雪風の記事を書いたとき、「呉の雪風、佐世保の時雨」と並び称されるもう一隻を、いつか書かなければと思っていた。書いてみたら、雪風とはまったく違う艦だった。
雪風は、ほとんど無傷で終戦を迎えた。時雨は、何度も被弾し、何度も死傷者を出し、それでも沈まずに帰り続けて、最後は米潜水艦2隻の連携に嵌まって沈んだ。雪風の幸運が「当たらなかった幸運」だとすれば、時雨の幸運は「当たっても沈まなかった幸運」で、その差は、艦長の腕と乗員の練度と、艦そのものの造りに関わっている。
そして時雨には、雪風にはない場面がある。ベラ湾で3隻の僚艦が数分で消える中を単艦で抜けた夜。スリガオ海峡で戦艦2隻と重巡と駆逐艦3隻が全部沈む中、舵を失って漂流しながら生き残った朝。「第三部隊は本艦一艦となった」という電報。私はこの艦を、幸運艦としてではなく、日本海軍の駆逐艦の戦争をいちばん最後まで見た艦として書きたい。
30秒でわかる駆逐艦「時雨」

資料:撮影者不詳/出典・利用条件(Public domain)
時雨は、白露型駆逐艦の2番艦。浦賀船渠で1933年12月に起工、1935年5月に進水、1936年9月に竣工した。基準排水量約1,700トン、12.7センチ砲5門、61センチ四連装魚雷発射管2基(九三式酸素魚雷8本、次発装填装置付き)、速力34ノット。艦名は秋から冬にかけて降ったり止んだりする雨のことだ。
開戦時は第27駆逐隊(有明、夕暮、白露、時雨)に属し、珊瑚海海戦、ミッドウェー海戦、ガダルカナルの鼠輸送、第三次ソロモン海戦、ベラ湾夜戦、第一次・第二次ベララベラ海戦、ブーゲンビル島沖海戦、トラック島空襲、ビアク沖海戦、マリアナ沖海戦、レイテ沖海戦(スリガオ海峡夜戦)を戦った。特にベラ湾夜戦とスリガオ海峡夜戦では、参加した日本駆逐艦のうち時雨だけが生き残っている。
1945年1月24日、マレー半島東方でタンカーを護衛中に、米潜水艦ブラックフィンの魚雷を受けて沈没。戦死38名、生存約270名。船体は今も水深約55メートルの海底に、二つに折れた状態で残っている。
米海軍の戦史家サミュエル・モリソンは、時雨を「幸運艦」「不滅艦」と書いた。
先に年表を置いておく。
- 1936年9月:竣工。翌月、昭和天皇の北海道行幸で御召艦比叡の供奉艦を務める
- 1937〜38年:日中戦争。上海、長江遡上作戦
- 1942年5月:珊瑚海海戦(翔鶴・瑞鶴の護衛)
- 1942年9〜11月:ガダルカナル鼠輸送10回。第三次ソロモン海戦で比叡救援
- 1943年3月:原為一大佐が第27駆逐隊司令として着任
- 1943年8月6日:ベラ湾夜戦。僚艦3隻沈没、時雨のみ生還
- 1943年8月・10月:第一次・第二次ベララベラ海戦
- 1943年11月2日:ブーゲンビル島沖海戦
- 1943年12月:西野繁少佐が艦長に
- 1944年2月17日:トラック島空襲で被弾、66名死傷
- 1944年6月8日:ビアク沖海戦。僚艦春雨沈没
- 1944年6月20日:マリアナ沖海戦
- 1944年10月25日:スリガオ海峡夜戦。西村艦隊で唯一生還
- 1944年12月19日:護衛中の空母雲龍沈没。舵故障で礼号作戦に参加できず
- 1945年1月24日:マレー沖で沈没
白露型という艦――条約の子
技術屋として、まず艦そのものの話をする。
白露型は、ロンドン軍縮条約の制限の中で設計された駆逐艦だ。初春型で無理な重武装をして復原性に問題が出たあと、それを是正しつつ雷装を強化した設計で、四連装魚雷発射管2基に次発装填装置を備え、一度に8本、装填し直してもう8本、合計16本の酸素魚雷を撃てた。これは同時期の米駆逐艦にはない火力で、日本の水雷戦隊の「夜戦で敵主力に肉薄して魚雷を叩き込む」思想が、そのまま形になっている。
