木村昌福とは|兵学校118人中107番の「ノーマーク士官」は、なぜキスカで5,000人を救い、燃える海で清霜の乗員を拾い、戦後は髭を剃って塩を作ったのか――日本海軍で最も「待てた」提督の生涯

木村昌福 記事表紙
要点

だが書き終えてから、ずっと引っかかっていた。あの一言を言える人間は、どうやって作られたのか。上層部から「弱腰」と罵られながら旗艦で釣り糸を垂れていられる神経は、どこから来たのか。そして、あれだけのことをやった男が、なぜ戦後は山口県の塩田で、髭を剃って、家族にも何も語らずに死んだのか。

今回は、木村昌福という人間そのものを書く。旧軍ファンとして、私はこの人が帝国海軍で一番好きだ。だからこそ、神格化はしない。この人の強さは、海軍という組織の「制度の外」にいたことと分かちがたく結びついていて、そこを書かないと意味がない。

目次

30秒でわかる木村昌福

木村昌福
木村昌福。
資料:撮影者不詳/出典・利用条件(Public domain)
30秒でわかる木村昌福

太平洋戦争では重巡洋艦鈴谷の艦長として開戦を迎え、1943年のビスマルク海海戦で重傷を負い、復帰後の同年7月、アリューシャン列島キスカ島からの撤退作戦を指揮して、守備隊約5,200人を一人も失わずに救出した。「奇跡の作戦」と呼ばれる。1944年末には礼号作戦でミンドロ島の米軍上陸地点に突入し、帝国海軍の水上部隊として最後の勝利を挙げた。

戦後は山口県防府で元部下たちと製塩業を営み、戦時中の功績を家族にすら語らないまま、1960年に68歳で死去した。

キスカの55分は、別の記事で書いた。この記事は、その55分の前と後を書く。

先に年表を置いておく。

  • 1891年:静岡市に生まれる
  • 1913年:海軍兵学校41期卒業(118人中107番)
  • 1918年:戦艦三笠乗組
  • 1920〜30年代:水雷艇長・掃海艇長・駆逐艦長・駆逐隊司令を歴任
  • 1937年:大佐(同期の早い組より3年遅れ)
  • 1940年:重巡洋艦鈴谷艦長。翌年開戦
  • 1942年11月:少将
  • 1943年3月:ビスマルク海海戦で重傷
  • 1943年7月:キスカ島撤退作戦成功
  • 1944年11〜12月:多号作戦、礼号作戦
  • 1945年11月:帝国海軍最後の中将に進級
  • 1946年:防府で製塩業を開始
  • 1960年:胃癌により死去、68歳

代言人の息子、養子、三人の海軍軍人

木村は静岡市の紺屋町で、代言人(今の弁護士)の近藤壮吉の次男として生まれた。生まれてすぐ母方の木村家の養子になったため、本籍は鳥取だが、育ったのは静岡の近藤の家だ。

父は政治好きで、立憲改進党の党員だった。1910年に選挙で失敗して財産を失い、そのあと各地を流浪して、1916年に下関で客死している。木村が兵学校を卒業した3年後だ。家計を支えたのは母のすずで、東京女子高等師範学校の一期生という当時としては相当な才媛だった。女子美術学校の教員や女子医専の舎監を務めて、息子たちを育てた。

そしてこの家は、三人の息子を全員海軍に入れている。兄の近藤憲二は海兵40期、木村が41期、弟の近藤一声が50期。兄は開戦前の1940年に病没し、弟は1943年、コロンバンガラ島沖海戦で軽巡洋艦神通の副長として戦死した。これは後で書く。

私はこの生い立ちに、木村の後年の性格の根っこがある気がしている。父が政治で家を潰し、母が働いて支えた家の次男坊。出世や名誉というものに、若いうちから醒めた目を持っていたとしても不思議はない。

