8月の11日間に逃げた経験か、港を閉じられて1年から4年をソ連の統治下で過ごし、決められた日に決められた船で「返された」経験かである。時期も、主体も、港も、持ち出せたものも違う。その間には、闇船で宗谷海峡を渡った人がいて、どちらの船にも乗れなかった人がいる。
この記事では、樺太から日本人が島を出た経路を五つに分けて整理し、それぞれが何を意味したのかを見る。緊急疎開の船が撃たれた事件は三船殉難事件で、疎開が行われていた最中の戦況は樺太の戦いで書いている。
全体像|40万人はどう島を出たのか
| 経路 | 時期 | 決めた側 | 対象 | 人数(概数) | 港 |
|---|---|---|---|---|---|
| 緊急疎開 | 1945年8月13日〜23日 | 樺太庁・第5方面軍 | 老人・女性・子ども | 約7万6千〜8万8千人 | 大泊→稚内、真岡→小樽 |
| 密航(脱出) | 1945年秋〜1946年 | 本人 | 誰でも | 約2万4千人(諸説) | 樺太各地→宗谷・稚内 |
| 前期集団引揚 | 1946年12月〜1949年7月 | 米ソ協定・ソ連当局 | 残留日本人 | 約31万1千人 | 真岡→函館 |
| 後期集団引揚 | 1957年〜1959年 | 日ソ共同宣言後の交渉 | 前期で帰れなかった人と家族 | 約2,300人 | 真岡→舞鶴・小樽 |
| 残留 | ― | ― | 朝鮮人、日本人配偶者ほか | 朝鮮人約2万3千人、日本人数百人 | ― |
「決めた側」の列を見てほしい。本人が決めたのは、密航だけである。あとの四つは、樺太庁が決め、ソ連が決め、米ソが決めた。40万人は、自分がいつ、どの船で、何を持って島を出るかを、ほとんど自分で決めていない。
緊急疎開|11日間で8万人、老人・女性・子どもだけ

8月11日にソ連軍が国境を越えた2日後、樺太庁は住民の緊急疎開を決めた。長官は大津敏男。第5方面軍と協議のうえ、対象を老人・女性・子どもとし、働き盛りの男性は残留させた。労働力と防衛のためである。
出口は二つだった。大泊から稚内へ渡る宗谷航路と、真岡から小樽へ向かう航路。連絡船に加えて、貨物船、ケーブル敷設船、海軍の特設艦が徴用され、人を詰め込めるだけ詰め込んで往復した。
稚内には数日で数万人が下船した。港の倉庫、学校、寺に人があふれ、受け入れは限界に達した。8月21日には輸送司令部が「稚内ではなく小樽へ向かえ」と指示し、その結果、22日に留萌沖で三隻が撃たれることになる。
真岡からの疎開は、8月20日のソ連軍上陸で断たれた。大泊からの疎開は、23日にソ連軍が港を閉鎖して終わった。11日間だった。
島を出られたのは約7万6千から8万8千人。資料によって幅があるのは、稚内と小樽で数えられた人数と、樺太側で乗船を記録した人数が一致しないためである。船に乗ったが港に着かなかった人も、その差の中にいる。
疎開は家族を割った。母と子は船に乗り、父と兄は港に残った。船の上の妻は、港に立つ夫を見ながら離れた。この別れが数日のものになるのか、数年のものになるのかを、そのとき知っている人はいなかった。実際には、早くて1年4か月、遅ければ4年だった。その間、樺太からの手紙はほとんど届かなかった。稚内で船を降りた母親たちは、夫が生きているのかどうかも分からないまま、内地で最初の冬を越した。
受け入れた側|稚内と小樽の8月

稚内は、当時の人口が数万人の港町だった。そこに、11日間で数万人が下船した。町の学校、寺、倉庫、駅が収容所になり、北海道庁と稚内町は食料と寝具の手配に追われた。稚内の住民には樺太に親族を持つ人が多く、疎開者を受け入れることは他人事ではなかった。
