黒川開拓団の女性たち|ソ連兵への「接待」とは何だったのか

黒川開拓団の女性たち
目次

「接待」という言葉

「接待」という言葉

だが、この言葉を最初に置くことには注意がいる。「接待」は、もてなす側の主体的な行為を思わせる。実際に起きたことは、そうではない。

1945年9月、満洲の黒川開拓団は、現地住民の襲撃に包囲され、集団自決の瀬戸際にいた。団はソ連軍に警護を頼んだ。ソ連兵は見返りに、女性を要求した。団の幹部は、数え18歳から21歳の未婚の女性15人を選び、「団を守るために犠牲になってくれ」と言った。女性たちは、元本部の一室で、約2か月にわたって、ソ連兵の性暴力を受け続けた。15人のうち4人が、性病や感染症などで現地で亡くなった。

生き残った女性たちを帰国後に待っていたのは、「満州帰りの汚れた娘」という言葉だった。事実は長く、村の中で秘密にされた。

この記事では、黒川開拓団に何が起き、ソ連兵が何を要求し、団が何を決め、女性たちがどう生き、村がどう扱い、そして誰がこの事実を明るみに出したのかを追う。性暴力の具体的な描写はしない。何が起きたかを、当事者の言葉と記録に基づいて書く。満洲の逃避行の全体は満蒙開拓団の逃避行で書いている。

黒川開拓団|岐阜の山村から陶頼昭へ

農村の暮らしを支えた道具
農村の暮らしを支えた道具。

黒川村は、岐阜県の山あいの村である。現在の白川町黒川。渓流に沿って人家が点在する集落で、耕地は狭かった。

1941年4月、この村から29人が満洲の吉林省陶頼昭に入植した。翌年からは毎年3回、送り出しが続き、129世帯以上、600人以上が渡った。陶頼昭は満洲中部、新京とハルビンを結ぶ鉄道の途中にある町で、団の本部は駅の近くに置かれた。ほかの多くの開拓団と違い、国境の近くではなかった。

1945年夏、根こそぎ動員で成人男性が召集された。団に残ったのは、女性と子どもと老人、そして高齢の幹部たちだった。

8月9日、ソ連軍が侵攻した。陶頼昭は満洲の中央部にあり、国境からは遠い。ソ連軍の戦車がすぐに来ることはなかった。黒川開拓団の危機は、8月15日の後に始まった。

8月15日の後|包囲と、「死んじゃだめだ」

8月15日の後

黒川開拓団も、200人、300人に包囲された。

団の中で「もう死ぬほかない」という声が出た。麻山で、葛根廟の後で、各地の開拓団が選んだ道である。そのとき、一人の男が声を上げた。そんな簡単な命ではない、どうにかして日本へみんなで帰らなければならない、死んではだめだ、と。佐藤ハルエの父親だった。その声が、団の流れを変えた。

死なないと決めた。だが、守る手段はなかった。男はいない。武器もない。包囲は続いている。

団は、敵であるソ連軍に助けを求めることにした。10代の青年が馬で包囲を突破し、近くに駐留していたソ連軍に警護を頼みに行った。ソ連兵が来て、現地住民を追い払った。

包囲は解けた。ここまでなら、ソ連軍は開拓団を救った側である。だが、ここからが黒川の出来事の本体になる。

なぜ黒川は自決ではなく、娘を選んだのか

同じ8月、麻山では哈達河開拓団が集団自決を選んだ。黒川はそうしなかった。二つの団の違いは、どこにあったのか。

なぜ黒川は自決ではなく、娘を選んだのか

もう一つは、一人の声である。「死んじゃだめだ」と言った父親がいた。麻山にはその声がなかったか、あっても届かなかった。

だが、この二つの違いは、団に「自決」か「娘」かという選択肢しか残さなかった。男はいない。武器はない。守ってくれるはずの軍は去った。残された選択肢は、全員で死ぬか、娘を差し出して生きるか、だった。

黒川の幹部が娘を選んだことを、私は責める言葉を持たない。451人が帰ったのは、その判断の結果である。だが、その判断を迫ったのは誰か。娘を差し出さなければ守らない、と言った側である。集団の生存と娘の身体を天秤にかけさせた側である。選んだのは団だが、天秤を置いたのはソ連兵だった。

麻山の自決の経過は麻山事件で書いている。

ソ連兵の要求|「女を出せ」

ソ連兵の要求

団の幹部は、ソ連軍の将校と交渉した。団の安全と食料を保証してもらう見返りに、女性を「接待」として差し出す。それが、交渉の結果だった。

ソ連側の言い方は、当事者の証言によれば「女を出せ」だった。団は、それに応じた。

選ばれたのは、数え年で18歳から21歳の未婚の女性15人である。出征している兵士の妻は「夫に悪いから出せない」として除外された。既婚の女性にも頼めなかった。娘だけが対象になった。幹部は女性たちに、ここを守るために、悲しいし苦しいだろうけれど、ソ連兵の犠牲になってくれ、と言った。

