満蒙開拓団の逃避行|27万人の開拓民に何が起きたのか

満蒙開拓団の逃避行
目次

国境の近くに、女と子どもと老人だけの村があった

国境の近くに、女と子どもと老人だけの村があった

そこにいたのは、約27万人のうち、22万人あまり。残りの4万7千人、つまり18歳から45歳までの男性は、その1か月前に軍に召集されて村を出ていた。村に残っていたのは、女性と、子どもと、老人だった。

彼らは、ソ連軍が来たことを知らされなかった。守るはずの関東軍は、先に南へ移動していた。村を出た人々は、荷物を背負い、乳飲み子を抱えて、徒歩で数百キロを南へ逃げた。途中で襲われ、川で溺れ、食べるものがなくなり、追い詰められて自ら死を選び、たどり着いた収容所では冬の寒さと病気が待っていた。

8万人が死んだ。27万人の3人に1人である。

この記事では、なぜ彼らが国境にいたのか、なぜ男がいなかったのか、なぜ知らされなかったのか、逃避行の中で何が起き、収容所の冬で何が起きたのか、そして誰の責任だったのかを順に追う。個別の事件は別の記事で書く。8月14日の葛根廟事件、8月12日の麻山事件、女性たちが差し出された黒川開拓団、そして親と引き離された子どもたちの中国残留孤児である。ここでは、27万人全体に起きたことを書く。

なぜ国境にいたのか|国策としての満蒙開拓

農村の暮らしを支えた道具
農村の暮らしを支えた道具。

満蒙開拓は、1932年の試験移民に始まる。満洲事変の翌年である。1936年、広田内閣は「二十カ年百万戸送出計画」を国策として決定し、20年で100万戸、500万人を満洲に送ると定めた。実際に渡ったのは、1945年までに約27万人。約800の開拓団と、満14歳から18歳の少年で組織された満蒙開拓青少年義勇軍を合わせた数である。

送り出したのは、貧しい農村だった。1929年の世界恐慌で生糸の価格が暴落し、養蚕で生計を立てていた村々が困窮した。長野県からは全国最多の約3万3千人が渡り、2位の山形県の2倍以上だった。県の南部、飯田・下伊那地域が最も多くの団を出している。村ぐるみで移住する「分村」も行われた。

行き先は、国境の近くだった。開拓団の多くは、ソ連との国境に近い東部と北部、東安省、三江省、牡丹江省、北安省などに置かれた。理由は「北辺鎮護」、つまりソ連に対する人的な防壁である。開拓団は農業移民であると同時に、有事には国境を守る予備兵力として位置づけられていた。だから、最も危険な場所に置かれた。

もう一つ、書いておかなければならないことがある。開拓団が入植した土地の6割は、中国人や朝鮮人がすでに耕していた既耕地を、安値で買収したものだった。開拓とは名ばかりで、実態は現地の農民から土地を取り上げることだった。この事実は、1945年8月に、開拓団が現地住民から襲われる理由になる。

開拓団の人々は、国の宣伝を信じ、貧しさから逃れるために海を渡り、国境に置かれた。彼らが置かれた場所と、彼らが手にした土地の来歴が、3年後、あるいは10年後に、彼ら自身に返ってくることになる。

少年たちの義勇軍

木の机が並ぶ古い教室
木の机が並ぶ古い教室。
少年たちの義勇軍

彼らは家族と離れ、少年だけで国境近くの訓練所にいた。1945年8月、訓練所は開拓団と同じく置き去りにされた。少年たちは団ごとに逃げ、あるいは関東軍の部隊に組み込まれてソ連軍と戦い、武装解除の後はシベリアへ送られた。14歳で単身満洲へ渡り、帰国したのは敗戦から3年後だったという証言が、記念館に残っている。彼らが所属した団は、集団自決の道をたどった。

国は、農家の次男三男に「満洲で一人前の農民になれる」と説き、少年を送り出した。少年たちが国境で迎えたのは、開拓ではなく、逃避行と収容所と抑留だった。

1945年7月|根こそぎ動員で、男がいなくなった

1945年夏、関東軍は南方への兵力転用で空洞化していた。その穴を埋めるため、7月、満洲の在留邦人の男性を大規模に召集した。「根こそぎ動員」である。開拓団からは、18歳から45歳の男性、約4万7千人が召集された。

開拓団の男性は、農業の担い手であると同時に、有事の際に団を守る役割を負っていた。その男性が、ソ連侵攻の1か月前に、村から消えた。残された22万人は、女性と子どもと老人だった。