受け入れの限界はすぐに来た。稚内に降りた疎開者は、順次、列車で旭川や札幌、小樽へ送られた。北海道内に親族のいる人はそこを頼り、いない人は内地へ向かった。
疎開者は「引揚者」としての公的な援護をほとんど受けなかった。1945年8月の時点では、引揚援護の制度そのものが存在していなかったからである。彼らは戦時の避難民として、親族と地域の善意に頼って冬を越した。
取り残された30万人|ソ連占領下の1年から4年
8月下旬、ソ連軍は豊原へ進み、25日には大泊を占領した。島には約30万人の日本人が残っていた。
ソ連軍は樺太庁を民政局の管理下に置き、日本人に対して「従来の仕事を続けよ」と命じた。炭鉱、製紙工場、漁業、農業、鉄道、学校。ソ連には、樺太の産業を動かす労働力が必要だった。日本人がそれだった。
働くことは、生き延びることと同じだった。炭鉱では日本人の坑夫がソ連の管理者の下で石炭を掘り、製紙工場ではソ連向けの紙が作られた。賃金はルーブルで払われたが生活に足りず、家財を売って食料に換える人が増えた。ソ連軍は、日本人の預金を封鎖し、通貨を切り替え、日本人が樺太で築いた財産を、一年かけて紙屑に変えていった。
1946年2月、ソ連は南樺太と千島を自国領に編入し、南サハリン州を置いた。同じ年から、ソ連本土からの入植者が大量に送り込まれた。日本人の家に入植者が同居し、あるいは日本人が家を明け渡した。自分が建てた家の、自分の部屋に、知らない家族が住み始める。日本人とロシア人が同じ町で、同じ工場で働く時期が2年ほど続いた。
峯木師団長と第88師団の将兵、そして樺太庁の幹部はシベリアに送られた。大津長官も1945年末に連行され、抑留された。残された住民には、行政の指導者がいなかった。
この期間の暮らしについて、引揚者の証言は二つに分かれる。「思ったほどひどくなかった」という証言と、「毎日が恐怖だった」という証言である。どちらも本当だった。工場や炭鉱で働く男性にとって、ソ連の管理は厳しいが予測可能だった。一方で、女性にとって、占領軍の兵士が町にいる状況は別の意味を持っていた。樺太では満洲ほどの規模ではないとされるが、女性への暴行は起きている。その問題は特集の黒川開拓団の女性たちで、満洲の事例を軸に扱う。
私は、この「取り残された30万人」の期間を、樺太引き揚げの話の中で最も語られていない部分だと思っている。8月の疎開は劇的で、三船殉難や真岡郵便局の出来事とともに記憶されている。戦後の集団引揚も、函館の港と引揚援護局の記録がある。しかし、その間の1年から4年、日本人がソ連の統治下で働き、財産を失い、待っていた時間は、記録にも記憶にも残りにくい。劇的な出来事がないからである。だが、劇的な出来事がないまま人生の4年間を奪われることが、どれほどのことか。
密航|闇船で宗谷海峡を渡る

正規の出口が閉じた後も、島を出る方法はあった。密航である。
1945年秋から1946年にかけて、樺太西海岸や南岸から、小型の漁船で宗谷海峡を渡る人々が相次いだ。海峡は最も狭いところで約43キロ。天候が良ければ数時間で渡れるが、冬の日本海は荒れる。船は「闇船」と呼ばれ、漁師が金を取って人を運んだ。
密航者の数は約2万4千人とされるが、正確な記録はない。密航は違法であり、ソ連の警備隊に捕まれば収容された。海に出て戻らなかった船もある。稚内や宗谷の海岸に着いた人々は、そこから内地の親族を頼って散っていった。
密航を選んだ人には、共通点がある。緊急疎開で家族を送り出した男性で、自分だけ残ることに耐えられなかった人。ソ連の統治下に入ることを拒んだ人。抑留や逮捕の危険を感じた元軍人や官吏。密航は、待つことを選ばなかった人々の出口だった。自分の国の領土から、自分の国へ帰るために、夜の海を密航しなければならなかった。