当時21歳だった安江善子は、女性たちのリーダー格だった。彼女は幹部に対して、差し出す女性の年齢を数え18歳以上に引き上げるよう交渉した。より若い娘を守るためだった。そして、自分より年下の娘の身代わりに、自分が行くことがあった。

当時10歳だった安江菊美は、ある日、母親から風呂を焚くように言われた。久しぶりに自分たちが入れる風呂だと思って、喜んで焚いた。そうではなかった。ソ連兵のもとへ行く娘たちが、身を清めるための風呂だった。

15人の2か月

「接待」は1945年9月から、約2か月にわたって続いた。場所は、団の元本部の一室だった。ベニヤ板で囲われた部屋である。

当時20歳だった佐藤ハルエは、後年、その部屋で何十回とソ連兵の性暴力を受けたと証言している。彼女は、ここを守るためには仕方がないと思った、と語る。犠牲になれと言われ、涙を飲みながら、そういう目にあった、と。

安江善子は、1990年に「乙女の碑」と題した詩集を書き残した。その冒頭の詩には、ベニヤ板で囲まれた元本部の一室は悲しい部屋だった、泣いても叫んでも誰も助けてくれない、お母さんと呼ぶ声が聞こえる、という趣旨の言葉が記されている。

15人のうち4人が、性病や感染症などで命を落とした。予防や処置を手伝った人の証言もあるが、十分な医療を受けられる環境ではなかった。彼女たちは、団を守るために差し出され、団の中で、病気で死んだ。

ソ連兵は、警護と食料の見返りとして、これを2か月続けた。降伏した国の民間人の集団に対して、保護の代価として女性を要求し、要求が通ると、それを日常にした。ここでの経過は、女性たちの証言と、記念館・遺族会による記録をもとにしている。ソ連軍側の記録は、今回参照した資料からは確認できない。

帰国|451人が帰り、彼女たちに「汚れた娘」と言った

家族の便りを収めた箱
家族の便りを収めた箱。
帰国

だが、帰った女性たちを待っていたのは、感謝でも謝罪でもなかった。

満州帰りの汚れた娘」。「ロスケにやられた女」。村ではそういう言葉が投げられた。弟からも「汚れた娘」と言われた人がいる。元幹部からは、お前たちはいいことをしたのだからいいじゃないか、という言葉が投げられたこともあったという。

団の中には、厳しい箝口令が敷かれた。「接待」のことは、村の外に出してはならない。差し出した側は語らず、差し出された側は語れず、長い年月が過ぎた。

女性たちは、定期的に集まり、互いに励まし合ってきた。誰にも言えないことを、同じ部屋にいた者同士でだけ、言えた。

私は、この帰国後の扱いを、ソ連兵の行為と切り離して書くことができない。ソ連兵は2か月、彼女たちを襲った。村は長く、彼女たちを黙らせた。前者がなければ後者はなかった。だが、後者を選んだのは村である。ソ連の非道と、日本の側の無念は、ここで一つの部屋に重なっている。

1982年、説明のない碑

1982年、白川町黒川の佐久良太神社の境内に、一体の地蔵菩薩像が建てられた。「乙女の碑」とだけ刻まれていた。開拓団で犠牲になった女性たちに捧げて有志の寄付で建てられたが、何の犠牲かは、どこにも書かれていなかった。

碑は、36年間、そのままだった。村の人は、それが何の碑かを知っていた。知っていて、書かなかった。

2013年、二人が語った

古い資料を調べるための机
古い資料を調べるための机。

2013年、佐藤ハルエと安江善子の二人が、満蒙開拓平和記念館の語り部講演で自らの体験を語った。事件から68年が経っていた。二人とも、17歳、18歳で満洲へ渡った人である。

証言は、少しずつ外に出た。2017年にはノンフィクション作家の平井美帆が取材記事を発表し、その後、女性たちの証言を『ソ連兵へ差し出された娘たち』としてまとめた。2018年8月、佐藤ハルエは岐阜市民会館で開かれた戦争の証言集会で、自身の体験を語った。93歳だった。その記事が朝日新聞の全国版に載り、テレビ朝日の松原文枝の目に留まる。

