玉音放送の前日、11時40分
1945年8月14日、午前11時40分ごろ。満洲西部、興安街の南東約35キロ。ラマ教寺院・葛根廟の近くの丘に、約1,300人の日本人の列が差しかかっていた。
4日間、歩いてきた列である。女性と子どもと老人が9割を占め、荷物を背負い、乳飲み子を抱えていた。目指していたのは葛根廟の駅だった。そこで列車に乗れば、南の白城子へ行ける。関東軍がいるはずの町だった。
丘の上に、ソ連軍の戦車が現れた。中型戦車14両と、歩兵を乗せたトラック20台。
列を率いていた興安総省の参事官は、白旗を掲げた。参事官は機関銃で撃たれた。
戦車は丘を下り、隊列に突っ込んだ。機銃を撃ちながら、人を轢いた。隊列を抜けると丘に戻り、向きを変え、また突っ込んだ。それが何度も繰り返された。戦車の攻撃が止むと、トラックから降りた歩兵が、生きている者を探して撃ち、銃剣で刺した。
襲撃は約2時間続いたとされる。自決なども含めた一行の犠牲者は、1,000人以上とされる。
翌日の正午、日本では玉音放送が流れる。前日の8月14日は、御前会議でポツダム宣言の受諾が決まった日でもある。日本が降伏を決めた日に、満洲の草原で、日本の民間人が最も多く殺された。
これが葛根廟事件である。ソ連軍による日本の民間人の殺害としては、最大規模とされる。生き延びたのは百数十人にすぎない。この記事では、興安街の人々がなぜ歩いて逃げることになったのか、8月14日の2時間に何が起きたのか、生き残った人々がその後どうなったのか、そして誰が彼らを置き去りにしたのかを追う。満洲の逃避行の全体像は満蒙開拓団の逃避行で書く。
興安街という町

興安街は、満洲国の興安総省の省都だった。別名を王爺廟といい、現在の中国内モンゴル自治区ウランホトにあたる。モンゴル人の土地に置かれた日本の行政の拠点で、省公署、軍官学校、合作社、電信電話局があり、約3,000人の日本人が住んでいた。役人、会社員、商店主、教師と、その家族である。
町の位置が、運命を決めた。興安街はソ連・モンゴルとの国境から近く、ソ連軍が満洲西部に侵攻すれば、真っ先に通る場所にあった。
8月9日未明、ソ連軍が国境を越えた。興安街に参戦の報が入った。10日と11日、ソ連機が町を爆撃し、都市機能はほぼ破壊された。
町を守るはずの関東軍は、すでにいなかった。1945年夏の関東軍は南方への兵力転用で骨抜きになり、残った部隊も、国境地帯を放棄して南東部で持久する作戦に切り替えていた。興安街周辺の部隊は、住民より先に南へ移動していた。護衛も、反撃も、期待できなかった。
8月11日、歩き出す

興安街には、かねてからソ連の侵攻に備えた避難計画があった。住民を三つの班に分け、それぞれ省の参事官が率いて避難するというものである。
列車に乗れた人と、乗れなかった人で、運命が分かれた。9日から10日にかけて、一部の住民は列車で南へ脱出した。しかし列車はすぐになくなった。残された人々は、歩くしかなかった。
町の東半分の住民を率いたのは、参事官の浅野良三だった。合作社の関係者、電信電話局の職員、自営業者や会社員の家族。約1,300人。11日、この列は興安街を出て、東4キロの町で一夜を過ごした。初日は炊き出しがあった。2日目からは、食事もままならなかった。
当初の目的地は、100キロ離れたジャライト旗だった。だが12日から雨が降り、道はぬかるんだ。さらに、満洲国軍のモンゴル人部隊が離反し、避難民の馬車を奪った。荷物と食料を運ぶ手段を失った列は、計画を変えた。興安街の南東約35キロにある葛根廟の駅まで歩き、そこから鉄道で白城子へ出る。白城子には関東軍がいるはずだった。
女性と子どもと老人の列が、雨の草原を、荷物を減らしながら歩いた。乳飲み子を抱えた母親、祖父母の手を引く子ども、歩けなくなって置いていかれる人。11日から14日まで、4日間。
犠牲者のうち200人近くは、興安街の国民学校の児童だった。夏休み中の小学生である。
8月14日、2時間
14日の午前11時40分ごろ、列は葛根廟の丘陵に差しかかった。丘を越えれば駅がある。駅に着けば、白城子行きの列車がある。4日間歩いてきた人々にとって、丘の向こうは「助かる場所」だった。
その丘の上に、ソ連軍がいた。
| 時間 | 出来事 |
|---|---|
| 11時40分ごろ | 丘の上にソ連軍の中型戦車14両とトラック20台が現れる |