118人中107番――「ハンモックナンバー」という制度を読む

118人中107番――「ハンモックナンバー」という制度を

海軍兵学校の卒業席次は「ハンモックナンバー」と呼ばれた。練習艦のハンモックを吊る位置が席次順に決まっていたことに由来する。このナンバーが、その後の海軍人生をほぼ決めた。昇進の順番、配置、海軍大学校への進学、司令部勤務。すべてが席次を基準に動く。同期の中で席次が下だと、下のクラスの席次上位者に指揮継承順位を追い越されることさえある。実際、木村は大佐時代に、42期の小柳富次や43期の中澤佑に順位を抜かれている。

木村は入校時が120人中84番、卒業時が118人中107番。下から数えて12番目だ。海軍大学校の甲種学生は受験したが、同期の草鹿龍之介の家に泊まり込んで受験勉強をしていたとき、論文の提出日になっても「考えがまとまらない」と言って将棋を指していたという話が草鹿の回想に残っている。落ちた。

その後の経歴は、水雷艇長と掃海艇長を3度、駆逐艦長を5度、駆逐隊司令を3度。これはいわゆる「水雷屋」の王道コースだ。ただし、水雷屋の資格とされた水雷学校高等科学生の履歴がない。砲術も航海も専門がない。海軍省にも軍令部にも勤めていない。海軍の用語で言う「ノーマーク士官」、つまり、何の専門もない、艦隊勤務一筋の現場の人だった。

118人中107番――「ハンモックナンバー」という制度を

私はこの経歴を、こう読んでいる。木村は、海軍という組織の出世システムから、若いうちに完全に降りていた。だから上層部の評価に人生を握られていなかった。キスカで「弱腰」と罵られても平気だったのは、豪胆だったからだけではない。失うものが、最初から無かったのだ。

「水雷屋」という生き方

ここで「水雷屋」という言葉を説明しておく。帝国海軍の士官は、砲術、水雷、航海、通信、航空といった専門に分かれた。水雷屋は魚雷と駆逐艦の人だ。駆逐艦は排水量2,000トン前後の小艦で、戦艦や空母の露払いをし、夜になれば敵艦隊に肉薄して魚雷を撃つ。艦橋は吹きさらしで、荒天なら潮をかぶりながら指揮を執る。海軍の中で一番「現場」に近く、一番危険で、一番出世から遠い場所だった。

木村は駆逐艦長を5度やっている。これは異常な回数で、普通は2度か3度で巡洋艦か司令部に上がる。5度やったということは、上がれなかったということでもあり、駆逐艦の操艦にかけては海軍で指折りだったということでもある。防衛研究所の資料には、木村は勘がよく、船の操縦が巧みだったと記されている。身長186センチ、柔道七段、背後からも見える髭。部下を無闇に叱らず、常に落ち着いていて、酒は底なし。一方で謡曲と茶道の心得があった。この人が駆逐艦の艦橋に立っている姿は、想像するだけで少し楽しい。

日本海軍の夜戦の強さは、水雷屋たちが作った。ルンガ沖夜戦で駆逐艦8隻が米重巡4隻を撃破したのも、その伝統の上にある。木村はその伝統の、最も純粋な体現者の一人だった。

三笠に乗っていた

戦艦三笠(1905年撮影)
戦艦三笠(1905年撮影)。
資料:撮影者不詳/出典・利用条件(Public domain)
三笠に乗っていた

日本海海戦の旗艦だ。もちろん海戦から13年後で、三笠はもう旧式艦だったが、東郷が「取舵一杯」を命じた艦橋のある艦に、20代の木村は乗っていた。日本海海戦の記事で私は「百発百中の一砲」の思想が海軍の型を作ったと書いたが、木村はその型のど真ん中から、いちばん遠い場所にいた人間だ。艦隊決戦のための戦艦ではなく、駆逐艦と水雷艇の人。エリートではなく、現場の人。三笠に乗った経歴があるというのが、なんとも皮肉で、なんとも面白い。

鈴谷艦長――「撃っちゃあいかん、いかんぞぉ」

改修後の公試中の巡洋艦鈴谷(1937年8月)
改修後の公試中の巡洋艦鈴谷(1937年8月)。
資料:Japanese Imperial Navy/出典・利用条件(Public domain)

1940年10月、木村は重巡洋艦鈴谷の艦長になり、そのまま開戦を迎えた。南方作戦、インド洋、ミッドウェー、ガダルカナル。鈴谷は第七戦隊(司令官・栗田健男)の一艦として、開戦から1年間の主要な作戦にほとんど参加している。

