「ダモイ」という嘘
1945年8月末から9月にかけて、満洲、樺太、千島で武装解除された日本軍の将兵は、ソ連兵からこう告げられた。「ダモイ」。ロシア語で「帰国」を意味する。「東京ダモイ」と言われた者もいる。
兵士たちは貨車に乗せられた。列車は南へ、港へ、日本へ向かうはずだった。だが、列車は北へ走った。満洲里を越え、綏芬河を越え、シベリア鉄道に入った。窓のない貨車の中で、方角に気づいた者が最初に絶望した。
着いた先は、シベリア、極東、中央アジア、モンゴル、そしてヨーロッパ・ロシアに散らばる約2,000の収容所だった。最初の冬が来た。零下30度から40度。黒パン300グラムの配給。森林伐採と鉄道建設。朝、目を覚ますと、隣の寝床の仲間が死んでいた。それが、毎日のように起きた。
日本政府の調査では、抑留された日本人は約57万5千人。そのうち約5万5千人が死んだ。帰国は1946年12月に始まり、最後の集団帰国船が舞鶴に着いたのは1956年12月、11年後である。
これがシベリア抑留である。この記事では、抑留がなぜ起きたのか、誰が連れて行かれたのか、そこで何があったのか、帰国はどう進んだのか、そして日本がこの被害をどう扱ったのかを、決定から補償まで順に追う。女性の抑留、山本幡男の遺書、記録の調べ方、舞鶴の引き揚げは、それぞれ独立した記事で書く。ここでは全体像を示す。
8月23日|スターリンの署名
抑留を決めた文書は、日付とともに残っている。
1945年8月23日、ソ連の国家防衛委員会は決定第9898号を出した。満洲、樺太、千島で武装解除した日本軍将兵のうち、約50万人を選んでソ連領内に移送し、労働に使うという内容である。起草したのは内務人民委員ベリヤ、署名したのはスターリンだった。
日本が降伏を公表してから8日後、降伏文書の調印より10日前である。
なぜ、ソ連は日本兵を連れて行ったのか。理由は明確で、労働力である。ソ連は対独戦で2,000万人以上を失い、国土の西半分が荒廃していた。復興のために、働く人間が足りなかった。ドイツ兵の捕虜はすでに使っていた。日本兵50万人は、その追加だった。
もう一つ、時期を見ておく必要がある。8月16日、スターリンはトルーマンに北海道北半分の占領を要求した。18日、トルーマンはこれを拒否した。その5日後の23日に、日本兵の移送が決定されている。北海道という「土地」を取れなかったソ連が、代わりに日本人という「労働力」を取ったのだと見る研究者は多い。北海道をめぐる経緯はソ連の北海道占領計画で書く。
ここで、日本が受諾した文書を思い出してほしい。ポツダム宣言の第9項は、日本軍は武装解除の後、各自の家庭に復帰して平和的かつ生産的な生活を営む機会を与えられる、と定めている。ソ連は8月8日にこの宣言に加わり、その2週間後に、武装解除した日本兵を家庭ではなく収容所へ送った。
誰が連れて行かれたのか

抑留されたのは、兵士だけではない。
| 区分 | 概要 |
|---|---|
| 関東軍の将兵 | 満洲で武装解除された部隊。根こそぎ動員で7月に召集された開拓団の男性を含む |
| 樺太・千島の守備隊 | 第88師団(樺太)、第91師団(占守島)など。8月15日以降に戦った部隊がそのまま送られた |
| 満洲国の官吏・満鉄職員 | 行政官、警察官、南満洲鉄道など国策会社の職員 |
| 民間人 | 開拓団の男性、商工業者、樺太庁の職員など |
| 女性 | 従軍看護婦、電話交換手、軍属など。男性とは別の収容所に |
| 少年 | 満蒙開拓青少年義勇軍など、10代で送られた者 |
| 「戦犯」とされた人々 | 軍や満洲国の高官、特務機関、細菌戦・化学戦の関係者など約2,000数百人。ハバロフスクやイワノボの収容所で長期抑留 |