| 直後 | 浅野参事官が白旗を掲げる。機関銃で射殺される |
| 直後 | 戦車が丘を下り、隊列に突入。機銃で撃ちながら人を轢く |
| 以後 | 戦車は隊列を抜けると丘に戻り、向きを変えて再び突入。これを繰り返す |
| 戦車の攻撃が止んだ後 | トラックから降りた歩兵が、生存者を見つけ次第射殺し、銃剣で刺す |
| 約2時間後 | ソ連軍が去る。一行の犠牲者は、自決などを含めて1,000人以上とされる |
生存者の証言によれば、戦車に轢かれた人々がキャタピラに巻き込まれ、宙に舞った。草原は血の海になった。子どもの悲鳴と、銃弾が体に食い込む音が、2時間続いた。
逃げる場所はなかった。草原には遮るものがなく、戦車は人より速い。伏せた人は轢かれ、走った人は撃たれた。生き延びたのは、死体の下に隠れた人、窪地に転がり込んだ人、偶然、戦車の進路から外れた人だった。
攻撃したソ連軍が、この列を何だと思っていたかは分からない。しかし、白旗が掲げられ、それを掲げた人物が最初に撃たれたという事実は残る。列に武装した兵士はいなかった。9割は女性と子どもだった。戦車は一度突入すれば、それが何の列かを見ている。それでも、丘に戻って向きを変え、また突入した。何度も。
私は、この「何度も」という言葉を、事件の中で最も重いものだと思っている。一度の誤認なら、悲劇と呼べるかもしれない。だが戦車は戻ってきた。見たうえで、戻ってきた。
攻撃の後|自決と、残留孤児と、百数十人
ソ連軍が去った後、丘には多くの遺体と、傷ついた生存者が残された。一行の犠牲者1,000人以上という推計には、襲撃後の自決なども含まれる。
生き残った人々の多くは、家族を目の前で失っていた。戦車に轢かれ、被弾し、動けない人がいた。そこで、自決が起きた。母親たちは、幼い子どもの首にナイフを当て、あるいは毒を飲ませ、そして自らの命を絶った。助かる見込みがないと考えた人、家族を失って生きる理由をなくした人、次に来る者への恐怖に耐えられなかった人。
自決を免れた人々も、安全ではなかった。その後の逃避行の途上で、現地住民の襲撃を受け、あるいは再びソ連兵に襲われた。葛根廟の丘で生き残った人が、その先の道で死んだ。
はっきり確認された生存者は110人あまり。後に発見された中国残留孤児を含めても百数十人である。30人以上の子どもが、親を失って現地に残され、中国人の家庭で育った。彼らが日本に肉親を探しに来るのは、事件から40年近く後のことになる。
生存者たちは、9月末までに新京にたどり着き、収容所で冬を越し、1946年秋に葫蘆島から引き揚げた。事件から帰国まで、1年以上かかっている。
葛根廟事件は、満洲西部で起きた虐殺の最初のものだった。3日後の8月17日には、東京荏原開拓団の964人が双明子で襲われた。8月25日には、仁義佛立講開拓団の400人が洮南の西で襲われた。葛根廟は、例外ではなかった。同じ地域で、同じ8月に、同じことが繰り返された。
残留孤児になった子どもたち

葛根廟の丘で親を失った子どものうち、30人以上が現地に残された。泣いている子どもを、通りかかったモンゴル人や中国人が拾い、自分の家で育てた。名前も、生年も、親の顔も分からないまま、彼らは中国人として育った。
その一人に、烏雲(ウユン)と呼ばれる女性がいる。事件で家族を失い、モンゴル人の家庭で育てられ、後に内モンゴルで教師になった。1990年代以降は、日本の支援者とともに内モンゴルの砂漠に木を植える活動を続け、その講演記録は命日会の証言集にも収められている。自分を残した国と、自分を育てた土地の両方に、木を植える形で向き合った人である。
残留孤児が日本に肉親を探しに来るのは、1981年に始まる訪日調査以降のことである。首の傷跡が身元の証になった人、写真一枚で親族と再会した人、最後まで肉親が分からなかった人がいる。事件から40年近くが過ぎていた。彼らの多くは、日本語を話せなかった。
葛根廟事件の死者は1,000人以上だが、この事件が奪ったものは、死者の数では測れない。親を失って中国人として育った子どもの、その後の人生も、この事件の一部である。残留孤児の制度と帰国後の生活は中国残留孤児で書く。
なぜ起きたのか|偶発ではない理由
ソ連軍がなぜ避難民の列を攻撃したのかについて、ソ連側の記録は公開されていない。ソ連もロシアも、この事件を公式に認めたことがない。
だが、状況から言えることがある。