一方で船体は小さく、対空兵装は開戦時点で貧弱だった。時雨は戦争の途中で後部の単装砲を降ろして25ミリ機銃を増やし、電探(レーダー)を積み、沈没前には機銃が20挺を超えていた。魚雷で殴るために造られた艦が、空から殴られる戦争を生き延びるために、少しずつ別の艦になっていった。白露型10隻のうち、終戦まで残った艦はない。
竣工の翌月、天皇を護衛した

資料:National Museum of the U.S. Navy/出典・利用条件(Public domain)
時雨の最初の任務は、戦闘ではなかった。1936年10月、昭和天皇が北海道の陸軍特別大演習に向かう際、御召艦の戦艦比叡に付き従う供奉艦に、竣工したばかりの時雨と白露が指定された。横須賀から室蘭、函館、そして神戸沖の観艦式まで、天皇の乗る艦のすぐ後ろを走った。
6年後、時雨はその比叡が沈むのを見ることになる。
ガダルカナル――比叡を沈めるなという電報
その前に、時雨は日中戦争を戦っている。1937年8月、第二次上海事変で黄浦江に突入して中国軍陣地を砲撃し、翌年の長江遡上作戦では野砲の砲撃を受けて被弾した。この艦の最初の被弾は、太平洋ではなく長江だった。
1942年、時雨は珊瑚海で翔鶴・瑞鶴を護衛し、ミッドウェーでは主力部隊の護衛として出撃し、秋からガダルカナルの鼠輸送に投入された。10回の輸送を生き延び、ヘンダーソン飛行場に艦砲射撃をし、魚雷艇と撃ち合った。
11月13日、第三次ソロモン海戦の第一夜戦で戦艦比叡が航行不能になった。時雨は霧島と一緒に避退中に反転を命じられ、比叡の救援に向かった。先に着いていた雪風、照月と一緒に、動けない比叡の周囲を回って米軍機と一日中撃ち合った。時雨は艦長が負傷し、機銃掃射で甲板に穴が開いた。
比叡の乗員を収容したあと、時雨は比叡を魚雷で処分するよう命じられた。魚雷を準備した直後、「処分待て」が来た。トラックの大和にいる山本五十六から「比叡処分するな」の電報が届いたからだ。結局、駆逐艦5隻は比叡を残して離れ、戻ったときには比叡はもう海にいなかった。時雨は、供奉艦として守った艦の最期に、魚雷を撃たずに立ち会った。
原為一――時雨に「幸運」を持ち込んだ司令

資料:撮影者不詳/出典・利用条件(Public domain)
1943年3月、原為一大佐が第27駆逐隊司令として着任し、司令駆逐艦の時雨に乗った。「時雨の原」として、戦後に『帝国海軍の最後』を書き、英訳が米国で読まれた人だ。
原は、駆逐艦の魚雷戦術を徹底的に研究していた人で、時雨の乗員に夜間の見張りと魚雷発射の訓練を繰り返し課した。時雨が「幸運艦」と呼ばれる戦いは、ほとんどが原の在任中に起きている。私は、時雨の幸運の少なくとも半分は、この人の訓練が作ったものだと思っている。
ベラ湾夜戦――3隻が消えた夜、1隻だけ戻った
1943年8月6日夜、時雨は萩風、嵐、江風のコロンバンガラ島輸送を護衛していた。時雨は警戒艦なのに、隊列の最後尾にいた。原の判断で、そういう配置になっていた。
コロンバンガラ沖で、レーダーで待ち伏せていた米駆逐艦6隻が、日本側が気づく前に魚雷を撃った。萩風、嵐、江風は数分で沈んだ。ベラ湾夜戦、日本海軍の夜戦の神話が崩れた夜だ。
時雨だけが、魚雷を避けた。最後尾にいたことと、原が即座に面舵を命じたことが効いた。時雨は魚雷8本を撃って一度離脱し、次発装填をして戻ったが、状況が極めて不利と判断して、沈没艦の乗員の救助を陸上部隊に依頼し、自艦は救助をせずに帰投した。原の回想では、帰投後に舵に魚雷が貫通した穴が見つかったという。当たったのに爆発しなかった。これが、時雨の「幸運」の最初の逸話になった。