厚生労働省の集計は次の通りである。旧ソ連地域に抑留された者、約57万5千人(うちモンゴル約1万4千人)。帰還した者、約47万3千人。死亡した者、約5万5千人。このうち氏名が特定された死者は、2019年末の時点で4万1,362人である。残る1万数千人は、名前も分からないまま、どこかに埋められている。
なお、研究者の中には、ソ連崩壊後に公開された資料をもとに、抑留者も死者もこれより多いとする推計を示す者がいる。この記事は政府の公表値を基本にするが、5万5千人が下限であることは、覚えておいてよい。
移送|北へ向かう貨車

武装解除は8月下旬から9月にかけて行われた。兵士たちは集結地に集められ、貨車に乗せられた。
貨車は家畜用のもので、一両に数十人が詰め込まれた。「ダモイ」と言われた者は、港へ向かうと信じていた。列車が北へ向かっていることに、途中で気づいた。降りることはできなかった。
満洲からはシベリア鉄道の東部へ、樺太からは大陸へ渡ってハバロフスク方面へ、千島からはカムチャツカを経てシベリアへ。到着したのは10月から11月、シベリアの冬が始まる時期だった。夏服のまま送られた者が多かった。収容所には、暖房も、防寒具も、十分な食料もなかった。
収容所は約2,000か所。イルクーツク、ハバロフスク、チタ、クラスノヤルスク、沿海地方、ブリヤート、モンゴル、そしてカザフスタンやウズベキスタンの中央アジア、さらにヨーロッパ・ロシアのイワノボまで。日本兵は、ソ連の国土全体に散らばった。
主な収容地域と労働を整理しておく。
| 地域 | 主な収容地 | 主な労働 |
|---|---|---|
| 沿海地方 | ナホトカ、ウォロシロフ(現ウスリースク) | 港湾建設、農作業。ナホトカは帰国船の出港地 |
| ハバロフスク地方 | ハバロフスク、コムソモリスク、ワニノ | 建設、森林伐採、鉄道 |
| ザバイカル | チタ | 炭鉱、鉄道 |
| イルクーツク・ブリヤート | イルクーツク、タイシェト、ウランウデ | バイカル・アムール鉄道の建設、森林伐採 |
| クラスノヤルスク・アルタイ | クラスノヤルスク、ビイスク | 森林、農業、建設 |
| 中央アジア | カラガンダ(カザフスタン)、タシケントなど | 炭鉱、水力発電所、劇場などの建設 |
| モンゴル | ウランバートル | 建設、道路。約1万4千人 |
| ヨーロッパ・ロシア | イワノボ | 「戦犯」とされた高官の長期収容 |
私は「ダモイ」という言葉を、抑留の全体を表す言葉だと思っている。帰国という言葉で北へ運び、帰国の希望で働かせ、帰国の順番で思想を縛り、帰国を1950年に一方的に「完了」と宣言して2,000人を残した。11年間、ソ連は「ダモイ」という言葉を、日本人を動かすために使い続けた。
最初の冬|5万5千人の大半は、ここで死んだ

抑留の死者は、最初の冬に集中している。1945年から46年にかけての冬である。
食糧の基準は、黒パン300グラム、肉50グラム、魚100グラム。1946年には黒パンが350グラムに改定された。だが、基準通りの食料が行き渡ることはほとんどなかった。管理する側の横領があり、届いた食料はさらに減った。飢えに耐えかねて、道端の草を湯がいて食べた者、ネズミを捕って食べた者がいた。
そのうえで、労働があった。零下30度から40度の屋外で、森林を伐り、鉄道を敷き、炭鉱に入った。肌は痺れ、まつげは凍った。粗末な服で屋外にいれば、凍傷になった。収容所の寝床は、ペーチカの周り以外は寒かった。
衰弱した体に、病気が来た。死因の半数は栄養失調である。肺炎、結核、発疹チフスが蔓延した。翌朝、隣の寝床の仲間が死んでいる。それが毎日のように起きた。
