「富士のお山に腰をかけ、鎮遠、定遠げたに履き」。
明治の半ばごろ、日本ではこんな戯れ歌がはやったという。富士山に腰かけるほどの大男が、げたの代わりに履いているのが、清国の軍艦「定遠」と「鎮遠」。それくらい、この2隻は日本人にとって桁外れに大きな存在だった。
1886年、この2隻を中心とする清国の北洋艦隊が長崎に寄港した。そのとき上陸した清国の水兵が暴動を起こし、日本の警察官と衝突して死傷者が出る「長崎事件」が起きる。目の前に浮かぶ巨大な装甲艦と、それを背景にした清国の強気な態度。日本の海軍は、このとき心の底から震え上がった。事件は外交問題にまで発展したが、目の前に巨大な装甲艦を浮かべた清国に対して、日本は強く出ることができなかった。軍艦の大きさが、そのまま外交の強さになる。明治の日本人は、そのことを長崎の港で思い知らされたのだ。
それから8年後の1894年、日本は清国と戦争を始める。そして黄海の海戦で北洋艦隊を破り、最後には定遠を沈め、鎮遠を手に入れた。
でも、この話にはひねりがある。日本の艦隊は、黄海海戦で定遠も鎮遠も沈められなかったのだ。何百発も砲弾を当てたのに、2隻の分厚い装甲は最後まで破れなかった。それでも日本は、海戦に勝った。
化け物を倒せなかったのに、なぜ勝てたのか。この記事は、日清戦争の全体像を追いながら、その問いを考える。10年後の日露戦争については日露戦争の全体像で書いているので、合わせて読むと明治の日本の歩みが一本の線でつながると思う。
30秒でわかる日清戦争
| 時期 | 出来事 |
|---|---|
| 1885年 | 天津条約。日清両国は朝鮮に出兵するときは互いに通知することに |
| 1886年 | 北洋艦隊が長崎に来航し、長崎事件が起きる |
| 1894年春 | 朝鮮で甲午農民戦争(東学党の乱)。清と日本がそれぞれ出兵 |
| 1894年7月25日 | 豊島沖海戦。実質的な開戦 |
| 1894年8月1日 | 日本が清に宣戦布告 |
| 1894年9月15〜16日 | 平壌の戦い。日本陸軍が清国軍を破る |
| 1894年9月17日 | 黄海海戦。連合艦隊が北洋艦隊を破る |
| 1894年11月 | 日本軍が旅順を占領 |
| 1895年2月 | 威海衛の戦い。北洋艦隊が降伏 |
| 1895年4月17日 | 下関条約に調印 |
| 1895年4月23日 | ロシア・ドイツ・フランスによる三国干渉 |
開戦から講和まで、およそ9か月。日露戦争の半分ほどの期間で決着がついた。
なぜ戦争になったのか:朝鮮をめぐる綱引き
日清戦争は、朝鮮半島をめぐる戦争だった。
清国にとって、朝鮮は何百年も前から自分に従う「属国」だった。一方、明治の日本は、朝鮮を清から切り離して独立した国にさせ、そのうえで自分の影響下に置こうとしていた。朝鮮半島が清や、その背後にいるロシアの勢力に押さえられれば、日本の安全が脅かされると考えたからだ。
1880年代、朝鮮の宮廷では、清を頼る勢力と日本を頼る勢力が争い、何度もクーデターや暴動が起きた。そのたびに日清両国の軍が出てきて、にらみ合った。1885年の天津条約で、両国はいったん軍を引き揚げ、今後朝鮮に出兵するときは互いに知らせることを約束した。
そして1894年春、朝鮮で大規模な農民の反乱が起きる。甲午農民戦争、日本では東学党の乱とも呼ばれる。朝鮮の政府は清に助けを求め、清は軍を送った。天津条約にもとづいてその通知を受けた日本も、すぐに大軍を送り込んだ。