安江善子は、碑文の完成を見ることなく亡くなった。

2018年11月、碑文が刻まれた

海を望む場所に手向けられた花
海を望む場所に手向けられた花。

遺族会の中で、碑文をめぐる議論があった。事実を刻むべきだという男性と、刻むべきでないという男性がいた。差し出した側の子や孫たちの間で、深刻な話し合いが続いた。

4代目の遺族会会長は、いとこの安江菊美から、安江善子の詩集のコピーを見せられた。善子が1990年に記した詩には、赤ペンで書き込みがされていた。

2018年11月、乙女の碑の脇に、碑文が設置された。除幕式が行われた。碑文には、次の趣旨の言葉がある。乙女の命と引き替えに、団の自決を止めるため、若き娘の人柱を捧げて守った開拓団。

差し出した側の子孫が、差し出された事実を、自分たちの名前で石に刻んだ。遺族会はその席で、女性たちに謝罪の言葉を述べたとされる。

碑が建ってから36年、事件から73年、二人が語り始めてから5年。石に事実が刻まれるまでに、それだけかかった。

映画『黒川の女たち』

テレビ朝日の松原文枝は、2018年の除幕式までの過程を番組として2019年に放映し、その後さらに取材を重ねて、2025年に映画『黒川の女たち』として公開した。佐藤ハルエと安江菊美の証言、遺族会の議論、碑文が刻まれるまでの記録である。

映画の意味は、二つある。一つは、性暴力の被害者が自らの言葉で語る姿を、その表情とともに記録したことである。もう一つは、帰国後に中傷され続けたという二次被害を、映像として残したことである。ソ連兵の行為と、村の扱いと、その両方が一本の映画の中にある。

2021年の時点で、15人のうち存命だったのは3人だった。佐藤ハルエは大正14年生まれ、その年で95歳。写真を指して、この人は犠牲にならなかった、今残っているのはこれとこれと私の3人、もうみんな亡くなった、と語っている。

誰が誰に何をしたのか

黒川の出来事には、四つの主体がいる。責任の性格が違うので、分けて書く。

主体何をしたか責任の性格
現地住民敗戦後に団を包囲し、略奪と襲撃を行った開拓団に土地を奪われた側の報復。正当化はできないが、理由はあった
ソ連兵警護の見返りに女性を要求し、2か月にわたって性暴力を続けた。将校が交渉に応じ、組織として取引を成立させた降伏した国の民間人への性暴力。兵士個人の逸脱ではなく、部隊としての行為
団の幹部未婚の娘15人を選び、差し出した。帰国後は箝口令を敷いた集団の生存のための判断。だが、その後の隠蔽と、女性たちへの扱いは判断とは別の責任
村と社会帰国した女性たちを中傷し、長く沈黙させた被害者に二度目の加害を行った

四つの主体のうち、ソ連兵側の記録は、今回参照した資料からは確認できない。現地住民の襲撃は開拓団の記録にあり、団の判断は碑文に刻まれ、村の中傷は当事者の証言にある。ソ連軍がこの取引を何と呼び、誰が承認したのかは、分からない。加害の側で唯一、名前のない主体である。

「人柱」という言葉

2018年の碑文は、女性たちを「若き娘の人柱」と呼んでいる。この言葉を、遺族会の男性たちが選んだ。

人柱とは、建物や橋を守るために、生きた人を土台に埋める風習のことである。碑文がこの言葉を使ったのは、団が娘たちを、団という建物を支える柱として埋めたのだと、自分たちの言葉で認めたことを意味する。

私はこの言葉を、遺族会の誠実さの表れとして読む。「接待」でも「挺身」でもなく、「人柱」と刻んだ。差し出した側の子孫が、差し出したという事実を、最も重い言葉で石に残した。同時に、この言葉が示しているのは、女性たちが「柱」として扱われ、「人」として扱われなかったという事実でもある。彼女たちが2013年に語り始めたのは、柱ではなく人として、自分の言葉を持つためだった。

年表|1941年から2025年まで

出来事
1941年4月黒川村から29人が陶頼昭に入植。以後600人以上が渡る
1945年夏根こそぎ動員で成人男性が召集される
8月9日ソ連軍侵攻
8月15日以後現地住民の襲撃。隣の団が集団自決。黒川も包囲される
9月ソ連軍に警護を依頼。ソ連兵が女性を要求。15人が「接待」に差し出される
9〜11月ごろ約2か月にわたり性暴力が続く。被害女性のうち4人は、帰国までに性病や感染症などで現地で亡くなった
1946年451人が帰国。女性たちへの中傷が始まる。箝口令
1982年佐久良太神社に「乙女の碑」建立。説明なし
1990年安江善子が詩集「乙女の碑」を記す
2013年佐藤ハルエ、安江善子が満蒙開拓平和記念館の語り部講演で証言
2017年平井美帆の取材記事
2018年8月佐藤ハルエが岐阜市民会館の証言集会で語る
2018年11月碑文設置。除幕式
2019年テレビ朝日の番組放映
2022年平井美帆『ソ連兵へ差し出された娘たち』刊行
2025年映画『黒川の女たち』公開