死体は、凍土に埋められた。冬の地面は凍っていて、深く掘れなかった。春に雪が解けると、遺体が地面に現れた。埋葬されなかった者もいる。抑留中の死者の名簿に名前のない1万数千人は、こうした死者である。
2年目からは待遇が改善され、死亡率は大幅に下がった。だが、それは最初の冬に死ぬ者が死んだ後のことである。「飢え、寒さ、重労働」。抑留者はこれを「シベリア三重苦」と呼んだ。
労働|賃金は払われなかった

抑留者が従事した労働は、ソ連の復興そのものだった。
森林伐採。バイカル・アムール鉄道の建設。炭鉱と鉱山。工場と住宅の建設。農作業。ナホトカの港、ハバロフスクの建物。日本人抑留者が作ったものは、今もロシアの各地に残っている。
労働にはノルマが課され、達成できなければ食料が減らされた。ノルマは達成できないように設定されていることが多く、食料を減らされた者はさらに働けなくなった。この循環が、最初の冬の死者を増やした。
賃金は、払われなかった。ソ連は抑留者を「捕虜」として扱い、捕虜の労働に対価は不要とした。抑留者が帰国時に受け取ったのは、労働証明書だけである。日本政府もソ連政府も、この労働の対価を今日まで支払っていない。
民主運動|体だけでなく、心も
抑留の2年目から、収容所では思想教育が始まった。「民主運動」と呼ばれる。
ソ連当局は、日本人抑留者の中から協力者を選び、彼らを通じて収容所内に共産主義の学習と、天皇制批判と、旧軍の階級秩序の解体を進めさせた。日本語の機関紙『日本新聞』が配られ、学習会が開かれ、「反動」とされた者は吊し上げにあった。帰国の順番は、思想教育への態度によって左右されると信じられていた。実際に、協力的でない者が帰国を遅らされた例がある。
これは、抑留のもう一つの顔である。ソ連は日本人の体を労働力として使っただけでなく、帰国後の日本に共産主義の支持者を送り込むための教育の対象としても使った。抑留者同士を対立させ、密告させ、互いを監視させた。収容所の中で、日本人は二重に分断された。
帰国した抑留者を、日本の社会は「アカ」と疑った。舞鶴に着いた船の中で「インターナショナル」を歌う帰国者の映像が流れ、就職で差別され、警察に監視された人もいる。ソ連に体を使われ、心を使われ、帰国してからは自国に疑われた。抑留者が長く語らなかった理由の一つは、ここにある。
帰国|1946年12月から1956年12月まで

帰国は段階的に進んだ。
| 時期 | 出来事 |
|---|---|
| 1945年11月 | 日本政府が、関東軍の将兵がシベリアで強制労働をさせられているという情報を得る |
| 1946年9月11日 | 東京のソ連大使館前で約3,000人がデモ。「夫を帰せ」の旗 |
| 1946年12月 | ナホトカから舞鶴へ、最初の帰国船。以後、帰国が本格化 |
| 1947〜49年 | 大多数が帰国。抑留期間は通常3〜4年 |
| 1950年4月 | ソ連が「帰還は完了した」と一方的に発表。「戦犯」とされた約2,000数百人が残される |
| 1953年12月 | スターリン死後、長期抑留者の帰国が再開 |
| 1956年10月 | 日ソ共同宣言。刑期未了の者を含む全員の帰国が決まる |
| 1956年12月26日 | 最後の集団帰国船・興安丸が舞鶴に到着 |
1950年の「帰還完了」宣言の後に残された人々を「長期抑留者」と呼ぶ。ソ連の裁判で有期刑を宣告され、「戦犯」として収容された人々である。その裁判は弁護も証拠も形式的で、数千人が銃殺され、あるいは獄中で死んだとする記録がある。彼らの帰国が実現したのは、11年後の日ソ国交回復によってだった。