ベンガル湾での通商破壊戦で、こんな話が残っている。敵の輸送船(民間船)を沈める際、木村は乗員を退去させてから撃沈させた。そのとき、自艦の機銃指揮官が退去中の船に射撃命令を出そうとし、木村は艦橋から身を乗り出して「撃っちゃあいかん、いかんぞぉ」と怒鳴って止めたという。

これは木村の人生を貫く一本の線だ。敵であれ味方であれ、人命を粗末にしない。キスカも礼号作戦も、この線の上にある。

ミッドウェーでは、第七戦隊がミッドウェー島の砲撃を命じられて突入し、直前に命令が撤回され、反転中に米潜水艦を回避しようとして最上と三隈が衝突、三隈が空襲で沈むという不運に巻き込まれた。木村の鈴谷が「機関故障」と偽って戦隊を離れ、三隈の乗員を救助したという話が伝わっているが、これは鈴谷の運用長ひとりの証言で、記録上は裏付けがない。三隈の生存者を最終的に鈴谷が収容したのは事実だが、「偽って離れた」の部分は、木村の人柄が生んだ伝説だと私は思っている。木村なら、やりかねない。だから話が生まれた。そういう人だった。

ビスマルク海海戦――「只今の信号は誤りなり」

1943年2月、木村は第三水雷戦隊司令官になる。着任して2週間後の任務が、ニューギニアのラエへ陸軍第51師団を運ぶ輸送作戦だった。ビスマルク海海戦、あるいはダンピール海峡の悲劇と呼ばれる、あの戦いだ。

輸送船8隻と護衛駆逐艦8隻の船団は、3月3日、米豪軍機の反跳爆撃で壊滅した。輸送船は全滅、駆逐艦は4隻沈没。木村の旗艦・白雪も被弾して沈み、木村自身、艦橋で機銃掃射を受けて左腿、右肩、右腹部の3か所に銃創を負った。

このとき信号員が咄嗟に「指揮官、重傷」の信号旗を揚げた。木村は「陸兵さんが心配する」と叱りつけて旗を下ろさせ、「只今の信号は誤りなり」と訂正させた。そして血を流しながら、最後まで指揮を執った。

私はこの話を、キスカの「帰ろう」と同じくらい大事だと思っている。3か所撃ち抜かれて、自分の生死より、輸送船に乗っている陸軍の兵隊が動揺することを心配した。この人にとって指揮官とは、そういう仕事だった。

木村は内地に送還され、入院した。この時点で、木村の海軍人生は終わっていてもおかしくなかった。

キスカ――「待てる」ということ

キスカ撤収作戦で旗艦となった軽巡洋艦阿武隈。写真は1941年
キスカ撤収作戦で旗艦となった軽巡洋艦阿武隈。写真は1941年。
資料:撮影者不詳/出典・利用条件(Public domain)

退院した木村に、1943年6月、第一水雷戦隊司令官の辞令が下りる。任務は、5月にアッツ島が玉砕したあと、孤立したキスカ島の守備隊5,000人余りを、米軍の制海空権の下から救い出すこと。

なぜ、退院したばかりの木村だったのか。記録上の理由は残っていないが、私は三つあると思っている。駆逐艦の操艦に長け、霧と荒天の北の海で軽巡と駆逐艦を動かせる水雷屋だったこと。ビスマルク海で「輸送任務の失敗」を身をもって知っていたこと。そして、上層部の顔色を見ない人間だったこと。三つ目は、選んだ側が意図していたかどうかはわからない。だが結果として、その性格が作戦を救った。陸軍側では北方軍司令官の樋口季一郎中将が、アッツ島の二の舞を避けるためにキスカ撤退を強く主張していて、陸海軍の「人命を優先する二人の指揮官」が北の海で噛み合ったことも、この作戦の幸運だった。