前期集団引揚|1年4か月待たされ、現金1,000円で返された
正規の引き揚げが始まったのは、占領から1年4か月後である。
1946年12月、米ソの間で「ソ連地区引揚に関する米ソ協定」が結ばれた。ソ連占領地域にいる日本人を、米国が用意する船で日本へ送還するという取り決めである。これに先立って12月上旬、最初の引揚船が真岡を出港し、函館に着いた。以後、1949年7月まで、真岡と函館の間を引揚船が往復した。
なぜ1年4か月かかったのか。ソ連が日本人を帰す気がなかったからである。炭鉱と工場を動かす労働力として、日本人は必要だった。米国との協定が成立し、入植者が増えて日本人の代わりが揃うまで、ソ連は日本人を島に留めた。帰国の時期を決めたのは、日本人の事情ではなく、ソ連の労働力の都合だった。
北海道の展示資料では、この期間の樺太からの引揚総人員は31万1,452人とされる。函館市史が記す受入総数は31万1,877人で、集計値は一致しない。本稿では前者を用い、内訳が確認できない別の数字を足し引きしない。
持ち出しは厳しく制限された。現金は一人1,000円まで、荷物は自分で運べる分だけとされる。乗船前の検査で貴重品は没収され、書類や写真も改められたと伝えられる。家、家財、店、田畑、漁船、預金。樺太で築いた財産のほぼすべてが、船に乗る前に消えた。何十年かけて開いた土地と、そこに建てた家と、そこに埋めた親の墓を、手荷物一つで置いていった。
引揚船の中で、8月の疎開で別れた家族の消息を初めて知った人も多い。稚内で待っていた妻子と函館で再会した夫もいれば、樺太で死んだ家族の話を船の中で聞いた人もいる。留萌沖で沈んだ船に妻子が乗っていたことを、函館に着いてから知った人がいる。
緊急疎開が「逃げる」経験だったとすれば、集団引揚は「返される」経験だった。自分で船を選ぶこともできず、持ち物も選べず、決められた日に決められた港へ集められ、決められた船に乗った。それでも、帰れたことに違いはない。帰れなかった人が、この後に出てくる。
函館に着いてから|引揚援護局と定着

函館には引揚援護局が置かれ、樺太と千島からの引揚者を受け入れた。船を降りた人々は検疫を受け、身元と行き先を確認され、帰郷のための列車の手配を受けた。持ち出せなかった財産の代わりに、当座の生活費と食料が支給された。
引揚者の多くは北海道に留まった。樺太出身者の親族は北海道に多く、内地に帰る先を持たない人もいたからである。戦後の北海道では引揚者を対象とした開拓事業が行われ、樺太から帰った人々が新たな入植地に入った。樺太で農場や漁場を持っていた人が、もう一度、原野を開くところから始めた。
1948年、樺太出身者の団体として全国樺太連盟が結成された。引揚者の相互扶助、樺太に残された財産の補償要求、慰霊、記録の編纂を担い、『樺太終戦史』もこの団体の手で編まれた。残された財産への補償は、実現しなかった。連盟は2021年に解散し、資料は稚内市樺太記念館などに引き継がれている。樺太を知る世代が去り、記録だけが残る段階に入った。
後期集団引揚|1957年から1959年、12年目の帰国
1949年7月で前期の集団引揚は終わった。しかし、帰れなかった日本人が残っていた。ソ連当局に拘束されていた人、朝鮮人やロシア人と結婚していて対象から外れた人、病気で乗船できなかった人である。
1956年の日ソ共同宣言で国交が回復し、翌1957年から1959年にかけて、後期集団引揚が行われた。約2,300人が舞鶴や小樽に上陸した。この数には、日本人本人だけでなく、朝鮮人の夫や子どもも含まれている。