舞鶴では、1945年から13年間、引揚船を待ち続けた人々がいた。「岸壁の母」の話は、この港のものである。舞鶴の記録は舞鶴の引き揚げで書く。
日本は何をしたのか|賠償放棄から特措法まで
抑留された人々に対して、日本政府が何をしたかを年表にする。
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1956年 | 日ソ共同宣言。日本とソ連は互いに賠償請求権を放棄。抑留者の未払い賃金も国家間では「決着」 |
| 1981年 | 抑留者がソ連での労働賃金の支払いを求めて日本政府を提訴 |
| 1988年 | 平和祈念事業特別基金が設立。抑留者に慰労金10万円と銀杯などを支給 |
| 1991年 | ゴルバチョフ来日。抑留中死亡者の名簿提供と遺骨収集への協力で合意 |
| 1993年 | エリツィン大統領が来日し、抑留について「非人間的行為」として謝罪 |
| 1997年 | 最高裁が抑留者の賃金請求を棄却。国に補償義務はないと判断 |
| 2010年 | 戦後強制抑留者に係る問題に関する特別措置法。生存者に25万〜150万円の特別給付金 |
| 2015年 | 舞鶴引揚記念館の資料「舞鶴への生還」がユネスコ「世界の記憶」に登録 |
1956年の共同宣言で、日本はソ連に対する賠償請求権を放棄した。抑留者が働いた11年分の賃金は、この時点で国家間では消えた。抑留者は日本政府に対して補償を求めたが、1997年に最高裁は、戦争による被害は国民が等しく受忍すべきものだとして、請求を退けた。
2010年の特措法は、生存する抑留者に抑留期間に応じて25万円から150万円の給付金を支給した。抑留から65年後のことで、対象者の多くはすでに世を去っていた。
そして、遺骨である。厚生労働省は1991年以降、ロシア各地の旧収容所跡で遺骨収集と慰霊巡拝を進めてきた。ただし、2026年9月時点ではロシア現地での事業は困難な状況にある。ロシア側から提供された死亡者名簿を日本側の資料と照合し、氏名を特定して遺族に伝える作業も続いている。2019年末で特定された死者は4万1,362人。未提供の名簿について、日本政府はロシアに提供を要請し続けている。80年経っても、1万数千人の名前が分からない。
帰国後|語らなかった47万人
帰国した約47万3千人の多くは、抑留のことを語らなかった。
理由は重なっている。「アカ」と疑われることへの恐れ。仲間を残して帰ってきたという負い目。飢えの中で人が人でなくなる場面を見た記憶。そして、語っても誰も理解しないという諦め。家族にすら話さないまま亡くなった人が多い。孫が祖父の抑留を知るのは、遺品の中の労働証明書や、厚生労働省からの通知によってであることが少なくない。
一方で、語った人もいた。抑留者の手記と画集は2,000冊を超えるとされる。画家の宮崎静夫や佐藤清のように、収容所の記憶を絵にした人がいる。歌手の三波春夫、後に首相になる宇野宗佑も抑留者だった。ハバロフスクの収容所で死んだ山本幡男の遺書を、仲間たちが記憶で分割して持ち帰った話は、映画になった。
2015年、舞鶴引揚記念館が所蔵する抑留と引き揚げの資料が、ユネスコの「世界の記憶」に登録された。個人が持ち帰った手帳、日記、白樺の皮に書いた文字。国が記録しなかったものを、個人が持ち帰り、それが世界の記憶になった。
「抑留」か「捕虜」か
ソ連は、日本兵を「捕虜」と呼んだ。日本は「抑留者」と呼ぶ。この違いは、言葉の問題ではない。
捕虜とは、戦闘中に敵に捕らえられた兵士である。戦争が続いている間、捕虜を収容することは国際法上認められている。だが、日本は8月14日にポツダム宣言を受諾し、15日に公表し、9月2日に降伏文書に調印した。武装解除は、戦争を終えるための手続きだった。降伏した後に武装解除された兵士を、戦争中の捕虜と同じように扱い、しかも自国領に連行して11年働かせることを認める国際法は、当時も今も存在しない。