作戦の経緯はキスカ島撤退作戦の記事で詳しく書いたので、ここでは木村という人間の側から一つだけ書く。

第一回目の出撃で、艦隊はキスカの目前まで来て、霧が晴れた。突入すれば米艦隊に見つかる。強行を主張する部下に、木村は「帰ろう、帰ればまた来られるからな」と言って反転した。幌筵に戻った木村を待っていたのは、軍令部と連合艦隊司令部からの催促と、「弱腰」という非難だった。木村は平気な顔で、旗艦で釣りをし、参謀と碁を打った。

なぜ待てたのか。私の答えは、前に書いた通りだ。木村は出世の梯子から降りていた。上層部の評価は、木村の人生を左右しなかった。そして木村は、作戦の目的を正確に理解していた。目的は「突入すること」ではなく「5,000人を生きて帰すこと」だ。目的を理解している指揮官は、待てる。手段が目的にすり替わっている組織では、待てない。日本軍が太平洋で繰り返した失敗の多くは、この「すり替わり」から来ている。木村は、それが起きなかった数少ない例だった。

7月29日、濃霧の中で第二回目の突入。55分で5,183人を収容し、一人も失わずに帰った。米軍は、もぬけの殻になった島を、2週間後に大部隊で上陸して初めて知ることになる。木村はこの功績で昭和天皇に拝謁している。

弟の死――キスカの2週間前

木村がキスカの霧を待っていた7月12日から13日にかけて、ソロモン諸島のコロンバンガラ島沖で、第二水雷戦隊の旗艦・軽巡洋艦神通が、米艦隊の集中砲火を浴びて沈んだ。コロンバンガラ島沖海戦だ。

神通の副長は、木村の実弟、近藤一声中佐だった。神通の司令官・伊崎俊二少将と艦長以下、艦橋の全員が戦死している。弟も帰らなかった。

木村がこの報を、幌筵でいつ、どう受け取ったのかは、私にはわからない。ただ、弟が沈んだ2週間後に、木村は霧の中を5,000人を拾いに行っている。この人が「帰ろう」と言ったとき、その言葉の重さの中に、帰れなかった弟がいなかったはずがない。私はそう思って、あの言葉を読んでいる。

礼号作戦――旗艦に駆逐艦を選び、燃える海に留まる

横浜沖の観艦式で停泊する駆逐艦霞(1940年10月)
横浜沖の観艦式で停泊する駆逐艦霞(1940年10月)。
資料:撮影者不詳/出典・利用条件(Public domain)

1944年11月、木村は第二水雷戦隊司令官になる。弟が沈んだ神通の、その戦隊だ。

最初の任務は、レイテ島の日本軍への増援輸送、多号作戦だった。レイテ湾は米軍の制海空権下で、輸送船団はオルモック湾に突入するたびに空襲を受け、多号作戦は全体としては損害の山を築いている。その中で木村は二度の輸送を指揮し、いずれも成功させた。米軍の航空機が飛べない夜間と天候を選び、突入と離脱の時間を切り詰める。キスカでやったことの応用だ。

そして12月、礼号作戦を任される。

ミンドロ島のサンホセに上陸した米軍を、水上部隊で殴りに行く作戦だ。手持ちは重巡足柄、軽巡大淀、駆逐艦6隻。木村は旗艦に、巡洋艦ではなく駆逐艦の霞を選んだ。水雷屋として、駆逐艦の速力と小回りで指揮をしたかったのだろう。司令官が一番小さい艦に乗る。この時点でもう木村らしい。

12月26日夜、艦隊はサンホセに突入し、上陸地点の砲撃と輸送船への攻撃を成功させた。帝国海軍の水上部隊が挙げた、最後の勝利と言われる。ただし空襲で駆逐艦清霜が沈んだ。

避退に移る中で、木村は命令を出す。「旗艦は清霜の乗員を救助する。各艦は合同して避退せよ」。自分の乗る霞だけを残し、米軍の魚雷艇と航空機の脅威が最も大きい海域で、機関を止めて漂流者を拾い始めた。周囲が撤退を進言すると、「まだだ、まだ見落としていないか」と言って、海面を探し続けさせた。