反乱はやがて収まったが、日清両国の軍は朝鮮から引かなかった。日本は、朝鮮の内政改革を清と共同で進めようと持ちかけ、清が断ると、単独で改革を迫った。外務大臣の陸奥宗光は、のちの回想録『蹇蹇録』で、このときの日本の外交がかなり強引だったことを率直に書いている。両国の対立は、もう引き返せないところまで来ていた。
化け物「定遠」「鎮遠」とは何だったのか
ここで、日本の海軍を震え上がらせた2隻について書いておく。
定遠と鎮遠は、ドイツのシュテッティンの造船所で造られた、7,000トン級の装甲艦だ。1885年に北洋艦隊に配備され、定遠はその旗艦になった。「東洋一の堅艦」と呼ばれ、当時の日本海軍には、これに対抗できる艦は1隻もなかった。
技術好きとして、ここは少し細かく書きたい。
この2隻の強みは、なんと言っても分厚い装甲と大きな主砲だった。艦の中央部は、当時の日本の砲弾ではまず貫けない厚さの装甲で守られていた。主砲は30.5センチ砲を4門。1発の砲弾の重さは数百キロにもなり、当たればどんな日本の艦も一撃で深い傷を負う。
清国は、この2隻を日本に見せつけることで、力の差をはっきりわからせようとした。1886年の長崎への寄港はその一つで、1891年には北洋艦隊が再び日本を訪れ、東京湾にまで姿を見せている。日本の政府や海軍の関係者は艦に招かれ、その巨大さを間近で見せつけられた。
日本の危機感は、政府の中枢にまで広がった。1893年、明治天皇は、宮廷の費用を削って軍艦の建造費に充てることを決め、政府の役人たちにも給料の一部を返上させた。国を挙げて、化け物に対抗する艦をそろえようとしたのだ。
日本の答え:巨砲の「三景艦」と、俊足の「吉野」
では、日本はどうやって定遠・鎮遠に対抗しようとしたのか。答えは二つあった。
一つ目の答え:三景艦という「力わざ」
一つ目は、同じくらい大きな砲で殴り返す、という発想だった。
日本はフランスから造船技師のベルタンを招き、「松島」「厳島」「橋立」の3隻の巡洋艦を造った。日本三景にちなんで「三景艦」と呼ばれるこの3隻には、定遠の装甲を貫くために、32センチという、艦の大きさに不釣り合いなほど巨大な主砲が1門ずつ積まれた。
でも、この三景艦は、正直に言えば失敗作だった。4,000トンほどの船体に、あまりにも大きな砲を積んだせいで、砲を横に向けると艦が傾いてしまう。装填にも時間がかかり、1時間に数発しか撃てなかったと言われる。実際の黄海海戦でも、32センチ砲の命中弾はほとんどなかった。
二つ目の答え:速射砲と高速巡洋艦という「手数」
もう一つの答えが、日本を本当に勝たせた。
それが、速射砲と、足の速い巡洋艦だ。速射砲は、口径こそ12センチや15センチと小さいが、1分間に何発も撃てる新しい大砲だった。定遠の分厚い装甲は貫けなくても、装甲のない部分や甲板の上の構造物、乗員を、大量の砲弾で叩くことができる。
その代表が、1893年にイギリスで完成したばかりの巡洋艦「吉野」だ。当時の世界でも最速クラスの高速艦で、速射砲をずらりと並べていた。日本海軍は、この吉野を中心とする足の速い巡洋艦の部隊をつくり、艦隊の機動力で清国の艦隊を翻弄しようと考えた。
大きな一発で倒すのではなく、速さと手数で削る。この発想の転換が、黄海で日本を勝たせることになる。日本海軍の艦艇が、ここから日露戦争、そして大和へとどう進化していったかを一冊で追うなら、この本がいい。
艦だけでなく「人」も入れ替えた
もう一つ、日本海軍が戦争の前にやったことがある。人の入れ替えだ。
開戦の前年、海軍省で人事を握っていた山本権兵衛は、海軍の将官や佐官を大量に整理した。明治維新の功績で出世したものの、近代的な海軍の知識に乏しい古参の士官たちを退かせ、海軍兵学校で学んだ若い世代を要職に就けたのだ。同じ薩摩出身の先輩たちも容赦なく切ったと言われ、海軍の中には大きな反発もあった。