満蒙開拓平和記念館の語り部の一人は、父親が根こそぎ動員で召集され、村を去っていく背中に向かって母親が言った言葉を、80年近く経っても忘れられないと語っている。あの人はもう帰ってこないだろう、と母親は言った。その父親はシベリアに抑留され、朝鮮で死んだと聞かされているが、確認はできていない。

1945年7月

8月9日|知らされなかった

8月9日未明、ソ連軍が三方向から国境を越えた。

関東軍司令部は、この日のうちに軍人の家族を列車で新京から南へ送り出す手配を始めた。10日夜から11日にかけて、軍の家族を乗せた列車が出た。同じ時期、国境近くの開拓団の多くは、ソ連軍が来たことすら知らされていなかった。

理由は二つある。第一に、関東軍は7月の時点で、国境地帯を放棄して南東部の山岳地帯で持久する作戦を決めていた。国境の開拓団は、この計画の中で守る対象ではなかった。第二に、通信が途絶した。電話も電信も、ソ連軍の攻撃と関東軍の後退で早々に使えなくなり、開拓団に避難命令が届く経路がなかった。

団によっては、砲声で侵攻を知った。団によっては、数日後に通りかかった逃避民から聞いた。団によっては、ソ連軍の戦車が村に入ってくるまで知らなかった。

軍の家族には列車があり、通知があった。開拓団には、どちらもなかった。

逃避行|女と子どもと老人が、数百キロを歩く

荷車とともに道を歩く家族
荷車とともに道を歩く家族。

侵攻を知った開拓団は、団ごとに村を捨てて南へ向かった。目指したのは、牡丹江、ハルビン、新京といった鉄道のある都市である。そこまで行けば、列車で南へ逃げられると考えた。

地域主な逃避先距離の目安主な障害
東部(東安省・牡丹江省)牡丹江→ハルビン数十〜200キロ以上ソ連軍の最初の突入路。戦車、空襲、山岳地帯
北部(三江省・北安省)ハルビン、方正100〜300キロ松花江などの大河、湿地、現地住民の襲撃
西部(興安総省)白城子→新京数十〜100キロ以上草原で遮蔽物なし。戦車隊の襲撃(葛根廟)

列は、女性と子どもと老人でできていた。荷物は日ごとに減り、食料は数日で尽きた。8月の満洲は日中は暑く、夜は冷える。雨が降れば道はぬかるみ、川は増水した。歩けなくなった老人が置いていかれ、泣き止まない乳飲み子が、追手に気づかれないよう、母親の手で口を塞がれた。

襲ったのは、ソ連軍だけではなかった。満洲国軍の現地兵が離反して銃を向けた。そして、開拓団が土地を取り上げた現地の農民が、日本の敗北を知って、開拓団の列を襲った。奪われた土地の恨みは、8月15日を境に、一斉に返ってきた。

追い詰められた団は、集団で死を選んだ。8月12日の麻山では哈達河開拓団の400人以上が、逃げ切れないと判断して命を絶った。同じ判断をした団は、一つではない。

集団の生存と引き換えに、若い女性をソ連兵に差し出した団もあった。この事実が語られるまでには、70年近くかかった。

そして、逃避行の途中で、子どもが手放された。生き延びさせるために中国人に預けた親、死んだと思って置いてきた親、自分が死んで子どもだけが残った家族。数千人の子どもが、中国人の家庭で育つことになる。

逃避行の中で起きたことの一つひとつは、それぞれの記事で書く。ここで押さえておきたいのは、27万人のうち22万人が、8月9日から数週間、この状態に置かれたということである。

収容所の冬|8万人の大半はここで死んだ

木造の宿舎に並ぶ寝台
木造の宿舎に並ぶ寝台。
収容所の冬

つまり、1945年の冬を、彼らは収容所で越さなければならなかった。

満洲の冬は零下30度を下回る。収容所には暖房も食料も足りず、衣服は逃避行で失われていた。発疹チフスが流行し、栄養失調で体力を失った人々が次々に死んだ。凍死、餓死、病死。逃避行を生き延びた人が、冬を越せなかった。

北部の方正には、周辺の開拓団から約1万5千人が集まり、その冬に約5千人が死んだとされる。方正には後に、中国政府の許可を得て日本人の公墓が建てられている。それが、逃避行と収容所の死者の、数少ない記憶の場所の一つである。