この行動を見た各艦は、避退せずに戻ってきて霞を守り、救助を手伝った。結果、清霜の乗員の多くを収容し、残る全艦が帰還している。

私はこの場面を、キスカ以上に木村という人の本質だと思っている。キスカは「待つ」勇気だった。礼号作戦は「留まる」勇気だ。どちらも、周囲が「もう行きましょう」と言う場面で、目的のために動かない判断をしている。そして部下はそれを見て、自分たちも留まった。指揮官が命を軽く扱わない部隊は、指揮官の命も軽く扱わない。

帝国海軍最後の中将、そして兵学校教頭

1945年1月、木村は軍令部出仕となり、前線を離れた。6月に対潜学校長、7月に海軍兵学校教頭兼防府海軍通信学校長。兵学校の校長は、開戦以来の上官だった栗田健男で、二人はここで終戦を迎える。

11月1日、海軍が解体される直前に、木村は中将に進級した。いわゆるポツダム進級で、米内光政の推薦とされる。118人中107番の男が、41期で最高位の中将になった。同期には草鹿龍之介、大田実、市丸利之助、そしてルンガ沖夜戦の田中頼三がいる。海軍のエリートコースから見れば、ありえない結末だ。

髭を剃って、塩を作った

ここからが、私がこの記事で一番書きたかった部分だ。

1946年3月、木村は防府の海軍兵学校分校跡地の一部、二ノ枡塩田の払い下げを受け、元部下たちと製塩業を始めた。復員した部下たちに仕事がなかったからだ。資金は自分で走り回って集め、地元の塩業組合の協力を取り付け、組合の理事長になった。塩ができれば、自分で遠方まで売りに行った。トレードマークだったカイゼル髭は、剃り落とした。

戦時中のことは、誰にも語らなかった。1957年に元海軍中佐の戦史家・千早正隆が木村に取材して、キスカ撤退作戦を「太平洋海戦最大の奇蹟」として雑誌に発表するまで、家族すら木村が何をした人なのか知らなかったという。

1950年代半ばから、製塩の技術革新で塩が余り始め、木村は事業の縮小と部下たちの再就職に奔走した。1959年、胃癌が再発して入院。同じ年、防府の塩田は国の塩業整備の対象になり、木村の組合は11月に廃止された。1960年2月14日、千葉大学の病院で死去。68歳だった。

私はこの晩年を、悲しい話だとは思っていない。むしろ、この人の一生で一番一貫した部分だと思う。キスカで5,000人を生きて帰した男が、戦後は部下を食わせるために塩を売って歩いた。やっていることは同じだ。部下を生かす。それだけを、最初から最後までやった。

投資家メモ――国策で始まり、国策で終わる事業

投資の話を少しだけする。木村の製塩業は、復員軍人の救済という戦後の国策的な文脈で始まり、13年後、塩業整備という国策で終わった。個人の手腕や誠実さとは無関係に、制度が事業の始まりと終わりを決めた。

防衛関連株を見ている人には、これは他人事ではないと思う。防衛費の増額は国策で、防衛産業の追い風も国策だ。国策は、始まるときも終わるときも、個別企業の事情を待たない。防衛関連銘柄の投資ガイドで個別企業を整理してあるが、私が一番言いたいのは、国策相場に乗るなら「終わり方」を想定しておけ、ということだ。木村は塩田の終わりを見て、最後まで部下の再就職に走った。撤退戦の指揮官は、事業の撤退でも撤退戦をやった。

ここに書いたことは私個人の見方で、投資を勧めるものではない。投資判断はご自身の責任で、必要なら専門家に相談してほしい。

ハンモックナンバーが生んだ海軍と、生めなかった海軍

木村の話は、一人の名将の美談で終わらせるべきではない。もう少し引いて見ると、これは日本海軍の人事システムの話だ。

兵学校の席次で一生が決まる制度は、優秀な参謀を大量に生んだ。だが同時に、「上の評価を気にせず、目的のためだけに判断できる指揮官」を組織の中心から遠ざけた。出世の梯子を登っている人間は、上層部の催促に逆らえない。キスカで木村と同じ判断ができた提督が、海軍にどれだけいたか。私は、ほとんどいなかったと思う。