書いておかなければならないことがある。この夜、3隻に乗っていた増援部隊約940名は、ほとんどが溺死した。時雨は戦果として米駆逐艦1隻大破を報告したが、実際の戦果はなかった。生き残ったのは時雨で、失われたのは3隻と、940人だった。
ベララベラ、ブーゲンビル――「今行けば時雨も沈む」

資料:Official Imperial Japanese Navy photo/出典・利用条件(Public domain)
その後の3か月、時雨はソロモンで戦い続けた。8月の第一次ベララベラ海戦では魚雷を撃って離脱し、10月の第二次ベララベラ海戦では五月雨とともに米駆逐艦セルフリッジを大破させ、シュバリエが沈んだ。夕雲を失ったが、約600名の守備隊撤収に成功している。
11月2日のブーゲンビル島沖海戦では、時雨の見張りが最初に米艦隊を発見した。魚雷8本を撃ち、旗艦の川内と衝突しかけ、その川内が被弾して動けなくなった。川内から「時雨は川内の元へ来い」と電報が来た。原は応じなかった。今行けば時雨も沈む、と判断したからだ。時雨は妙高、羽黒と合流して避退し、川内は沈んだ。
私はこの判断を、駆逐艦の司令として正しかったと思っている。だが、原がこの決断をどう抱えて戦後を生きたかを考えると、幸運艦という言葉が少し軽くなる。
11月、時雨は佐世保に帰った。ソロモンの一連の海戦で、参加艦の中で唯一無傷で帰投した艦として、時雨の奮闘は昭和天皇に上奏された。
幸運艦の、幸運でない日
12月、艦長が西野繁少佐に代わった。この人がスリガオまで時雨を指揮する。
そして1944年2月17日、トラック島空襲。時雨は警報で緊急出港したが、外洋で米艦載機約45機に襲われた。主砲全部が使用不能、缶室大破、爆雷庫浸水。死傷66名。司令も負傷した。時雨の戦歴でも、大きな人的被害を受けた日だ。パラオまで25ノットで逃げ、妙高に横付けして応急修理を受けた。
6月8日、ビアク島輸送で、僚艦の春雨が空襲で沈み、司令が戦死した。その夜、時雨は米巡洋艦3隻と駆逐艦14隻に遭遇して砲戦になり、一番砲塔と二番機銃座に命中弾を受けて7名が戦死した。船体を貫通した6インチ砲弾が不発だったことが、沈没を免れた理由の一つだった。当たっても爆発しない。それを幸運と呼ぶなら、時雨は幸運だった。
マリアナ沖――龍鳳を守った夕方
6月20日のマリアナ沖海戦で、時雨は空母龍鳳の護衛にいた。夕方の米機動部隊の空襲で、龍鳳に向かう雷撃機8機を時雨の対空射撃が阻止し、時雨自身は艦尾至近を通過した浅深度魚雷2本を面舵一杯で回避した。空襲が終わると、炎上する飛鷹の救援に向かったが、飛鷹は沈んだ。
その帰路、燃料の乏しい時雨は主力より先に沖縄の中城湾に入り、佐世保で修理とレーダーの工事を受けている。魚雷戦の艦として造られた時雨が、この時期には対空戦闘と電探の艦になりつつあった。
スリガオ海峡――「第三部隊は本艦一艦となった」

資料:U.S. Navy, photographed from USS Pennsylvania (BB-38)/出典・利用条件(Public domain)
1944年10月、時雨は西村祥治中将の第三部隊に入った。戦艦扶桑、山城、重巡最上、駆逐艦満潮、朝雲、山雲、時雨。レイテ沖海戦で、スリガオ海峡を抜けてレイテ湾に南から突っ込む部隊だ。
ブルネイで西野艦長が山城に呼ばれたとき、西村は「時雨は単艦になってしまったから、主力ではなくワシのほうにいてくれ。後方部隊だけれど、よろしく頼む」と言ったという。西野は「時雨は火の玉となって突入します」と答えた。