収容所の冬

8万人はどう死んだか

死因別の正確な統計は存在しない。逃避行と収容所の混乱の中で、誰がどこでどう死んだかを数える者はいなかった。だが、主な死因と、判明している事例は示せる。

死因状況判明している事例
ソ連軍の攻撃戦車、空襲、銃撃。避難民の列への攻撃葛根廟(8月14日、1,000人以上)、双明子(8月17日、東京荏原開拓団964人が遭難)
現地住民・離反兵の襲撃土地を奪われた農民、満洲国軍の現地兵各地の開拓団で多数
集団自決逃げ切れないと判断した団麻山(8月12日、400人以上)ほか多数
逃避行中の衰弱・溺死・病死飢え、疲労、渡河数え切れない
収容所での病死・餓死・凍死発疹チフス、栄養失調、零下30度方正(約5千人)ほか各地

満洲全体の民間人死者は約24万人とされ、そのうち開拓団の8万人は3分の1にあたる。在満日本人155万人のうち開拓団は27万人、2割に満たない。人口比で見れば、開拓団の死亡率は他の日本人の2倍近い。国境に置かれ、男を抜かれ、知らされず、歩いて逃げた人々が、最も多く死んだ。

日付で見る22万人の8か月

時期出来事開拓団の状況
1945年7月根こそぎ動員男性4万7千人が召集される
8月9日ソ連軍侵攻多くの団に知らされず。砲声で知る
8月10〜11日関東軍が軍人家族を列車で南送開拓団は徒歩で逃避開始
8月12〜17日麻山、葛根廟、双明子集団自決と襲撃が相次ぐ
8月15日玉音放送逃避行の途中。現地住民の襲撃が始まる
8月19日関東軍が停戦交渉開拓団はなお逃避行中
8月末〜9月主要都市に収容所生き延びた人々が収容される
1945年冬零下30度、発疹チフス死者の大半がこの冬に出る
1946年5月葫蘆島から引き揚げ開始生存者が帰国の途に
1948年集団引揚がほぼ完了残留孤児・婦人は中国に残る

侵攻から帰国まで、最短でも9か月。逃避行は数週間だったが、その後の冬が、逃避行より多くの人を殺した。

帰国|1946年5月、葫蘆島から

船を待つ人々と港の荷物
船を待つ人々と港の荷物。

引き揚げは、ソ連軍が撤退し、中国側との調整がついた1946年5月、遼東半島の葫蘆島から始まった。米軍が用意した船で、1948年までに約105万人が帰国している。開拓団の生存者もこの中にいた。

長野県の数字で見てみる。送り出したのは約3万3千人。無事に帰ってきたのは約1万7千人。中国に残留した孤児と婦人が約1,100人。差し引き、約1万6千人が帰ってこなかった。県として最大の戦争被害である。しかしこの数字は、戦後長く語られなかった。

帰国した人々にも、帰る場所はなかった。分村で村ごと満洲に渡った人々は、故郷の田畑をすでに手放していた。多くは戦後開拓として、国内の未開地に再び入植した。満洲で一度原野を開き、帰国してもう一度、原野を開いた。

なぜ語られなかったのか

満蒙開拓の歴史は、戦後長く語られなかった。理由は三つある。

第一に、経験があまりに壮絶で、本人たちが語ろうとしなかった。子どもを手放した親、家族を置いてきた人、集団自決の生き残り。語ることは、思い出すことだった。

第二に、地域の中に、満洲行きを推し進めた立場の人がいた。村長、学校長、農会の指導者。彼らは戦後も同じ村に住んでいた。責任を問えば、村が割れる。だから、問わなかった。

第三に、開拓団の土地の問題である。手に入れた土地の多くが、現地住民から取り上げたものだった。被害を語れば、加害も語らなければならない。その重さが、口を閉ざさせた。

長野県阿智村に満蒙開拓平和記念館が開館したのは、2013年である。敗戦から68年が経っていた。全国どこにも開拓団の歴史を伝える施設がないことが、設立の理由だった。記念館では今も、元開拓団員が月に2回、語り部として証言している。2024年には、各団の入植地、時期、人数、死者数をまとめたデータが公開された。

誰の責任か

この記事はソ連の行為を記録する特集の一部である。だが、開拓団の8万人について、責任をソ連だけに求めることはできない。順に書く。

ソ連の責任。ソ連軍は、日本が降伏の意思を伝えた後も作戦を続け、避難民の列を攻撃した。葛根廟で戦車が女性と子どもの列に何度も突入したのは、その典型である。そして、満洲を占領した8か月の間、日本人の帰国を認めなかった。8万人の大半が死んだ収容所の冬は、その8か月の中にある。ソ連はさらに、根こそぎ動員で召集された開拓団の男性を、武装解除ののちシベリアへ送った。