第一に、日本政府は8月10日に条件付きのポツダム宣言受諾を連合国に通告し、14日に正式受諾を決めた。ただし、14日の襲撃時点で現地のソ連軍部隊がどこまで知っていたかは、今回参照した資料からは確認できない。ソ連軍はその後も作戦を続けたが、16日の声明を14日の攻撃の根拠とすることはできない。
第二に、ソ連軍には軍と民を区別する意思がなかった。白旗を掲げた者が最初に撃たれた。隊列が女性と子どもの列であることは、一度突入すれば分かる。それでも攻撃は繰り返された。歩兵は生存者を探して刺した。これは戦闘ではない。掃討である。
第三に、同じことが繰り返された。双明子、洮南。満洲西部を南下するソ連軍の進路上で、避難民の列が次々に襲われた。一つの部隊の暴走ではなく、進路上の日本人を排除するという行動の型があった。
ソ連の対日参戦の目的は、日本を降伏させることではなかった。日本はすでに敗れていた。目的は、戦争が終わった後に手元に残るもの、つまり領土と労働力と財産だった。その作戦の進路上に、興安街の1,300人がいた。彼らはソ連軍にとって、戦うべき敵でも、守るべき民間人でもなく、進路上の障害だった。
葛根廟で死んだ人々は、戦争で死んだのではない。日本が降伏を決めた日に、白旗を掲げた避難民が攻撃を受けた。現地部隊が日本の正式受諾を知っていたかは、別に検証すべき問題である。
誰が置き去りにしたのか|日本の側の責任
ソ連軍の責任を書いたうえで、日本の側の責任も書いておく。この記事はソ連の行為を記録するが、興安街の人々を草原に置き去りにしたのが誰かを消すためのものではない。
関東軍は、開戦の翌日から軍人の家族を列車で新京から南へ送り出した。8月10日夜から11日にかけてのことである。同じ11日、興安街の民間人は徒歩で歩き出していた。軍の家族には列車があり、民間人には列車がなかった。
関東軍司令部は7月の時点で、国境地帯を放棄して南東部で持久する作戦を決めていた。国境に近い興安街のような町は、その計画の中で守られる対象ではなかった。住民には知らされなかった。ソ連軍が来たとき、興安街周辺の部隊はすでに南へ移動していた。護衛はなかった。
そして、満洲国軍のモンゴル人部隊は離反し、避難民の馬車を奪った。日本が作った国の軍隊が、日本人の避難民から荷物を奪った。満洲国という国の実態が、その瞬間に露わになった。
葛根廟の1,300人は、ソ連軍に殺される前に、日本の軍に見捨てられ、満洲国の軍に裏切られていた。三重に置き去りにされた人々だった。
この構造は、興安街だけのものではない。満洲の開拓団と民間人155万人のうち24万人が死んだ背景には、同じ「軍が先に去った」という事実がある。特集の入口であるソ連の対日侵攻と日本人被害で、その構造を整理している。
分かっていること、分かっていないこと
葛根廟事件は、生存者の証言によって復元された事件である。ソ連側の記録がなく、日本側の公文書もない。何が確定していて、何が推定にとどまるのかを整理しておく。
| 項目 | 状況 | 根拠 |
|---|---|---|
| 日付・時刻 | 確定(8月14日午前11時40分ごろ) | 複数の生存者証言が一致 |
| 場所 | 確定(葛根廟の丘陵付近) | 同上。現地は現在の中国内モンゴル自治区 |
| 攻撃側の兵力 | ほぼ確定(中型戦車14両、トラック20台) | 生存者の目撃証言 |
| 避難民の人数 | 推定(約1,200〜1,300人) | 出発時の班編成に基づく。途中の離脱・死亡を含む |
| 死者数 | 推定(1,000人以上) | 生存者数からの逆算。攻撃直後の自決とその後の死を含む |
| 生存者数 | ほぼ確定(110人あまり、残留孤児を含め百数十人) | 命日会の名簿 |
| 攻撃したソ連軍部隊の名称 | 不明 | ソ連側記録が非公開 |
| ソ連側の攻撃の理由 | 不明 | 同上 |
| 白旗を掲げた事実 | 確定 | 複数の証言が一致 |
攻撃した部隊がどこの誰だったのかは、80年経っても分かっていない。ソ連は記録を出さず、ロシアも出さない。だから、この事件の加害者には部隊名がない。だが、国の名前はある。
誰が記憶してきたか|命日会と、「贖罪に時効はない」

葛根廟事件は、長く知られていなかった。生存者が少なく、その多くが子どもだったこと。事件の現場が中国領となり、誰も訪ねられなかったこと。そして、引揚者の多くが満洲での経験を語らなかったことがある。