1945年の2か月から、2013年の証言、2018年の碑文へ。この年表の長さそのものが、被害が公に語られ、石に刻まれるまでに何が必要だったかを示している。

黒川は例外ではない

黒川開拓団の出来事が知られているのは、当事者が語り、遺族会が刻み、映画が作られたからである。語られなかった団が、他にどれだけあるかは分からない。

満洲の開拓団と民間人に対するソ連兵の性暴力は、黒川だけで起きたのではない。逃避行の途中で、収容所で、占領下の町で、女性たちは襲われた。多くの団で、若い女性が差し出され、あるいは奪われた。語る人がいなかった団では、被害の実態を記録からたどることが難しい。

帰国した女性たちのうち、妊娠していた人々は、博多港の近くにあった二日市保養所で中絶の処置を受けた。患者数などの統計は残る一方、個々の被害の記録は限られている。その話は二日市保養所で書く。

黒川の15人は、名前を残した数少ない例である。彼女たちが語らなければ、黒川の出来事も、存在しなかったことになっていた。

判定|「接待」ではなく、性暴力と、その隠蔽だった

三段階で判定する。

事実の判定。1945年9月から約2か月、満洲の黒川開拓団は、現地住民の襲撃からの警護と食料の見返りに、数え18歳から21歳の未婚女性15人をソ連兵に差し出した。女性たちは元本部の一室で性暴力を受け続け、4人が性病や感染症などで現地で亡くなった。1946年に451人が帰国したが、女性たちは村で中傷され、事実は箝口令のもとで長く秘密にされた。1982年の碑には説明がなく、2013年に当事者が語り始め、2018年に碑文が刻まれた。

意図の判定。ソ連兵は、降伏した国の民間人の集団に対し、警護の代価として女性を要求し、要求が通ると2か月にわたってそれを続けた。これは兵士個人の逸脱ではなく、将校との交渉によって成立した取引であり、ソ連軍の組織としての行為である。団の幹部は、集団の生存のために娘を差し出すという判断をし、帰国後はそれを隠した。ソ連の非道と日本の側の隠蔽は、同じ部屋で起きた。

歴史の判定。15人の女性は、団を守るために差し出され、団に黙らせられ、73年後にようやく石に名前のない事実を刻まれた。彼女たちが語ったのは、自分の尊厳を取り戻すためであり、同じことを繰り返させないためだった。「接待」という言葉は、この出来事を小さく見せる。起きたのは性暴力であり、その隠蔽であり、それを長い年月をかけて明るみに出した当事者の闘いである。

満洲で起きた他の出来事は、葛根廟事件麻山事件で書いている。特集全体はソ連の対日侵攻と日本人被害から辿ってほしい。

よくある疑問

黒川開拓団で何があったのですか

1945年9月、満洲の黒川開拓団(岐阜県旧黒川村出身)が、現地住民の襲撃からソ連軍に守ってもらう見返りに、数え18歳から21歳の未婚女性15人をソ連兵に差し出した。女性たちは約2か月にわたって性暴力を受け、4人が性病や感染症などで現地で亡くなった。

なぜ長く秘密にされたのですか

帰国後、団の中に厳しい箝口令が敷かれ、被害を受けた女性たちは村で中傷された。差し出した側は語らず、差し出された側は語れなかった。2013年に当事者2人が公の場で証言し、2018年に碑文が設置された。

「乙女の碑」はどこにありますか

岐阜県白川町黒川の佐久良太神社の境内にある。1982年に建てられた地蔵菩薩像で、当初は説明がなく、2018年11月に事実を記した碑文が脇に設置された。

映画『黒川の女たち』はどんな作品ですか

テレビ朝日の松原文枝監督によるドキュメンタリーで、2025年に公開された。当事者の佐藤ハルエと安江菊美の証言、遺族会の議論、2018年に碑文が刻まれるまでを記録している。

出典・参考

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この記事を書いた人

軍研ノート編集部のアバター 軍研ノート編集部 自衛隊・兵器 / 戦史 / サバゲー

自衛隊で6年間勤務した編集長を中心に、自衛隊時代の仲間やサバゲーを通じた知人と記事を制作。経験と公開資料をもとに、装備の仕組みや歴史、その背景にある人々の工夫を掘り下げています。「かっこいい」から、その先の理解へ。編集長のプロフィール → 運営・編集方針

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