でも、この思い切った人事がなければ、黄海海戦のような新しい戦い方はできなかったと私は思う。速射砲や高速巡洋艦という新しい道具を、古い頭のままの指揮官に渡しても、使いこなせない。道具を新しくするなら、それを使う人も新しくしなければならない。山本権兵衛はそのことをよくわかっていた。10年後、日露戦争の直前に東郷平八郎を連合艦隊司令長官に抜擢したのも、この山本だ。
開戦:豊島沖の海戦と、イギリス船の撃沈
1894年7月25日、朝鮮の西岸、豊島の沖で、日本の巡洋艦「吉野」「浪速」「秋津洲」が清国の軍艦と遭遇し、戦闘になった。正式な宣戦布告の前だが、これが日清戦争の実質的な始まりだった。
この海戦の途中、巡洋艦「浪速」は、清国の兵士を乗せて朝鮮に向かうイギリス船籍の輸送船「高陞号」を撃沈した。浪速の艦長は、のちの日露戦争で連合艦隊を率いる東郷平八郎だ。イギリスの旗を掲げた船を沈めたことで大問題になりかけたが、東郷の処置が国際法にかなっていたことが認められ、かえってその名を高めることになった。このあたりは東郷平八郎の解説で詳しく書いている。
8月1日、日本は清に宣戦を布告した。
陸の戦い:平壌から遼東半島へ

陸では、日本軍は朝鮮半島を北上し、9月中旬の平壌の戦いで清国軍を破った。清国軍は朝鮮から追い出され、日本軍は鴨緑江を越えて中国本土の満州に入っていく。
このとき朝鮮から満州へ攻め込んだ第一軍を率いたのは、陸軍の大御所だった山県有朋だ。一方、遼東半島に上陸して旅順を目指した第二軍は、大山巌が率いた。のちの日露戦争で満州軍総司令官となる大山にとって、この遼東半島での経験は大きな意味を持ったはずだ。ちなみに山県は、病気に加えて、大本営の方針を超えて独断で進もうとしたこともあって、途中で日本に呼び戻されている。現地の指揮官と中央の方針のずれは、すでにこのころから日本軍の課題だった。
清国の陸軍は数こそ多かったが、近代的な装備と訓練を受けた部隊は限られていた。しかも、清国の軍は地方ごとにばらばらで、国全体として一つの軍隊として動く仕組みが弱かった。一方の日本陸軍は、ドイツ式の参謀制度のもとで、作戦から補給まで一つの指揮系統で動いた。この組織の差が、陸の戦いの勝敗を大きく分けた。
11月には、遼東半島の先端にある旅順を占領した。旅順は北洋艦隊の重要な拠点で、清国が巨費を投じて要塞を築いていた。それが、わずか1日ほどで陥落したのだ。10年後の日露戦争で、同じ旅順をめぐって日本軍が何か月も苦しむことを思うと、なんとも皮肉な話だ。日露戦争の旅順については旅順攻囲戦の解説で書いた。
ただ、この旅順の占領では、日本軍が清国の兵士だけでなく多くの市民も殺害したとして、欧米の新聞が大きく報じ、国際的な非難を浴びた。いわゆる旅順虐殺事件だ。犠牲者の数や経緯には今も諸説あるが、不平等条約の改正を進めていた日本にとって、近代国家としての信用に関わる深刻な問題になった。勝った戦争の記録の中にも、目をそらしてはいけない部分がある。
日本側の事情:広島に移った大本営と、熱狂した国民

日本の側では、戦争は国を挙げた一大事業になっていた。
1894年9月、戦争を指導する大本営は、東京から広島に移った。広島は、兵や物資を朝鮮に送り出す宇品港を抱える、日本の兵站の拠点だったからだ。明治天皇も広島に移り、戦争が終わるまでそこで過ごした。帝国議会まで広島で開かれ、戦費をまかなうための予算が可決された。広島は、わずかな期間とはいえ、事実上の日本の首都になったのだ。
