シベリアに抑留された女性たち|看護婦・挺身隊・軍属、記録に残る367人と残らなかった人々

シベリアに抑留された女性たち
目次

ブカチャーチャの収容所に、一人の女性がいた

ブカチャーチャの収容所に、一人の女性がいた

彼が送られたブカチャーチャの収容所に、一人の日本人女性がいた。看護婦だと聞いていた。言葉を交わしたことはなかった。どういう経緯でそこにいるのか、誰も知らなかった。彼はその後何十年も、あの女性はなぜシベリアにいたのだろうと考え続けた。

シベリア抑留は、男の話として語られてきた。57万5千人の兵士が連行され、5万5千人が死んだ。その物語の中に、女性はいない。

だが、いた。ロシア側の資料に記録されているだけで367人。研究者によっては、短期の収容を含めて千人近い女性が抑留されたとする。従軍看護婦、女子挺身隊、女子軍属、電話交換手、満洲国の職員。彼女たちは男性とは別の収容所に入れられ、多くは看護婦として、日本人抑留者の病棟で働かされた。目の前で、男たちが死んでいくのを看取った。

この記事では、なぜ女性が満洲にいたのか、なぜ連行されたのか、どこで何をさせられたのか、いつ帰り、なぜ語らなかったのかを追う。抑留の全体像はシベリア抑留はなぜ起きたのかで書いている。

なぜ女性が満洲の軍にいたのか

医療用の器具と白い布
医療用の器具と白い布。

1945年の満洲には、軍に属する女性が多数いた。

区分概要
日本赤十字社の救護看護婦日赤の救護班として陸軍病院に派遣された。多くは20代前半
陸軍看護婦陸軍が直接雇用した看護婦
女子挺身隊戦争末期に動員された若い女性。病院や工場で働いた
女子軍属タイピスト、事務員、電話交換手など軍の雇用者
満洲国の職員官庁、電信電話、鉄道などの女性職員
民間人開拓団や都市の在留邦人の女性。逃避行の途上で拘束された者

戦争末期、内地の男性が足りなくなると、女性が軍の後方を支える労働に動員された。満洲でも同じだった。関東軍の各陸軍病院には、数十人から二百人規模の女性が勤務していた。彼女たちの多くは、10代後半から20代前半だった。

8月9日、ソ連軍が侵攻したとき、彼女たちは病院にいた。患者は動けない。看護婦は患者を置いて逃げることができなかった。逃げなかった者が、拘束された。

日赤の看護婦について、少し補っておく。日本赤十字社の救護看護婦は、平時は日赤の病院で働き、戦時には日赤から召集されて陸海軍の病院に派遣される仕組みだった。彼女たちは軍人ではないが、召集を拒むことはできず、派遣先は内地とは限らなかった。満洲の陸軍病院にいた日赤看護婦は、国の制度によってそこに送られた人々である。自分で満洲を選んだわけではない。

女子挺身隊は、1943年以降、未婚の若い女性を労働に動員する制度である。満洲でも、病院や通信や工場に女子挺身隊が配置されていた。15歳、16歳の少女が含まれていた。

つまり、1945年8月に満洲の軍の施設にいた女性の多くは、国の制度で動員され、逃げる手段を持たず、患者や職務を置いて去ることができなかった人々だった。

佳木斯第一陸軍病院|典型としての女性部隊

佳木斯第一陸軍病院

佳木斯は満洲東部、三江省の中心都市で、ソ連との国境に近い。第一陸軍病院には、日赤看護婦、陸軍看護婦、女子挺身隊、女子軍属を合わせた女性部隊がいた。

8月9日、侵攻が始まると、病院は患者とともに南へ撤退を試みた。だが国境近くの病院に逃げ道はなく、女性部隊は患者とともにソ連軍に拘束された。

彼女たちが送られたのはハバロフスク地方である。ソ連側は、彼女たちを看護労働の要員として扱った。最初の一団は、イズヴェストコーワヤという地区の収容所の医療施設に配置され、日本人抑留者の看護にあたらされた。本隊もその後に入ソし、石切山と呼ばれた収容所や、いくつかの収容地区の分所に分けて配置された。

つまり、ソ連は日本人の看護婦を、日本人抑留者を看護させるために連行した。抑留者の病棟で働く医療要員として、女性を「使った」。

佳木斯第一陸軍病院

研究は、看護労働のための移動が繰り返された結果、女性たち自身の間でも死者が増えていったことを指摘している。看護する側が、看護される側になった。

収容所での女性たち

木造の宿舎に並ぶ寝台
木造の宿舎に並ぶ寝台。

女性たちは、男性とは別の区画か、別の収容所に入れられた。食糧の基準は男性と同じで、黒パンとわずかな肉と魚。労働は、看護婦は看護労働、それ以外の女性は農作業や工場、雑役に回された。