同じ「水雷屋」でも、南雲忠一は席次上位で海軍大学校を出て、機動部隊の司令長官に据えられ、専門外の航空戦で判断を誤り、愚将と呼ばれた。木村は席次下位で海大に落ち、駆逐艦に乗り続け、専門の水雷戦で判断を誤らず、名将と呼ばれた。二人を分けたのは才能というより、「自分の専門の場所に、自分の判断で立てたかどうか」だと私は思う。制度が人を適所に置けなかった組織の話として、木村と南雲は対で読むべきだ。

この視点で日本軍の組織を掘った本が、二冊ある。一冊は、軍令部の参謀たちが戦後に語った証言をまとめたもので、木村のような現場の人間がどう見られていたかがよくわかる。もう一冊は、同質な集団がなぜ判断を誤るかを科学の側から書いたもので、ハンモックナンバーという制度の危うさを、別の言葉で説明してくれる。

自衛隊に木村は残っているのか

海自ファンとして、ここは書いておきたい。

海上自衛隊に、ハンモックナンバーはない。防衛大学校や幹部候補生学校の成績は当然あるが、旧海軍のように席次が一生を決める制度にはなっていない。旧海軍の失敗から学んだ部分だと思う。

そして「帰ろう、帰ればまた来られる」という言葉は、海自の幹部教育の中で、判断の教材として引かれることがあると聞く。私は伝聞でしか知らないので断定はしないが、災害派遣でも海外派遣でも、海自の指揮官が最も問われるのは「行く判断」より「行かない判断」「引く判断」だ。護衛艦を荒天に出さない、ヘリを飛ばさない、二次災害を出さない。その判断は、上からの催促や世論の圧力の中で下される。木村がキスカでやったことは、そのまま今の海自の指揮官の仕事に重なる。

もう一つ。木村が礼号作戦で「旗艦は救助する、各艦は避退せよ」と言ったとき、各艦は避退しなかった。指揮官が部下の命を大事にする部隊では、部下も指揮官を見捨てない。これは制度ではなく文化の話で、海上自衛隊が今、人手不足に苦しみながらそれでも質を保っているとすれば、こういう文化がどこかで引き継がれているからだと私は信じたい。

米国からの評価

日本軍撤収後のキスカ島へ上陸した連合軍(1943年8月15日)
日本軍撤収後のキスカ島へ上陸した連合軍(1943年8月15日)。
資料:National Museum of the U.S. Navy/出典・利用条件(Public domain)

面白いことに、木村を最も高く評価したのは、戦後の米海軍関係者と軍事研究家だった。米軍はキスカで、もぬけの殻の島に大部隊で上陸し、霧の中で味方同士が撃ち合い、死者まで出している。その後、日本側の記録から木村の作戦指揮を知った米側は、「待つ」判断と、その徹底ぶりを高く評価した。日本側で木村の評価が定まるのは、千早正隆の1957年の記事以降で、米側のほうが早かったくらいだ。

米海軍の駆逐艦乗りたちは、木村のように霧と夜を使う水雷屋を、戦後の研究で「自分たちが最も相手にしたくなかったタイプの指揮官」として挙げている。派手な決戦の提督より、目的を達して帰る指揮官を怖がる。プロの評価というのは、そういうものだ。

負けた側の指揮官が、勝った側から先に評価される。木村に限らず、アッツ島の山崎保代や、ペリリューの中川州男もそうだ。自分の国が自分の指揮官を評価するのが遅れる、というのは、戦後日本の一つの癖だと思う。

もっと深く知るための本と映像

木村昌福を「読む」なら、まず生出寿『戦場の将器 木村昌福』と、将口泰浩『キスカ撤退の指揮官』。どちらも光人社NF文庫で、木村の生涯を追った評伝としてはこの二冊が基本になる。キスカ作戦そのものなら阿川弘之『私記キスカ撤退』が読みやすい。

戦史本を読む時間がない人には、オーディオブックで戦史・評伝を聴くのが現実的で、私は移動中に聴いている。木村のような「読むと胸が詰まる」人物伝は、耳で聴くと余計に詰まる。