後期引揚の対象者は、8年から14年をソ連統治下で過ごしていた。子どもはロシア語で育ち、日本語を話せない者もいた。帰国は再会であると同時に、もう一つの断絶でもあった。舞鶴での引き揚げ全体は舞鶴の引き揚げで書く。
帰れなかった人々|線の外側に置かれた人
集団引揚の対象は「日本人」だった。ここで、樺太にいた朝鮮人の問題が生じる。
戦前、樺太には炭鉱や土木の労働力として朝鮮半島から連れてこられた人々が約4万3千人いた。彼らは日本の統治下では「日本国籍」だったが、米ソ協定の引揚対象からは外された。日本は敗戦によって朝鮮の統治権を失い、彼らを「日本人」として引き取らなかった。ソ連は彼らを労働力として残した。
こうして約2万3千人の朝鮮人が樺太に取り残された。彼らの故郷は主に朝鮮半島南部だったが、冷戦下で韓国との往来はなく、北朝鮮への帰国も多くは望まなかった。韓国に一時帰国できるようになったのは1990年前後、永住帰国の枠組みができたのは2000年である。半世紀の残留だった。ソ連は彼らを使い、日本は彼らを引き取らなかった。この責任は、ソ連だけのものではない。
朝鮮人と結婚した日本人女性も、樺太に残った。夫が引揚対象でない以上、妻も残るしかなかった。彼女たちの数は数百人とされる。1990年代に入って、民間団体の支援で一時帰国が始まり、その後、中国残留邦人等支援法の対象に樺太残留邦人が含められて、永住帰国の道が開かれた。2020年代の現在も、サハリンには高齢の残留日本人が暮らしている。
引き揚げの制度は「誰が日本人か」を線引きした。その線の外側に、朝鮮人労働者と、彼らの日本人の妻がいた。
二つの「帰国」を比べる
| 緊急疎開(1945年8月) | 前期集団引揚(1946〜49年) | |
|---|---|---|
| 性格 | 戦時の避難 | 占領地からの送還 |
| 決めた側 | 樺太庁と日本軍 | 米ソ協定とソ連当局 |
| 対象 | 老人・女性・子ども | 残留日本人全般 |
| 期間 | 11日間 | 2年8か月 |
| 人数 | 約8万人 | 約28万人 |
| 出港地 | 大泊・真岡 | 真岡 |
| 到着地 | 稚内・小樽 | 函館 |
| 持ち出し | 手荷物(規定なし) | 現金1,000円と手荷物 |
| 危険 | 攻撃(三船殉難) | 占領下で待つ間の生活 |
| 家族 | 分断された | 再会、または死を知った |
二つの帰国は、同じ人の家族史の中で連続している。8月に妻子を送り出した男性が、1947年に函館で再会する。あるいは、8月に船に乗った妻子が留萌沖で死に、1948年に帰った夫がそれを知る。緊急疎開と集団引揚は、別々の出来事ではなく、一つの家族が二度に分けて島を出た記録である。
祖父母が「引き揚げた」と言ったとき、港の名前は経路を知る手がかりになる。ただし、港だけで時期を決めることはできない。稚内・小樽は1945年8月の緊急疎開、函館は1946〜49年の前期集団引揚、舞鶴・小樽は1957〜59年の後期集団引揚に関わる。港に加えて到着年や船名を照合したい。宗谷や稚内の海岸に「船で着いた」という話なら、密航の可能性もある。
家族史を調べるには

樺太から引き揚げた祖父母の経路を調べる手がかりを挙げておく。
外務省が保管しているのは、旧樺太の知床・富内・遠淵・内路・散江・元泊の6村の戸籍簿・除籍簿原本である。本人や親族は、所定の書類を添えて写しの交付を申請できる。樺太の全市町村の戸籍を取得できる制度ではない。