女性の収容所には、男性の収容所にはない危険があった。監視するのはソ連兵である。証言の中には、ソ連側からの性的な要求や暴行について語るものがある。だが、この点について語った女性はごく少数であり、多くは口を閉ざした。数字も、全体像も、分かっていない。

一方で、意外な証言もある。女性抑留者を取材したドキュメンタリーのディレクターが最初に話を聞いた元看護婦は、開口一番、シベリアではつらいと思ったことはなかった、と語ったという。彼女たちには、看護婦としての役割があった。役割は、飢えと寒さの中で人を支える。男性の収容所で崩れていった秩序が、女性の収容所では看護という仕事のまわりに残った、という見方もある。

私は、この証言を「女性の抑留は男性より楽だった」という意味には取らない。人は、最も過酷な経験を「つらくなかった」と言うことがある。つらかったと言えば、それが何であったかを説明しなければならなくなる。説明できないことを抱えた人は、つらくなかったと言う。

看取るということ

看取るということ

最初の冬、日本人抑留者の死者は集中した。死因の半数は栄養失調で、肺炎、結核、発疹チフスが蔓延した。収容所の医療施設には薬がなく、器具がなく、暖房が足りなかった。そこに配置されたのが、日本人の看護婦たちである。

治せない患者を、看護する。食べさせるものがない患者に、食べさせようとする。翌朝、寝床で死んでいる患者の名前を、誰かが覚えておかなければならない。看護婦たちは、その場にいた。

彼女たち自身も、同じ黒パンを食べ、同じ寒さの中にいた。看護労働のために収容所から収容所へ移動させられ、移動のたびに体力を削られた。研究は、その移動の中で女性の死者が増えたことを指摘している。看取る側が、看取られる側になった。

抑留の男性たちの手記には、収容所の病院で日本人の看護婦に世話をされた記憶が、しばしば短く記されている。多くは名前を知らない。ブカチャーチャの少年が見た一人の女性も、その一人だった。彼女たちは、男たちの記憶の中で、名前のない看護婦として残っている。

帰国|男たちより早く、しかし

帰国者を迎える港の休憩所
帰国者を迎える港の休憩所。

女性抑留者の多くは、男性より早く帰国した。1946年末から1947年にかけて、まとまった帰国があったとされる。ただし、全員ではない。1949年ごろまで残された者もいた。

帰国した女性たちを待っていたのは、二つの視線だった。一つは、抑留者一般に向けられた「アカ」という疑い。もう一つは、女性だけに向けられた、シベリアで何をされたのか、という視線である。

後者は、口に出されなくても、あった。若い女性がソ連の収容所で1年から4年を過ごしたと聞けば、人は何を想像するか。彼女たちはそれを知っていた。だから、語らなかった。結婚し、看護婦を続け、あるいは職を変え、抑留のことは履歴から消した。

男性の抑留者は、少なくとも「男たちの物語」として語る場があった。戦友会があり、手記が出版され、映画が作られた。女性には、それがなかった。367人は、互いに連絡を取ることもなく、一人ずつ戦後を生きた。

なぜ忘れられたのか

家族の便りを収めた箱
家族の便りを収めた箱。

女性のシベリア抑留が知られてこなかった理由は、三つある。

第一に、人数が少なかった。57万5千人の中の数百人は、統計の中で見えなくなる。

第二に、女性たち自身が語らなかった。上に書いた通りである。

第三に、研究が遅れた。ソ連時代、抑留の資料は公開されなかった。ソ連崩壊後に資料が出ても、女性抑留者に着目する研究者はごく少数だった。日本で女性抑留者の本格的な研究書が出たのは2020年代に入ってからである。

転機は、2014年のNHKのドキュメンタリー「女たちのシベリア抑留」だった。制作者は8か月をかけて延べ数百人に取材し、佳木斯第一陸軍病院の看護婦たちの足跡を追った。番組は複数の賞を受け、2019年に書籍化された。その取材をきっかけに、岡山の近現代史研究家が自分の調査していた開拓団の男性の娘が抑留されていたことを知り、健在だった本人に会い、記録を自費出版した。2018年のことである。

抑留から73年、生存者が90歳を超えてから、ようやく記録が形になった。

分かっていること、分かっていないこと

項目状況
女性抑留者の存在確定
ロシア側資料に記録された人数367人(研究者が資料から確認)
実際の人数不明(数百〜千人近いとする推計)
佳木斯第一陸軍病院女性部隊の移送先ハバロフスク地方の複数の収容地区(研究で特定)
女性抑留者の死者数不明(研究は看護労働の移動で死者が増えたと指摘)
収容所での性暴力証言に一部あるが全体像は不明
帰国時期多くは1946年末〜1947年。1949年ごろまでの残留者あり
ソ連・ロシアの公式な言及なし