国民の熱狂もすさまじかった。新聞は戦況を競って報じ、勝利のたびに号外が飛び交った。各地で戦勝の祝賀会が開かれ、戦いの場面を描いた錦絵が飛ぶように売れた。
従軍記者として戦地に赴いた文学者もいる。のちに作家として知られる国木田独歩は、軍艦に乗り込んで海戦の様子を弟への手紙の形で書き送り、評判になった。そして正岡子規も、記者として戦地に渡っている。ただ子規が着いたころには戦争はほぼ終わっていて、帰りの船の中で血を吐き、その後の長い闘病生活の始まりになった。子規と幼なじみだった秋山真之は、このとき巡洋艦の乗組員として日清戦争に加わっていた。
黄海海戦:化け物を沈められなかった勝利
1894年9月17日、黄海の鴨緑江の河口の沖で、日本の連合艦隊と清国の北洋艦隊が激突した。日清戦争の勝敗を決めた海戦だ。
日本の連合艦隊を率いたのは伊東祐亨。北洋艦隊を率いたのは丁汝昌だった。
陣形の違い:一列の縦隊と、横一線の横陣
両軍の艦隊は、陣形からしてまるで違った。
日本の艦隊は、艦を一列に並べた単縦陣で進んだ。先頭には坪井航三が率いる吉野などの高速巡洋艦の部隊、その後ろに本隊が続く。一方の北洋艦隊は、艦を横一線に並べた横陣で迎え撃った。定遠と鎮遠を中央に置き、艦首の大砲を前に向けて、正面からぶつかる構えだ。
日本の艦隊は、北洋艦隊の正面を横切るように回り込み、速力を生かして敵の弱い側面に回り込んでいった。そして、すれ違いざまに速射砲の雨を降らせた。横一線の北洋艦隊は、動きの速い日本の艦隊に対応しきれず、陣形が崩れていった。
定遠と鎮遠は沈まなかった
海戦は数時間にわたって続いた。北洋艦隊は、装甲の薄い巡洋艦などが次々に炎上し、5隻を失った。一方、日本の艦隊は1隻も沈まなかった。
ただ、定遠と鎮遠は、最後まで沈まなかった。日本の艦隊は、この2隻に何百発もの砲弾を浴びせたが、分厚い装甲は破れなかった。艦の上は火災で燃え上がり、多くの乗員が死傷したが、2隻は戦い続け、夕方には戦場を離れて港に戻っていった。
逆に、日本の旗艦「松島」は、鎮遠の30.5センチ砲弾を受けて大きな被害を出し、多数の死傷者を出している。化け物の一撃は、やはり化け物だった。
日本の艦隊も、楽に勝ったわけではない。艦隊の後ろについていた小さく遅い艦の中には、本隊の動きについていけずに取り残され、北洋艦隊のど真ん中に孤立してしまったものもあった。砲艦「赤城」や、古い軍艦「比叡」は、敵の砲火を集中的に浴びながら、なんとか戦場を離脱している。速さで勝負する艦隊にとって、遅い艦は弱点にもなる。この教訓も、のちの艦隊づくりに生かされていく。
この海戦のあと、ある若い水兵が、死の間際に「定遠はまだ沈まないのか」と尋ねたという話が広まり、「勇敢なる水兵」という軍歌になった。その歌の一節にある「まだ沈まずや定遠は」という言葉は、日本人がどれほど定遠という艦を意識していたかをよく表している。
それでも日本が勝った理由
定遠も鎮遠も沈められなかったのに、なぜ黄海海戦は日本の勝利なのか。
一つは、北洋艦隊の戦力が大きく削られたことだ。5隻を失い、残った艦も傷ついた。そして何より、北洋艦隊はこのあと港にこもって出てこなくなった。黄海の制海権は、日本のものになった。
制海権を握ったことで、日本は陸軍を自由に海で運べるようになった。旅順の占領も、そのあとの山東半島への上陸も、海の安全があってこそできたことだ。海戦は、敵艦を何隻沈めたかではなく、その後に海を使えるのはどちらか、で勝ち負けが決まる。私は、黄海海戦はそのことを一番よく教えてくれる海戦だと思っている。
