舞鶴はなぜ13年間、船を待ち続けたのか|66万人と1万6千柱を迎えた引揚港と「岸壁の母」

舞鶴はなぜ13年間、船を待ち続けたのか
目次

港が閉じられなかった13年

港が閉じられなかった13年

最後の引揚船が着いたのは、1958年9月7日。白山丸。中国からの帰国者を乗せていた。

その間、13年。引揚船が延べ346回、舞鶴に入り、約66万人の引揚者と復員兵が上陸した。遺骨だけで帰ってきた人が、1万6千柱いた。

日本には、戦後18の引揚港が置かれた。呉、佐世保、博多、函館、浦賀。660万人の海外在留日本人を迎えるためである。米軍の管理地域からの引き揚げは1945年9月に始まり、英軍や中国の管理地域からの引き揚げも1947年にはほぼ終わった。他の港は、次々に閉じられた。

舞鶴だけが、閉じられなかった。1950年以降、国内で唯一の引揚港として、舞鶴は船を待ち続けた。

なぜ、舞鶴だけが13年も開いていたのか。この記事はその問いから始める。答えは、舞鶴が迎えていた人々がどこから来ていたかにある。シベリアと、ソ連が占領していた満洲と北朝鮮と樺太である。ソ連は、日本人を一度に帰さなかった。小出しに、中断を挟み、11年かけて帰した。舞鶴の13年には、長期化したソ連からの帰還に加え、1958年まで続いた中国からの引き揚げも含まれている。

抑留の全体像はシベリア抑留はなぜ起きたのかで書いている。ここでは、その出口だった港の話を書く。

舞鶴という港

船を待つ人々と港の荷物
船を待つ人々と港の荷物。

舞鶴は、京都府の北部、日本海に面した港町である。明治以来、海軍の鎮守府が置かれた軍港で、湾は深く、大型船が入れる。日本海側で、ウラジオストクやナホトカに最も近い大きな港の一つだった。

1945年11月、舞鶴に引揚援護局が置かれた。上陸した人々の検疫、身元確認、帰郷の手配、そして遺骨の受け取りを担う機関である。上陸地は平(たいら)地区の桟橋で、引揚者はここから援護局の施設に入り、数日を過ごして、それぞれの故郷へ向かった。

舞鶴が主に迎えたのは、旧満洲、朝鮮半島、そしてシベリアからの人々だった。1946年12月にソ連地域からの引き揚げが始まると、ナホトカから舞鶴へ、抑留者を乗せた船が往復するようになった。

13年の内訳|船はなぜ途切れたのか

時期出来事舞鶴に着いた人々
1945年10月雲仙丸入港。引き揚げ開始朝鮮半島からの引揚者
1946年12月ソ連地域からの引き揚げ開始ナホトカからの抑留者、満洲・北朝鮮からの引揚者
1947年ソ連からの帰国が最も多い年。83隻、約20万人抑留者
1948〜49年帰国が続く抑留者
1950年4月ソ連が「帰還完了」を一方的に宣言。引き揚げ中断船が止まる
1950年以降他の引揚港が閉鎖。舞鶴が国内唯一の引揚港に
1953年3月中国からの集団引き揚げが始まる(日中の民間団体協定による)中国残留者
1953年12月ソ連からの帰国再開長期抑留者
1956年12月26日興安丸入港。日ソ共同宣言発効による最後の集団帰国「戦犯」とされた長期抑留者
1958年9月7日白山丸入港。引揚事業終了中国からの帰国者
13年の内訳

その3年半の間も、舞鶴は港を閉じなかった。まだ帰っていない人がいることを、家族が知っていたからである。船が来ないと分かっていても、家族は舞鶴に来た。

岸壁の母|船が来るたびに、港に立った人

「岸壁の母」という歌がある。1954年に菊池章子が歌い、1972年に二葉百合子が歌って大きく流行した。舞鶴の岸壁に立ち、帰らない息子を待ち続ける母親の歌である。

モデルとされるのは、東京に住んでいた端野いせという女性である。息子は満洲で召集され、消息を絶った。戦死の公報が届いても、彼女はそれを信じず、1950年から1956年まで、引揚船が舞鶴に着くたびに東京から舞鶴へ通った。船から降りる一人ひとりの顔を見て、息子がいないことを確かめ、東京へ帰った。それを6年間、繰り返した。

息子は帰らなかった。彼女は1981年に亡くなった。後年、息子は中国で生き延びていた可能性があるとする報道もあったが、確定はしていない。

舞鶴の岸壁に立っていたのは、彼女だけではない。「岸壁の妻」と呼ばれた女性たちがいた。夫の帰りを待って、船が着くたびに港に来た人々である。船が着き、名前が呼ばれ、自分の家族の名前がないと分かると、次の船を待った。次の船がいつ来るかは、ソ連が決めた。