日本の責任。国は、貧しい農村の人々を国策で満洲に送り、国境に置き、人的防壁と位置づけた。侵攻の1か月前に男性を召集して村から抜き、侵攻の1か月前に国境放棄の作戦を決めながら、開拓団には知らせなかった。侵攻が始まると、軍の家族を列車で先に逃がし、開拓団を置き去りにした。開拓団は、ソ連に殺される前に、日本に見捨てられていた。

そして、土地の問題。開拓団が入植した土地の6割は、現地の農民から取り上げたものだった。8月15日以降、その農民が開拓団を襲ったことは、正当化できないが、理由のないことではなかった。開拓団の人々は、国策の被害者であると同時に、国策の道具として現地の人々に加害する立場に置かれていた。その両方が、一人の人間の中にあった。

私は、この三つの責任を並べたうえで、それでもソ連の責任を最初に書く。日本が国境に置いた人々を、ソ連が殺し、留め、冬を越させた。日本の責任は、彼らを危険な場所に置いたことである。ソ連の責任は、その場所で、降伏した国の女性と子どもと老人を攻撃し、帰さなかったことである。置いた側と、殺した側は、同じではない。

判定|開拓団の8万人は「国策の犠牲」であり「侵攻の犠牲」である

三段階で判定する。

事実の判定。1945年8月、満蒙開拓団約27万人のうち、男性約4万7千人は7月の根こそぎ動員で召集され、残る22万人あまりは女性・子ども・老人だった。彼らはソ連軍の侵攻を知らされないまま徒歩で逃げ、襲撃、自決、逃避行中の衰弱、収容所での病死・餓死・凍死によって約8万人が死亡した。死者の大半は、ソ連占領下の1945年冬に収容所で死んでいる。

意図の判定。開拓団が国境に置かれたのは日本の国策であり、男性が抜かれ、知らされず、置き去りにされたのは関東軍の判断である。しかし、降伏の意思を伝えた国の避難民を攻撃し、占領地からの帰国を8か月間認めなかったのはソ連の判断である。ソ連にとって満洲の日本人は、保護すべき民間人ではなく、領土と労働力を確保するまでの間、留め置くべき存在だった。

歴史の判定。開拓団の人々は、国に送り出され、国に見捨てられ、ソ連に殺され、帰国しても迎えられなかった。彼らが土地を取り上げた側でもあったという事実は、その被害を消さない。8万人の死は、国境に人を置く国策と、降伏した国の民間人を攻撃し留め置く侵攻の、二つが重なった結果である。どちらか一方だけを語ることは、この8万人を二度置き去りにすることになる。

満洲の被害全体の中での位置づけは、特集の入口ソ連の対日侵攻と日本人被害で整理している。逃避行の中で起きた個別の出来事は、葛根廟事件、麻山事件、黒川開拓団の女性たち、二日市保養所、中国残留孤児で書く。

よくある疑問

満蒙開拓団は何人渡り、何人死んだのですか

1945年の敗戦時点で約27万人(青少年義勇軍を含む)が満洲にいた。そのうち約8万人が、ソ連軍の侵攻後の逃避行と収容所生活で死亡したとされる。

なぜ開拓団は国境の近くに置かれたのですか

「北辺鎮護」、つまりソ連に対する人的な防壁として位置づけられていたためである。開拓団は農業移民であると同時に、有事の予備兵力として、東安省や三江省など国境に近い地域に集中して入植させられた。

開拓団の男性はどこにいたのですか

1945年7月の根こそぎ動員で、18歳から45歳の男性約4万7千人が召集され、村を離れていた。残された22万人あまりは女性・子ども・老人だった。召集された男性の多くは戦死するか、シベリアに抑留された。

なぜ長野県からの開拓団が多かったのですか

世界恐慌後の生糸価格の暴落で養蚕農村が困窮したこと、地元の行政・教育界に満蒙開拓の推進者が多かったことが理由とされる。長野県からは全国最多の約3万3千人が渡り、約1万6千人が帰ってこなかった。

出典・参考

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この記事を書いた人

軍研ノート編集部のアバター 軍研ノート編集部 自衛隊・兵器 / 戦史 / サバゲー

自衛隊で6年間勤務した編集長を中心に、自衛隊時代の仲間やサバゲーを通じた知人と記事を制作。経験と公開資料をもとに、装備の仕組みや歴史、その背景にある人々の工夫を掘り下げています。「かっこいい」から、その先の理解へ。編集長のプロフィール → 運営・編集方針

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