10月25日未明、海峡には米戦艦6隻、巡洋艦8隻、駆逐艦二十数隻と魚雷艇39隻が待っていた。3時前、時雨は右前方に駆逐艦の群れを見つけた。米駆逐艦の雷撃で、先行していた満潮と山雲が沈み、扶桑が大破し、朝雲が艦首を失った。時雨の艦底を、魚雷3本が通過した。
時雨は僚艦を見失い、扶桑を探して反転し、山城と最上の前に出ようと北上した。そこに米戦艦6隻の砲撃が来た。山城が沈み、最上が炎上した。時雨は全周に弾着の水柱を浴び、8インチ砲弾1発が艦尾の燃料タンクを貫通した。不発だった。至近弾で船体が浮いて海面に落ちた衝撃で、ジャイロコンパスと無線機が壊れ、船体に亀裂が入った。
4時25分、舵が故障し、時雨は漂流した。北上してきた志摩艦隊の那智に、時雨は「ワレ、シグレ、ナニカ」と信号を送った。「那智の後に就け」と返ってきたが、時雨は舵の故障を伝えて、南へ避退を続けた。
西野は戦後、志摩艦隊が後ろに続いていることを知らなかった、炎上する扶桑と最上と本艦を見れば状況は明らかだから特に通報しなかった、と証言している。この判断は後に批判もされたが、私は、無線機が壊れ、舵が壊れ、僚艦が全部沈んだ駆逐艦の艦長に、それ以上を求めるのは酷だと思う。
10時18分、時雨は栗田艦隊に打電した。第三部隊は本艦一艦となった。同じ朝、その栗田艦隊はサマール沖で護衛空母部隊と撃ち合っていた。
スリガオ海峡で、時雨は主砲241発、機銃7,930発を撃ち、戦死2名だった。西村艦隊の7隻のうち、帰ってきたのは時雨だけだ。扶桑と山城がどう沈んだかは別の記事で書いた。
潜水艦を沈めた夜
スリガオのあと、時雨はブルネイからタンカーの護衛に回った。11月8日未明、タンカー萬栄丸を海防艦2隻と護衛してマニラへ向かう途中、米潜水艦3隻に捕捉された。時雨と海防艦は爆雷攻撃を行い、午前3時ごろ、そのうちの1隻グロウラーが失われた。時雨などによる爆雷攻撃が有力な原因とされるが、撃沈した艦と経緯は確定していない。ただし1時間後、別の潜水艦ハードヘッドの魚雷4本が萬栄丸に命中して沈んだ。敵潜水艦1隻が失われても、護衛対象は守れなかった。1944年末の南シナ海は、そういう海になっていた。
雲龍、そして礼号作戦に間に合わなかった
佐世保で修理を受けた時雨は、12月、桜花と陸兵を積んだ空母雲龍をマニラまで護衛する任務に就いた。12月19日、宮古島近海で雲龍は米潜水艦の魚雷で沈んだ。時雨は対潜戦闘のあとで舵が故障し、佐世保に戻った。
このため時雨は、木村昌福の第二水雷戦隊がミンドロ島に突入した礼号作戦に参加できなかった。帝国海軍の水上部隊の最後の勝利に、時雨はいなかった。舵の故障が、時雨を守ったのか、時雨から最後の戦いを奪ったのか、私にはわからない。
1945年1月24日――潜水艦2隻の連携

資料:撮影者不詳/出典・利用条件(Public domain)
修理を終えた時雨は、シンガポールへ向かうヒ87船団の護衛に就いた。護衛の顔ぶれは、本来なら軽巡矢矧と駆逐艦雪風、浜風、磯風のはずだった。矢矧は訓練不足で外れ、雪風は出港直前に機関故障で離脱した。「呉の雪風、佐世保の時雨」が一緒に走るはずの船団で、雪風は来なかった。
香港で空襲を受けて船団は二分され、時雨は海防艦3隻とともにタンカーさらわく丸を護衛して、マレー半島東岸を南下した。22日、米哨戒機に発見された。
1月24日午前7時前、時雨の電探が左前方4,460メートルに潜水艦の反応を捉えた。ほぼ同時に、見張りが別の方向に浮上潜水艦を目視した。時雨はこれを同じ潜水艦だと判断して、目視した潜水艦に向けて面舵を切った。