岸壁の母

お茶と蒸かし芋|迎えた側の13年

帰国者を迎える港の休憩所
帰国者を迎える港の休憩所。

舞鶴の市民は、13年間、引揚者を迎え続けた。

船が着くと、市民が岸壁に集まった。「お帰りなさい」「ご苦労様でした」と声をかけ、お茶と蒸かし芋を出した。シベリアから帰った人々は、防寒外套のまま、痩せて、日本の言葉をかけられて泣いた。13年間、船が着くたびに、それが繰り返された。

引揚援護局の職員、医師、看護婦、通訳、そして市民の女性たち。舞鶴は、戦後の日本で最も長く「戦争が終わっていない」場所だった。舞鶴の人々にとって、戦後は1958年の白山丸まで来なかった。

帰ってきた人々の中には、故郷の家族がすでにいない人、妻が再婚していた人、戦死公報が出て墓が建っていた人がいた。舞鶴は、再会の港であると同時に、帰る場所がないことを知る港でもあった。

上陸してから|援護局の数日と、引揚証明書

史料を読み解くための冊子と閲覧机
史料を読み解くための冊子と閲覧机。

船が岸壁に着いても、すぐに故郷へ帰れたわけではない。上陸した人々は、引揚援護局の施設に入り、数日を過ごした。

検疫があった。伝染病の検査、DDTの散布、消毒。シベリアから帰った人々の外套と荷物は、シラミとともに消毒された。身元の確認があった。名前、本籍、所属部隊、抑留先。ソ連側の労働証明書と日本側の名簿が突き合わされた。それが済むと、引揚証明書が交付され、故郷までの乗車券と当座の金銭が渡された。

引揚証明書は、舞鶴引揚記念館に多数収蔵されている。一枚の紙に、氏名と、上陸日と、舞鶴の名が記されている。抑留者が帰国した証拠として、戦後の恩給や援護の申請に使われた。祖父の遺品に舞鶴の名の入った紙があれば、それがこの証明書である。

数日の間、援護局には家族が押しかけた。船の名簿が張り出され、名前を探す人が列を作った。名前があった家族は待合所で再会し、なかった家族は次の船の日付を尋ねた。

興安丸という船

興安丸という船

1956年12月26日、興安丸は日ソ共同宣言の発効によって帰国が決まった長期抑留者を乗せて、舞鶴に着いた。「戦犯」として11年を収容所で過ごした人々である。その船内で、ハバロフスクの収容所から続いていた句会の最後の会が開かれたことは、山本幡男の記事で書いた。

興安丸が着いた日、舞鶴の岸壁には、11年待った家族と、11年迎え続けた市民がいた。抑留者の帰国としては、これが最後の集団帰国だった。その後、舞鶴は中国からの帰国者を迎え、1958年9月の白山丸で13年を終える。

1万6千柱|遺骨で帰った人々

66万人の生きた人々とともに、舞鶴には1万6千柱の遺骨が帰ってきた。

多くは、抑留中に収容所で死んだ人の遺骨である。ソ連は当初、死者の遺骨を日本に返さなかった。帰国が再開された後、一部の遺骨が帰国船に載せられて舞鶴に着いた。白木の箱に入れられ、岸壁で遺族に渡された。

舞鶴に帰還した1万6千柱は、シベリア・モンゴルの抑留死者約5万5千人と集計範囲が同じではなく、差し引いて未収容の数を出すことはできない。シベリアには、今も収容されていない遺骨が残る。ソ連崩壊後に日本政府が始めた遺骨収集で持ち帰られた遺骨もあるが、2022年以降、ロシア国内での収集は止まっている。舞鶴の岸壁に、まだ着いていない遺骨がある。

白樺の皮の日記|世界の記憶になったもの

白樺の樹皮と短い鉛筆
白樺の樹皮と短い鉛筆。
白樺の皮の日記

収蔵資料は約1万6千点。シベリアで使った防寒外套、引揚証明書、抑留者が収容所で描いた絵、そして、白樺の皮に書かれた日記。紙が手に入らない収容所で、抑留者は白樺の皮を剥ぎ、そこに小さな文字で日記を書いた。帰国時の検査で紙の記録が没収される中、皮に書かれた文字は残った。

2015年10月10日、収蔵資料のうち570点が「舞鶴への生還 1945〜1956 シベリア抑留等日本人の本国への引き揚げの記録」として、ユネスコの「世界の記憶」に登録された。寄贈者の中には、登録時点で存命の抑留者がいた。自分の描いた絵が、自分の生きているうちに世界の記憶になった。

国が記録しなかったものを、個人が持ち帰り、市民が保存し、それが世界の記憶になった。舞鶴引揚記念館は、その経緯そのものを展示している。

引揚桟橋は復元され、記念公園から港を見下ろすことができる。1万6千柱の遺骨を迎えた港である。

なぜ舞鶴だけだったのか

1950年以降、舞鶴が国内唯一の引揚港になった理由は、地理と、残された人々の所在にある。

1950年の時点で、まだ帰っていない日本人の大半は、ソ連と中国にいた。ソ連の抑留者はナホトカから、中国の残留者は天津や上海から船に乗る。日本海に面し、ナホトカに近く、大型船が入り、援護局の施設がすでにある港。それが舞鶴だった。