もう一つ、技術の面での教訓も大きかった。巨大な一門の砲より、小さくても速く撃てる砲をたくさん積んだほうが強い。艦隊はばらばらに動くより、一列に並んで一つの生き物のように動いたほうが強い。黄海海戦で日本海軍がつかんだこの手応えは、10年後の日本海海戦へとまっすぐつながっていく。その日本海海戦については日本海海戦の解説で詳しく書いた。
威海衛:化け物の最期

黄海海戦のあと、北洋艦隊の残りは、山東半島の威海衛の港にこもった。
1895年1月、日本軍は山東半島に上陸し、陸から威海衛の要塞を攻めた。同時に海からは、水雷艇が夜の闇にまぎれて港の中に忍び込み、魚雷で北洋艦隊を襲った。この夜襲で、定遠はついに大きな損傷を受け、戦えない状態になる。黄海で何百発の砲弾にも耐えた化け物が、夜の小さな水雷艇の魚雷で倒れたのだ。水雷艇は、数十トンほどの小さな艇に魚雷を積んだだけの、いわば海の奇襲部隊だ。真冬の凍えるような夜、港の入口に張られた防材をくぐり抜け、敵の大艦のすぐそばまで忍び寄って魚雷を放つ。大きな装甲で上からの砲弾を防げても、水の中から来る魚雷は防げない。技術好きとして、私はこの場面に、海の戦いの主役が大砲から魚雷や潜水艦へと移っていく、次の時代の入口を見る思いがする。
2月、北洋艦隊は降伏した。司令官の丁汝昌は降伏の前に自ら命を絶った。日本の伊東祐亨は丁汝昌の死を悼み、その遺体を、降伏した艦の中から1隻を清国側に残して、それで丁重に送り返させたと伝えられている。敵の司令官への敬意を示したこの対応は、当時の欧米でも称賛された。
鎮遠は日本に捕獲され、日本海軍の艦として編入された。10年後の日露戦争では、日本の艦隊の一員として、かつての北洋艦隊と同じ黄海で戦うことになる。清国の旗艦の姉妹艦が、日の丸を掲げてロシア艦隊と撃ち合ったのだ。戦後、鎮遠の錨や砲弾は東京の上野公園に戦利品として飾られ、長く人々の目に触れることになった。それらは太平洋戦争のあと、中国に返還されている。勝者の記念品は、時代が変われば、敗者に返すべきものになる。歴史の皮肉を感じずにはいられない。
ちなみに、定遠の残骸は今も威海の海の底に眠っていて、近年、中国の調査団が引き揚げを進めている。2019年には、重さ約18トンにもなる定遠の装甲板が引き揚げられたという。中国にとって、日清戦争(中国では甲午戦争と呼ぶ)は屈辱の歴史として記憶されていて、その象徴である定遠の調査には今も大きな注目が集まっている。
清国の事情:「北洋艦隊」は国の艦隊ではなかった
日本側の話ばかりだと見えないことがあるので、清国側の事情も書いておく。
北洋艦隊は、清国の海軍のすべてではなかった。清国には、北洋のほかに、南洋、福建、広東といった地域ごとの艦隊があり、それぞれ別の有力者のもとで動いていた。北洋艦隊は、その中で最も強力な艦隊で、実質的には李鴻章という一人の大物政治家が育てた艦隊だった。
だから日清戦争は、ある意味では「日本という国」と「李鴻章の艦隊」の戦いだった。南洋艦隊などの他の艦隊は、北洋艦隊を助けるために本格的に動くことはなかった。国全体で戦う日本と、地域の有力者の力に頼る清。この差は、陸の戦いだけでなく、海の戦いにもはっきり表れた。
さらに、北洋艦隊は1888年ごろを最後に、新しい軍艦をほとんど買っていなかった。定遠と鎮遠が配備されたときは東洋一でも、それから10年近くたつと、世界の軍艦の技術は大きく進んでいた。速射砲を積んだ高速の巡洋艦という新しい流れに、北洋艦隊は乗り遅れていたのだ。
なぜ艦が増えなかったのか。よく言われるのが、海軍のための予算が、西太后の離宮である頤和園の修復に回されてしまったという話だ。どこまでが事実で、どの程度の額だったのかには議論があるが、清国の宮廷が海軍の近代化に本気で取り組んでいなかったことは確かだと思う。