映像なら、1965年の東宝映画『太平洋奇跡の作戦 キスカ』。三船敏郎が木村をモデルにした「大村少将」を演じている。名前が変わっているのは、当時まだ木村の事績が広く知られておらず、存命の関係者への配慮もあったからだと言われる。特撮の円谷英二が霧の中の艦隊を撮っていて、今見ても霧の質感がすごい。配信状況は変わるので、各サービスで確認してほしい。

木村昌福を訪ねる

木村の足跡を実際に訪ねるなら、二か所ある。

一つは山口県防府市。木村が塩を作った二ノ枡塩田は、塩田廃止後に三田尻塩田記念産業公園として整備されていて、当時の製塩の様子を見ることができる。木村の名前が大きく掲げられているわけではないが、「ここでキスカの提督が塩を作っていた」と思って歩くと、まったく違う場所に見える。近くには防府天満宮もあり、旧海軍通信学校の跡地一帯も含めて、半日で回れる。

もう一つは静岡市。木村の生まれた紺屋町は今の静岡市葵区の中心部で、母校の静岡高校(旧制静岡中学)もある。こちらは「跡地」というより「空気」を感じに行く場所だ。

防府は東京からだと新幹線で新山口へ出て在来線で20分ほど。広島の江田島や呉と組み合わせて、旧海軍の跡を辿る一泊二日のコースにすると、木村が生きた海軍の全体像が立体的に見えてくる。

よくある疑問に、私なりに答えておく

木村昌福の読み方は

「きむら まさとみ」。部下からは名前を音読みにして「ショーフク」と呼ばれていた。親しみを込めた呼び方で、本人も嫌がらなかったらしい。

なぜ「愚将」扱いされなかったのか

戦後の日本では、負けた戦いの指揮官が片っ端から愚将と呼ばれた。木村が例外だったのは、単純に、木村が指揮した作戦が成功していたからだ。キスカも多号作戦も礼号作戦も、目的を達して帰ってきている。ビスマルク海は失敗だが、あれは護衛駆逐艦8隻で航空機の反跳爆撃を防げという無理な任務で、木村の責任を問う人はほとんどいない。太平洋戦争の指揮官の評価は愚将10人の検証記事でまとめて書いたが、木村はその対極にいる。

なぜ家族にも話さなかったのか

わからない。ただ、木村の戦後の行動を見ると、本人にとって戦時中の功績は「終わった仕事」で、目の前の仕事は部下を食わせることだった。語る必要を感じなかったのだと思う。あるいは、帰れなかった弟や、ビスマルク海で沈んだ輸送船の陸兵たちのことが、語れなくさせていたのかもしれない。これは私の推測で、根拠はない。

髭はなぜ剃ったのか

これも記録はない。海軍中将の木村昌福は髭で、塩屋の木村さんは髭なし。本人が意識してそうしたのか、単に手入れが面倒になったのかは、誰も知らない。私は前者だと思っているが、そう思いたいだけかもしれない。

木村昌福が今の私たちに残したもの

木村昌福は、日本海軍という組織の出世システムの外側にいた人だ。だから上を気にせず、目的だけを見て判断できた。だから待てたし、留まれた。そして戦後は、その判断力を、部下を食わせるために使った。

「帰ろう、帰ればまた来られるからな」は、撤退の言葉ではない。目的を見失わない人間の言葉だ。突入すること、死ぬこと、上に評価されることは、目的ではない。5,000人を生きて帰すことが目的で、それ以外は全部、手段だ。手段と目的を取り違えない、というたったそれだけのことが、あの海軍でどれほど難しかったか。木村の生涯は、その難しさの裏返しとして読める。

118人中107番。この数字を、私は日本海軍が付けた最大の誤採点だと思っている。

基本情報の参考資料

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この記事を書いた人

軍研ノート編集部のアバター 軍研ノート編集部 自衛隊・兵器 / 戦史 / サバゲー

自衛隊で6年間勤務した編集長を中心に、自衛隊時代の仲間やサバゲーを通じた知人と記事を制作。経験と公開資料をもとに、装備の仕組みや歴史、その背景にある人々の工夫を掘り下げています。「かっこいい」から、その先の理解へ。編集長のプロフィール → 運営・編集方針

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