だから舞鶴は、1950年の中断の後も閉じられなかった。1953年に中国から、同年12月にソ連から帰国が再開すると、すべての船が舞鶴に来た。1956年12月の興安丸も、1958年9月の白山丸も、舞鶴に着いた。

つまり、舞鶴の13年は、日本の引き揚げ全体の中で最も長引いた部分、ソ連と中国からの帰国の記録である。他の港の引き揚げが2年で終わったのに対し、舞鶴が13年かかったのは、ソ連が日本人を11年かけて帰し、中国からの帰国が1950年代まで続いたからである。

舞鶴に着いた人々、着かなかった人々

66万人が舞鶴に着いた。だが、この特集で書いてきた人々の多くは、舞鶴には着いていない。

葛根廟で死んだ1,000人、麻山で死んだ400人、留萌沖で沈んだ1,708人、シベリアの凍土に埋められた5万5千人。彼らは船に乗らなかった。1万6千柱の遺骨は帰ったが、それは死者のごく一部である。

舞鶴に着いた人々も、そこで終わりではなかった。二日市で処置を受けた女性たち、故郷で「アカ」と疑われた抑留者、財産をすべて置いてきた樺太の人々。舞鶴の岸壁は、日本に帰る場所であって、元の生活に帰る場所ではなかった。

それでも、舞鶴は帰る場所だった。13年間、船が着くたびに、誰かが「お帰りなさい」と言った。ソ連が11年かけて小出しに帰した人々を、日本の港は、一人も取りこぼさずに迎えた。

判定|舞鶴の13年は、日本の戦後の長さではなく、ソ連の抑留の長さである

三段階で判定する。

事実の判定。舞鶴港は1945年10月7日の雲仙丸から1958年9月7日の白山丸まで13年間、延べ346回の入港で、約66万人の引揚者と1万6千柱の遺骨を迎えた。1950年以降は国内唯一の引揚港となり、1950年4月から1953年12月まではソ連の「帰還完了」宣言によって船が途絶えた。収蔵資料570点は2015年にユネスコ「世界の記憶」に登録された。

意図の判定。舞鶴の引き揚げが長期化した背景には、ソ連が抑留者を1946年12月から1956年12月まで段階的に帰し、1950年には残留者がいるのに「完了」と宣言して3年半船を止めたことがある。1956年以降も中国からの帰国者を迎え、事業は1958年まで続いた。「岸壁の母」の光景は、日本の怠慢ではなく、ソ連が誰をいつ帰すかを自国の都合で決めた結果として、日本の港に生じたものである。

歴史の判定。舞鶴は、日本で最も長く戦争が終わらなかった場所であり、同時に、国が記録しなかったものを個人と市民が保存し、世界の記憶にした場所である。舞鶴の13年は、ソ連の抑留と中国などからの引き揚げが、長く続いたことを示している。舞鶴に着いた66万人の背後に、着かなかった5万5千人がいる。

舞鶴に着いた興安丸の船内で最後の句会が開かれた話は山本幡男で、舞鶴に着かなかった祖父の記録を調べる方法は抑留記録の調べ方で書いている。樺太からの後期集団引揚も舞鶴に着いた。その経緯は樺太からの引き揚げにある。特集全体はソ連の対日侵攻と日本人被害から辿ってほしい。

よくある疑問

舞鶴の引き揚げはいつからいつまでですか

1945年10月7日の雲仙丸入港から、1958年9月7日の白山丸入港までの13年間である。延べ346回の入港で、約66万人の引揚者・復員兵と、1万6千柱の遺骨を迎えた。

なぜ舞鶴だけが1950年以降も引揚港だったのですか

1950年の時点で未帰還者の大半がソ連と中国にいたため、日本海に面しナホトカに近く、大型船が入り、援護局の施設があった舞鶴が国内唯一の引揚港として残された。他の港の援護局は順次閉鎖され、函館・佐世保は1950年に閉じている。

「岸壁の母」は実話ですか

モデルとされるのは端野いせという女性で、満洲で消息を絶った息子を待って、1950年から1956年まで引揚船が着くたびに東京から舞鶴に通った。息子は帰らず、彼女は1981年に亡くなった。後年、息子が中国で生き延びていた可能性を伝える報道もあるが、確定していない。

舞鶴引揚記念館には何がありますか

引き揚げと抑留に関する約1万6千点の資料を収蔵し、1,000点以上を常設展示している。白樺の皮に書かれた日記、抑留者の絵、防寒外套、引揚証明書など。2015年に570点がユネスコ「世界の記憶」に登録された。引揚桟橋も復元されている。

出典・参考

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この記事を書いた人

軍研ノート編集部のアバター 軍研ノート編集部 自衛隊・兵器 / 戦史 / サバゲー

自衛隊で6年間勤務した編集長を中心に、自衛隊時代の仲間やサバゲーを通じた知人と記事を制作。経験と公開資料をもとに、装備の仕組みや歴史、その背景にある人々の工夫を掘り下げています。「かっこいい」から、その先の理解へ。編集長のプロフィール → 運営・編集方針

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