指揮官の問題もあった。北洋艦隊の提督だった丁汝昌は、もともと陸の騎兵の出身で、海軍の専門家ではなかった。艦隊には外国人の顧問もいたが、組織としての訓練や指揮のしかたは、日本の連合艦隊ほど練られていなかったと言われる。
化け物のような艦を持っていても、それを動かす国と組織が古いままでは、勝てない。私は、日清戦争の勝敗を分けた一番の理由は、艦の性能ではなく、ここにあったと思っている。
下関条約と三国干渉

1895年3月、清国は講和の全権として、大物政治家の李鴻章を日本に送ってきた。講和会議の会場は、下関の料亭「春帆楼」。日本の全権は、首相の伊藤博文と外務大臣の陸奥宗光だった。
会議の途中、李鴻章が日本の青年に銃で撃たれて負傷する事件が起きた。国際的な非難を恐れた日本は、それまで渋っていた休戦にすぐ応じることになる。講和の場で相手国の全権を撃つというのは、日本にとって大失態だった。
4月17日、下関条約が結ばれた。清国は朝鮮の独立を認め、遼東半島、台湾、澎湖諸島を日本に譲り、賠償金として2億両を払うことになった。
ところが、そのわずか6日後、ロシア、ドイツ、フランスの3か国が、遼東半島を清に返すよう日本に迫ってきた。三国干渉だ。3大国を相手に戦う力のない日本は、追加の賠償金と引き換えに遼東半島を返した。そして3年後、ロシアがその遼東半島の旅順と大連を清から借り受ける。この屈辱が、10年後の日露戦争への道を開くことになる。当時、それまで国民の自由や権利を説いていた言論人の徳富蘇峰が、三国干渉に強い衝撃を受け、力こそが国を守るという国家主義の立場へと考えを大きく変えたことはよく知られている。三国干渉は、日本人の世界の見方そのものを変えてしまった出来事だった。
台湾の平定戦:講和のあとに始まった、もう一つの戦争
下関条約で台湾を手に入れた日本だったが、すんなりと統治が始まったわけではない。台湾の人々の中には、日本の統治を拒んで抵抗する勢力があり、日本は軍を送って各地で戦うことになった。
この戦いは、講和から数か月にわたって続き、日本側では戦闘よりも、暑さとマラリアなどの病気で多くの将兵が倒れた。台湾の側にも大きな犠牲が出ている。日清戦争の終わりは、日本にとっては新しい統治の始まりであり、台湾の人々にとっては抵抗の始まりでもあった。
戦死より病死:脚気と陸軍の失敗
日清戦争で、私がいちばん重いと感じている数字がある。日本側の死者の多くは、戦闘ではなく病気で亡くなっているのだ。
日本軍の死者のうち、戦場で戦死した人は全体の一部にすぎず、それをはるかに上回る数の将兵が、脚気やコレラ、赤痢などの病気で命を落とした。とくに陸軍では脚気が深刻だった。戦争のあとの台湾の平定戦でも、多くの兵が病に倒れている。
脚気は、ビタミンB1の不足で起きる病気だ。当時はまだビタミンという考え方がなかったが、海軍の軍医だった高木兼寛は、食事に原因があると考え、白米中心の食事に麦や洋食を取り入れることで、海軍の脚気をほぼなくすことに成功していた。
一方の陸軍は、脚気は細菌による感染症だという説に立ち、白米中心の食事を変えなかった。陸軍の軍医の中には、のちに文豪として知られる森鷗外もいた。その結果、陸軍は日清戦争で、そして10年後の日露戦争でも、脚気で多くの兵を失うことになる。
ここには、のちの日本軍の失敗につながる一つの型があると私は思う。自分たちの理論にこだわり、目の前の結果を素直に受け入れない。同じ国の海軍で効果が出ている方法を、陸軍は認めようとしなかった。組織が自分の正しさにこだわりすぎると、何が起きるのか。その問いを日本軍の事例で深く掘り下げた古典が、この本だ。