記憶を支えてきたのは、生存者と遺族の会だった。「興安街命日会」は、毎年8月14日に東京・目黒の五百羅漢寺で慰霊祭を営み、証言集『葛根廟事件の証言』を編んだ。手記には、家族六人を失った人、首の傷跡が身元の証になった残留孤児、母と妹の最期を見た人の記録が収められている。
証言集の序文を書いたのは、藤原作弥である。後に日本銀行副総裁を務めた藤原は、少年時代を興安街で過ごし、列車で脱出した側の人間だった。同じ町から、列車に乗れた少年と、乗れずに歩いた1,300人がいた。その差を知る人が、序文を書いた。
会の中心にいたのが、生存者の大島満吉である。1935年生まれ、事件当時9歳。一家5人で逃げ延び、戦後は事件の語り部として証言を続けてきた。事件の記録を『流れ星のかなた 葛根廟事件からの生還』として出版し、2017年には生存者12人の証言をもとにしたドキュメンタリー映画『葛根廟事件の証言』が作られた。映画は2019年に劇場公開されている。
命日会は2023年、会員の高齢化により、79回忌の慰霊祭を最後に解散した。戦争の犠牲者を追悼する場が、また一つ失われた。だが証言集と映画は残った。
大島は「贖罪に時効はない」と語っている。80年が経っても、加害の側の責任は消えない、という意味である。ソ連は認めなかった。ロシアも認めていない。2026年9月、ハバロフスクにはソ連兵が日本の国境標石を砕く記念碑が建った。葛根廟の丘で戦車が砕いたものを、ロシアは今、銅像にして祝っている。
判定|葛根廟事件は「戦争の悲劇」ではなく「虐殺」である
三段階で判定する。
事実の判定。1945年8月14日午前11時40分ごろ、興安街から4日間歩いて避難してきた約1,300人の日本人の列が、葛根廟付近でソ連軍の戦車14両とトラック20台の歩兵に襲われた。白旗を掲げた引率の参事官は機銃で射殺され、戦車は隊列に繰り返し突入し、歩兵は生存者を射殺・刺殺した。襲撃は約2時間続いたとされ、自決などを含む一行の犠牲者は1,000人以上とされる。犠牲者の9割以上が女性と子どもだったと伝えられている。生存者は百数十人で、うち30人以上が中国残留孤児となった。
意図の判定。日本が降伏の意思を伝えた後に、白旗を掲げた非武装の列に対して、戦車が何度も向きを変えて突入し、歩兵が生存者を探して刺した。これは誤認でも偶発でもなく、進路上の日本人を排除する行動であり、3日後の双明子、11日後の洮南でも同じことが繰り返された。ソ連軍は軍と民を区別する意思を持たず、日本の降伏を作戦停止の理由と見なしていなかった。
歴史の判定。興安街の人々は、ソ連軍に殺される前に、列車で先に去った関東軍に見捨てられ、馬車を奪った満洲国軍に裏切られていた。三重に置き去りにされた人々が、日本が降伏を決めた日に、白旗の下で殺された。ソ連もロシアもこの事件を認めていない。記憶を守ってきたのは百数十人の生存者と遺族であり、その会も2023年に解散した。この事件を「戦争の悲劇」と呼ぶことは、誰がやったのかを消すことである。これは虐殺であり、加害者には名前がある。
葛根廟の2日前、8月12日に麻山で起きた集団自決は麻山事件で、逃避行の中で親と引き離された子どもたちのその後は中国残留孤児で書く。
よくある疑問
葛根廟事件はいつ、どこで起きましたか
1945年8月14日、玉音放送の前日の昼、満洲国興安総省の葛根廟(現在の中国内モンゴル自治区)付近で起きた。興安街から南東約35キロの地点である。
犠牲者は何人ですか
約1,300人の避難民のうち1,000人以上が死亡したとされる。ソ連軍の攻撃による死者に加え、直後の自決や、その後の逃避行での死者を含む。正確な数は分かっていない。9割以上が女性と子どもで、200人近くは国民学校の児童だった。
生存者はいますか
はっきり確認された生存者は110人あまり、残留孤児を含めても百数十人である。生存者の一人、大島満吉は2020年代に入っても証言を続けており、生存者12人の証言によるドキュメンタリー映画『葛根廟事件の証言』が2019年に劇場公開された。
ソ連やロシアはこの事件を認めていますか
認めていない。ソ連側の記録は公開されておらず、ロシア政府が事件について言及したこともない。







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