ポツダム宣言第9項は、その点を明文で定めていた。ソ連はその宣言に加わって参戦した。加わった宣言を、参戦の2週間後に破った。
だから、日本は「抑留」と呼ぶ。捕らえられたのではなく、帰るはずの人間が、帰されなかったのだと。
判定|シベリア抑留は「戦争の結果」ではなく「戦争の後に行われた連行」である
三段階で判定する。
事実の判定。1945年8月23日、日本の降伏公表の8日後に、ソ連は国家防衛委員会決定第9898号によって武装解除した日本軍将兵約50万人のソ連領内への移送を決定した。約57万5千人が約2,000の収容所に送られ、約5万5千人が死亡し、死者の大半は最初の冬に集中した。帰国は1946年12月に始まり、1956年12月に終わった。労働の賃金は支払われず、氏名が特定されていない死者が1万数千人いる。
意図の判定。抑留の目的は、対独戦で2,000万人以上を失ったソ連の復興のための労働力の確保であり、北海道占領要求が拒否された5日後に決定された。ソ連は自ら加わったポツダム宣言第9項を承知のうえで、降伏した国の兵士を「ダモイ」と偽って北へ運んだ。抑留は戦争の結果ではなく、戦争が終わった後に、労働力を得るために行われた連行である。民主運動は、体に加えて心をも利用しようとした試みだった。
歴史の判定。抑留者は、ソ連に11年働かされ、帰国すれば自国に「アカ」と疑われ、賃金は国家間の賠償放棄で消え、補償は65年後の給付金にとどまった。ロシアの謝罪は1993年の一度だけで、未提供の名簿は今も提供されていない。2026年9月、抑留死者の慰霊の拠点であるハバロフスクに、ソ連兵が日本の国境標石を砕く記念碑が建った。抑留は、ロシアにとって今も「勝利」の一部であり、日本にとっては、5万5千人の名前を探し続ける途上にある出来事である。
抑留の中で女性が置かれた状況は女性の抑留で、遺書を仲間の記憶で持ち帰った男の話は山本幡男で、祖父の記録を調べる方法は抑留記録の調べ方で書く。ハバロフスクの記念碑についてはハバロフスクの対日戦勝記念碑問題を、特集全体はソ連の対日侵攻と日本人被害を参照してほしい。
よくある疑問
シベリア抑留はなぜ起きたのですか
ソ連が対独戦の復興のための労働力を必要としたためである。1945年8月23日、国家防衛委員会決定第9898号で武装解除した日本軍将兵約50万人のソ連領内への移送が決定された。北海道占領要求がトルーマンに拒否された5日後のことで、土地の代わりに労働力を取ったと見る研究者が多い。
何人が抑留され、何人が死んだのですか
厚生労働省の集計では、抑留者約57万5千人(うちモンゴル約1万4千人)、帰還者約47万3千人、死亡者約5万5千人である。氏名が特定された死者は2019年末で4万1,362人。研究者による上方の推計もある。
抑留はいつまで続いたのですか
帰国は1946年12月に始まり、大多数は1947〜49年に帰国した。1950年にソ連が「帰還完了」を宣言した後も「戦犯」とされた約2,000数百人が残され、1956年12月26日の興安丸の入港で全員の帰国が完了した。最長11年である。
抑留者は補償を受けましたか
1988年に慰労金10万円と銀杯、2010年の特措法で生存者に25万〜150万円の給付金が支給された。ソ連での労働の賃金は、1956年の日ソ共同宣言の賠償請求権放棄により国家間では消滅し、1997年に最高裁は日本政府への賃金請求を退けた。







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