投資家目線:賠償金が日本を「金本位制」の国にした
日清戦争のお金の話もしておきたい。
日本の戦費は約2億円だった。当時の国の1年の予算の2倍ほどにあたる。10年後の日露戦争の戦費は、その約10倍の20億円あまりに膨らむ。
そして日本は、清国から賠償金を受け取った。遼東半島を返した分の追加分も合わせると、当時の日本円で3億円を大きく超える額で、国の予算の数年分にもなった。
このお金の使い道が面白い。大部分は、次のロシアとの戦争に備えた軍備の拡張に回された。戦艦6隻と装甲巡洋艦6隻をそろえる「六六艦隊」の計画で、その中から日露戦争の旗艦「三笠」も生まれる。三笠については戦艦三笠の解説で書いた。官営の八幡製鉄所の建設にも、この賠償金が使われた。
そして投資家として一番注目したいのが、金本位制だ。日本は賠償金をイギリスのポンドで受け取り、ロンドンに置いたまま、それを裏付けにして1897年に金本位制に移った。通貨の価値を金と結びつけることで、日本の円は国際的な信用を得た。
この信用が、10年後に効いてくる。日露戦争の戦費の多くは、ロンドンやニューヨークで外債を発行して集めた。金本位制の国として認められていたからこそ、日本は海外の投資家からお金を借りることができたのだ。日清戦争の賠償金は、軍艦だけでなく、次の戦争を戦うための「信用」まで買っていたことになる。
もう一つ、戦後の経済の話もしておく。賠償金が流れ込み、戦勝の高揚感が広がった日本では、鉄道や紡績、銀行といった会社が次々に生まれ、株式への投資もさかんになった。ところが、その勢いは長くは続かず、数年後には反動の不況がやってくる。戦争の勝利がつくった好景気は、いつか必ず冷める。これは日露戦争のあとにも、第一次世界大戦のあとにも、形を変えて繰り返された。
戦争は、戦場だけで戦われるものではない。お金の流れを追っていくと、明治の日本が二つの戦争を一つの長い計画のように戦っていたことが見えてくる。
日清戦争が残したもの

日清戦争は、日本と東アジアの姿を大きく変えた。
日本にとっては、初めての本格的な対外戦争での勝利だった。台湾を手に入れて、初めての植民地を持つことになり、列強の仲間入りへの一歩を踏み出した。国民の間には、大国の清に勝ったという自信と高揚感が広がった。
清にとっては、決定的な打撃だった。「眠れる獅子」と恐れられていた大国が、東の小国に負けたことで、その弱さが世界中に知れわたった。このあと列強は、清の国土を次々に分割していく。清は、日清戦争からわずか16年後に滅びることになる。
そして朝鮮は、清の属国から切り離されたものの、今度は日本とロシアの綱引きの舞台になっていく。最終的には日露戦争を経て日本に併合される。日本にとっての勝利の物語は、朝鮮にとっては独立を失っていく物語の始まりでもあった。同じ戦争でも、どこから見るかで意味はまったく変わる。
私が日清戦争で一番印象に残るのは、日本が「化け物」を恐れたことから、すべてが始まっているということだ。定遠と鎮遠に怯えた日本は、国を挙げて海軍をつくり、知恵を絞って戦い方を考え、そして勝った。恐れを知っていたから、慎重で、真剣だった。その恐れを忘れたとき、日本は道を誤っていくことになる。
よくある疑問に短く答える
結局、日清戦争はなぜ日本が勝てたのか
一言で言えば、国としてのまとまりと、新しい戦い方の差だ。日本は国を挙げて一つの軍として戦い、海では速射砲と高速の巡洋艦で、陸ではドイツ式の参謀制度で、近代的な戦争を戦った。清国は、艦も兵も数はそろっていたが、地域ごとにばらばらで、新しい技術や戦い方への対応も遅れていた。