潜水艦は2隻いた。電探が捉えたブラックフィンと、見張りが見たベスゴ。時雨の転舵は、ブラックフィンに絶好の射点を与えた。7時4分、左30度に魚雷を発見して面舵、1本は艦尾をかすめた。7時5分、4本のうち1本が左舷後部に命中した。機関停止、電源喪失、艦は右に傾き、7時10分に総員退去、7時15分、船体は二番連管付近で前後に折れて沈んだ。被雷から沈没まで10分だった。
戦死38名、生存約270名。海防艦の三宅と第13号が救助した。
時雨の戦闘詳報は、この海域が米潜水艦の跳梁する海面としてシンガポール方面の部隊では避航海面になっていたのに、船団にも時雨にも伝わっていなかった、と記している。最後まで時雨を守ったのは幸運ではなく情報で、最後に時雨を沈めたのは、届かなかった情報だった。
戦闘詳報の最後の一行
時雨の戦闘詳報には、もう一つ、私が忘れられない箇所がある。
時雨は沈没に備えて、救命筏を約20個と、応急用の円材を上甲板の各所に分散して縛りつけていた。詳報は、それが人的損耗を極めて少なくした一因だと分析し、護衛艦は自艦と僚艦の万一に備えて救難用具を平常から整備しておくべきだ、「万一ノ際人的資源ノ無為損耗極減ノ為此等ノ處置ヲ取リ置クハ至當」と結んでいる。
沈む10分前まで、この艦は自分が沈んだときに何人生き残れるかを考えて、筏を縛っていた。乗員の9割近くが助かったのは、幸運ではない。準備だ。私はこの一行を、時雨という艦の本質だと思っている。
水深55メートル
時雨の船体は、コタバルの東方約150キロ、水深約55メートルの海底にある。艦は二つに折れ、艦首側は右舷に横転し、艦尾側は10メートルほど離れた場所に正立している。地元の漁師にとっては漁礁で、漁網に覆われ、ダイビングスポットにもなっている。
日本の駆逐艦で、こんなに浅い、手の届く場所に残っている艦はほとんどない。雪風は台湾で解体され、多くの駆逐艦は数千メートルの海底にいる。時雨は、ダイバーが降りていける深さで、80年前の形を保っている。
幸運とは何か――投資家の目で
投資家として、この艦を見て考えたことを書いておく。
「幸運艦」という呼び方には、生存者バイアスがある。ベラ湾で沈んだ3隻、スリガオで沈んだ6隻、それぞれに乗員がいて、それぞれの艦長が判断していた。生き残った時雨だけを見て「幸運」と呼ぶのは、沈んだ側を見ていない。投資の世界で、生き残ったファンドだけを見て運用の巧拙を論じるのと同じ間違いだ。
だが時雨には、運で説明できない部分がある。原為一の訓練、最後尾という配置、面舵の速さ、次発装填、機銃の増設、電探の搭載、そして救命筏20個。生き残る確率を上げる準備を、この艦はやり続けていた。運は準備した者に偏る、というのは、投資でも同じだと私は思っている。
そして最後に沈んだ理由は、「避航海面の情報が届いていなかった」だった。準備しても、情報が来なければ負ける。防衛の世界で今、指揮統制と情報共有に予算が付いている理由は、要するにこれだ。防衛関連銘柄の投資ガイドで個別企業は整理してあるが、ここに書いたのは私個人の見方で、投資を勧めるものではない。投資判断はご自身の責任で。
海上自衛隊に時雨はいるか
海自ファンとして一つ。海上自衛隊のむらさめ型護衛艦9隻には、むらさめ、はるさめ、ゆうだち、さみだれ、ありあけと、白露型とその僚艦の名前が5つ並んでいる。五月雨は2026年6月に第2水上戦群の護衛艦として射撃訓練の様子が公開されたばかりで、白露型の名前は今も呉の海にいる。
しぐれの名は、護衛艦には引き継がれていない。私は、それでいいと思っている。時雨はコタバル沖の55メートルに、そのまま残っている。名前を継ぐより、船体が残っているほうが、この艦らしい。海上自衛隊の艦艇一覧を眺めて、いつか「しぐれ」が加わる日が来るなら、それは時雨の物語をちゃんと知っている人が名付けてほしい。