367人の名前のうち、公になっているものはごく一部である。研究者が確認した名簿は、遺族の意向もあり、大半が公開されていない。

年表

出来事
1943年〜女子挺身隊の動員。満洲の軍施設にも女性が配置される
1945年8月9日ソ連軍侵攻。国境近くの陸軍病院の女性部隊が患者とともに拘束される
1945年秋女性部隊がハバロフスク地方の収容所へ。看護労働に配置
1945〜46年冬日本人抑留者の死者が集中。女性たちがその看護にあたる
1946年末〜1947年女性抑留者の多くが帰国
1949年ごろ残された女性の帰国
2014年NHK BS1スペシャル「女たちのシベリア抑留」放送
2018年青木康嘉『佳木斯の看護婦』自費出版
2019年小柳ちひろ『女たちのシベリア抑留』刊行
2020年代生田美智子『満洲からシベリア抑留へ』など本格的な研究書

女性を連行する根拠はあったのか

ソ連が女性を連行した根拠は、存在しない。

国家防衛委員会決定第9898号は「武装解除した日本軍将兵」の移送を命じている。看護婦は兵士ではない。日赤の看護婦は民間の救護要員であり、当時の国際法でも、医療要員は捕虜として扱われるべきではなく、速やかに送還されるべき存在だった。女子挺身隊や軍属は、軍の雇用者ではあるが戦闘員ではない。

ソ連は、彼女たちを「捕虜」と分類し、労働力として使った。看護婦は看護労働に、それ以外は農作業や工場に。抑留者全体と同じく、女性の抑留も、法の根拠なく、労働力の必要から行われた。違いは、ソ連が女性を「日本人抑留者を生かしておくための道具」としても使ったことである。

ソ連もロシアも、女性抑留者について何も認めていない。367人という数字は、ロシア側の資料から研究者が拾い出したものであり、ロシア政府が公表したものではない。

判定|女性の抑留は「例外」ではなく、抑留の性格そのものを示している

三段階で判定する。

事実の判定。シベリア抑留者の中に、ロシア側資料で367人、研究による推計で数百から千人近い女性がいた。従軍看護婦、女子挺身隊、女子軍属などで、佳木斯第一陸軍病院の女性部隊はハバロフスク地方の収容所に送られ、日本人抑留者の看護労働をさせられた。看護労働のための移動の中で女性自身にも死者が出た。多くは1946年末から1947年に帰国したが、1949年ごろまで残された者もいる。

意図の判定。女性を連行する法的根拠はなく、医療要員は当時の国際法上も送還されるべき存在だった。ソ連は女性を労働力として、また日本人抑留者を生かしておくための看護要員として使った。これは抑留全体が「労働力の獲得」を目的としていたことの、最も分かりやすい表れである。兵士でない者まで連れて行ったのは、必要だったのが兵士ではなく、働く人間だったからである。

歴史の判定。女性抑留者は、帰国後、抑留者一般への疑いと、女性だけに向けられた視線の二重の重みの中で沈黙した。男性には戦友会と手記と映画があったが、女性にはなかった。記録が形になったのは2010年代後半、生存者が90歳を超えてからである。367人の名前の大半は、今も知られていない。

抑留全体の中での位置づけはシベリア抑留はなぜ起きたのかで、満洲で女性が置かれた状況は黒川開拓団の女性たちと二日市保養所で書いている。祖母の抑留記録を調べる方法は抑留記録の調べ方で書く。特集全体はソ連の対日侵攻と日本人被害から辿ってほしい。

よくある疑問

シベリアに抑留された女性は何人いましたか

ロシア側の資料で確認されているのは367人である。研究者によっては、短期の収容を含めて数百から千人近いとする推計もある。正確な数は分かっていない。

どんな女性が抑留されたのですか

従軍看護婦(日赤救護看護婦・陸軍看護婦)、女子挺身隊、女子軍属(タイピスト・事務員・電話交換手など)、満洲国の女性職員、逃避行の途上で拘束された民間の女性などである。多くは10代後半から20代前半だった。

女性は収容所で何をさせられたのですか

看護婦は、日本人抑留者の病棟で看護労働をさせられた。それ以外の女性は農作業、工場、雑役などに回された。佳木斯第一陸軍病院の女性部隊は、ハバロフスク地方の複数の収容所の医療施設に分けて配置された。

女性抑留者の名前は分かっていますか

ロシア側資料に記録された367人の名簿は研究者が確認しているが、遺族の意向もあり大半は公開されていない。公になっているのは、取材や研究に応じた一部の元看護婦らの証言に限られる。

女性抑留者はいつ帰国しましたか

多くは1946年末から1947年にかけて、男性より早く帰国したとされる。ただし1949年ごろまで残された者もいた。

出典・参考

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

軍研ノート編集部のアバター 軍研ノート編集部 自衛隊・兵器 / 戦史 / サバゲー

自衛隊で6年間勤務した編集長を中心に、自衛隊時代の仲間やサバゲーを通じた知人と記事を制作。経験と公開資料をもとに、装備の仕組みや歴史、その背景にある人々の工夫を掘り下げています。「かっこいい」から、その先の理解へ。編集長のプロフィール → 運営・編集方針

コメント

コメントする

目次