日清戦争と日露戦争は何が違うのか
日清戦争は、日本が「近代化に遅れた大国」に勝った戦争だった。日露戦争は、日本が「近代化を進めた大国」と、ぎりぎりの勝負をした戦争だった。日清戦争は約9か月、戦費は約2億円。日露戦争は1年7か月、戦費は20億円あまり。規模も、日本が背負ったリスクも、まるで違う。日清戦争の勝ちやすさが、日露戦争の厳しさを見えにくくした面もあったと思う。
定遠と鎮遠は、本当に「化け物」だったのか
戦艦としての装甲と砲の力は、間違いなく当時の東アジアで最強クラスだった。黄海海戦で何百発もの砲弾を受けても沈まなかったことが、その強さを証明している。ただ、強い艦が2隻あっても、艦隊全体の速さや手数、組織の力で上回られると、戦いには勝てない。化け物は、化け物だけでは勝てなかった。
自衛隊ファンとして:130年後の東シナ海
日清戦争の地図を眺めていると、今のニュースで見る地名がたくさん出てくることに気づく。黄海、東シナ海、台湾、朝鮮半島。130年前に日本と清が争った海は、今も日本の安全保障の最前線だ。
当時、清国の海軍は、地域ごとにばらばらで、新しい艦も買えずにいた。今の中国海軍は、その真逆だ。世界最大級の数の艦艇を持ち、最新鋭の大型駆逐艦や空母を次々に送り出している。かつて日本が定遠と鎮遠に怯えたように、今は日本が中国海軍の急速な拡大と向き合っている。今の両国の戦力の比較は日本と中国の軍事力比較、中国海軍の主力艦については055型とアーレイ・バーク級の比較で書いた。
歴史がそのまま繰り返すわけではない。でも、日清戦争から学べることはある。強い艦を何隻持っているかではなく、それを国としてどう動かすか。新しい技術や戦い方に、組織がどれだけ素早く適応できるか。130年前に勝敗を分けたものは、今も変わらず大事なのだと思う。
日清戦争ゆかりの地を訪ねる

資料:Nesnad/出典・利用条件(CC BY-SA 3.0)
山口県下関市の「春帆楼」の隣には、日清講和記念館がある。下関条約が結ばれた会議の部屋が再現され、実際に使われた調度品が展示されている。伊藤博文や李鴻章が座った椅子を見ていると、130年前の緊迫した交渉の空気が伝わってくる。関門海峡に面した港町なので、海の景色とふぐ料理も楽しめる。
福岡県太宰府市には、「定遠館」と呼ばれる建物が残っている。日清戦争のあと、解体された定遠の部材を使って建てられたと伝えられる建物だ。太宰府天満宮のすぐ近くなので、参拝のついでに立ち寄れる。あの化け物の一部が、九州の古都にひっそりと残っているのは、なんとも不思議な感覚だ。
下関と太宰府は、電車で1時間ほどの距離にある。北九州を拠点に一泊二日で回るのがちょうどいいと思う。
もっと深く知りたい人へ

日清戦争の外交の内側を知るなら、陸奥宗光の回想録『蹇蹇録』は外せない。当事者が、日本の外交の強引さも含めて率直に書いた記録で、今も文庫で読める。
長い本を読む時間がないなら、耳で聴くのもいい。通勤や家事のあいだに戦史を聴くようになって、私の読書量はかなり増えた。
日本海軍の艦艇の全体像を写真と図で見渡したいなら、こちらもおすすめだ。三景艦や吉野の時代から太平洋戦争まで、帝国海軍の歩みを一冊で追える。
日清戦争で手に入れた自信と、三国干渉の屈辱。その二つを抱えて、日本は10年後、ロシアとの戦争に向かっていく。その続きは、日露戦争の記事で書いている。







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