模型で並べる「二大幸運艦」
時雨の模型は、フジミの1/700に「時雨・五月雨」の白露型セットと、「時雨・雪風」の幸運艦セットがある。後者は、この記事を読んだ人にとって一番わかりやすい一箱だと思う。
雪風のほうはピットロードから単艦のキットが出ていて、1941年と1945年の両方の姿を作れる。時雨と並べるなら、1945年仕様で機銃が増えた姿にすると、二隻が同じ戦争をどう生き延びようとしたかが見える。
艦これで時雨を知った人も多いと思う。ゲームの時雨は「幸運」の数値が高い艦娘として知られているが、その理由がこの記事の中身だ。公式の型録には史実の解説も載っているので、ゲームから入った人が艦の来歴を辿るには、意外と悪くない入口になる。
本で深掘りする
時雨を読むなら、まず原為一『帝国海軍の最後』。時雨の司令だった本人が、ベラ湾からブーゲンビルまでを書いている。英訳が『Japanese Destroyer Captain』として米国で読まれ、日本の駆逐艦乗りの視点が海外に伝わった最初の本の一つだ。スリガオについては、佐藤和正『艦長たちの太平洋戦争』に西野繁艦長の証言が収められている。
駆逐艦の戦記は、私は移動中にオーディオブックで聴くことが多い。時雨のように「何度も帰ってきた艦」の話は、聴いていると、帰れなかった艦のことを一緒に考えることになる。
よくある疑問に、私なりに答えておく
雪風と時雨、どちらが「幸運」だったのか
雪風だと思う。雪風は主要な海戦にほぼすべて参加して戦死者が10名前後で、終戦まで残った。時雨はトラック空襲だけで66名が死傷し、最後は沈んだ。ただし時雨は、ベラ湾とスリガオという、参加艦が「全滅」した海戦で唯一生き残っている。雪風の幸運は当たらなかった幸運、時雨の幸運は当たっても沈まなかった幸運。質が違う。雪風の記事と読み比べてほしい。
時雨は魚雷が「貫通して不発」だったのか
原為一の回想では、ベラ湾のあとで舵に魚雷が貫通した穴が見つかったとされる。戦史叢書は面舵で回避したと記していて、両方が正しい可能性がある。確実なのは、ビアク沖の6インチ弾とスリガオの8インチ弾が、船体を貫通して不発だったことで、これは戦闘詳報に残っている。
なぜ最後は沈んだのか
潜水艦が2隻いることに気づけず、1隻に向けて転舵したことで、もう1隻に射点を与えた。そして、その海域が避航海面だという情報が船団に届いていなかった。艦の腕ではなく、情報の問題だった。
沈没地点は行けるのか
マレーシアのコタバル沖で、ダイビングツアーの対象になっている。水深55メートル前後はテクニカルダイビングの領域で、初心者が潜れる深さではない。訪ねる人は、現地の経験あるオペレーターを通し、艦は多くの人が亡くなった場所だということを忘れずに。
時雨が今の私たちに残したもの
時雨は、幸運艦と呼ばれる。だが私はこの記事を書いて、幸運という言葉をあまり使いたくなくなった。
この艦がやったのは、訓練と、配置と、回避と、装填と、機銃の増設と、電探と、救命筏だった。3隻が沈む夜も、6隻が沈む朝も、時雨は自分が生き残る確率を上げる準備を、その前からしていた。そして最後は、準備ではどうにもならない情報の欠落で沈んだ。沈む10分前まで、次に沈んだときの筏を縛っていた。
コタバル沖の55メートルに、その艦が今も残っている。幸運ではなく、準備の艦として、私は時雨を覚えておきたい。







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