引揚援護局の記録は、厚生労働省と国立公文書館に引き継がれている。函館や舞鶴で受け入れた引揚者の名簿は閲覧に制限があるが、本人や遺族からの照会に応じる仕組みがある。舞鶴引揚記念館には、後期集団引揚を含む舞鶴上陸者の資料がある。
稚内市樺太記念館には、樺太の町ごとの写真、地図、証言が集められている。祖父母の住んでいた町の名前が分かれば、その町がどの経路で疎開し、どう占領されたかを、記念館の資料から辿ることができる。
そして、本人が生きているなら、港の名前を聞くことである。稚内か、小樽か、函館か、舞鶴か。その名前に到着年や船名を重ねれば、この記事の表のどの経路だったかを絞り込める。
判定|樺太の引き揚げは「一度」ではなく、「帰った」のでもなかった
三段階で判定する。
事実の判定。樺太からの日本人の帰国は、1945年8月の緊急疎開(約8万人、稚内・小樽)、1945〜46年の密航(約2万4千人)、1946〜49年の前期集団引揚(約31万1千人、函館)、1957〜59年の後期集団引揚(約2,300人、舞鶴・小樽)の四つの経路で行われた。朝鮮人約2万3千人と日本人配偶者数百人は引揚対象から外れ、残留した。前期集団引揚で持ち出せたのは現金1,000円と手荷物のみで、財産のほぼすべてが樺太に残された。
意図の判定。緊急疎開が11日間で終わったのは、ソ連軍が疎開の出口である真岡と大泊を順に押さえたためであり、30万人が占領下に残されたのはその結果である。集団引揚が1年4か月後まで始まらなかったのは、ソ連が日本人を労働力として使い、代わりの入植者が揃うまで帰さなかったためである。引き揚げの時期と規模と持ち物は、日本人の事情ではなく、ソ連の作戦と統治の都合で決まった。
歴史の判定。「樺太から引き揚げた」という一言の中に、8月に逃げた人、闇船で渡った人、4年待って現金1,000円で返された人、帰れなかった人がいる。40万人のほぼ全員が、自分がいつ、どの船で、何を持って島を出るかを自分で決めていない。彼らは帰ったのではなく、追われ、留められ、返された。祖父母の港の名前を聞くことから、この違いは始まる。
同じ「引き揚げ」でも、満洲からの引き揚げは全く違う経過をたどった。その記録は満蒙開拓団の逃避行で書く。特集全体はソ連の対日侵攻と日本人被害から辿ってほしい。
よくある疑問
樺太の緊急疎開の対象は誰でしたか
老人・女性・子どもが対象で、働き盛りの男性は労働力と防衛のために残留させられた。1945年8月13日から23日までの11日間に約7万6千〜8万8千人が大泊から稚内へ、真岡から小樽へ渡った。
樺太の集団引揚はいつからいつまでですか
前期集団引揚は1946年12月から1949年7月まで、真岡から函館へ約31万1千人。後期集団引揚は1957年から1959年まで、舞鶴や小樽へ約2,300人が帰った。
樺太からの引き揚げで持ち出せたものは何ですか
前期集団引揚では現金一人1,000円までと自分で運べる手荷物のみとされる。家、家財、店、預金、漁船などはすべて置いていくしかなかった。残された財産への補償は、戦後も実現しなかった。
樺太の戸籍はどこで取れますか
外務省が写しの交付申請を受け付けるのは、保管している旧樺太6村の戸籍簿・除籍簿原本に限られる。本人や親族は、外務省の案内に従って申請できる。
樺太に残った朝鮮人はどうなりましたか
約2万3千人が引揚対象から外れて残留した。韓国への一時帰国が可能になったのは1990年前後、永住帰国の枠組みができたのは2000年である。







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