中国残留孤児はなぜ生まれ、なぜ帰国が遅れたのか|親を失った子どもと、動くのが遅かった国

中国残留孤児はなぜ生まれ、なぜ帰国が遅れたのか
目次

名前も、親の顔も、知らないまま

名前も、親の顔も、知らないまま

母親が死んで、一人で泣いていた子。逃避行の途中で力尽きた親が、通りかかった中国人に託した子。生きて帰るために、食べ物と引き換えに預けられた子。収容所の冬に親を失った子。彼らは中国人の家庭に引き取られ、中国語で育ち、中国人として生きた。多くは、自分の日本名も、生年月日も、親の顔も、知らなかった。

日本政府が中国残留孤児の訪日調査を始めたのは、1981年である。敗戦から36年が経っていた。

認定された孤児は2,818人。そのうち身元が判明したのは1,284人。半数以上は、最後まで自分が誰の子か分からなかった。帰国した孤児は2,557人。だが、帰国した日本で、彼らの日本語は通じなかった。40年を中国で生きた人にとって、帰国直後の短期間の日本語研修だけで日本の暮らしに適応することは難しかった。

この記事では、残留孤児がなぜ生まれ、中国でどう育ち、なぜ訪日調査の実現まで36年かかり、どうやって帰り、帰った後どうなったのかを追う。逃避行の全体は満蒙開拓団の逃避行で、葛根廟の丘で親を失って残された30人以上の子どもについては葛根廟事件で書いている。

なぜ生まれたのか|ソ連侵攻と、逃避行と、冬

子どもの靴と旅の荷物
子どもの靴と旅の荷物。

残留孤児が生まれた原因は、一つの連鎖である。

8月9日、ソ連軍が侵攻した。関東軍は国境の開拓団を守らず、先に後退した。開拓団は知らされないまま、女性と子どもと老人だけで徒歩の逃避行に入った。襲撃、集団自決、飢え。逃げ延びた人々は収容所で冬を迎え、寒さと発疹チフスと栄養失調に苦しんだ。逃避行や集団自決、収容所生活などを通じた開拓団の死者は、約8万人とされる。

この過程の各段階で、子どもが親から離れた。

場面子どもが残された経緯
襲撃の現場葛根廟のように、親が殺され、泣いている子が現地住民に拾われた
逃避行の途中親が力尽き、通りかかった中国人に子を託した。あるいは、子を連れては逃げ切れないと判断して預けた
食糧との交換生き延びるために、子どもを中国人家庭に渡し、食べ物や金を受け取った
収容所の冬親が病死・餓死し、残された子が中国人に引き取られた
引き揚げ時病気や体力で船に乗れない子が、中国人に預けられた

つまり、残留孤児はソ連侵攻の直接の産物である。侵攻がなければ逃避行はなく、逃避行がなければ子どもは手放されなかった。ソ連の占領が8か月続き、その間の冬に親が死ななければ、収容所の孤児は生まれなかった。

親の側の判断を責めることはできない。子を預けた親の多くは、そのまま死んだ。生きて帰った親は、預けた子を探し続けた。

養父母|中国人として育てられた

木の机が並ぶ古い教室
木の机が並ぶ古い教室。
養父母

子どもたちは中国名を与えられ、中国語で育ち、中国の学校に通った。多くは、自分が日本人であることを知らなかった。養父母が死の間際に「あなたは実は日本人だ」と明かした例が多いと、厚生労働省の担当者は語っている。

だが、周囲は知っていた。文化大革命の時代、残留孤児は「日本鬼子」「小日本」と呼ばれ、迫害の対象になった。学校で、職場で、日本人の子であることを理由に殴られ、仕事を奪われ、結婚を断られた人がいる。中国で日本人として差別され、後に日本で中国人として差別される。二重の異邦人としての人生が、ここから始まっていた。

養父母の存在は、残留孤児の問題の中で最も複雑な部分である。彼らがいなければ、子どもたちは死んでいた。彼らが日本人の子を育てたことは、中国社会の中では負担であり、時に危険だった。1981年以降、孤児が日本へ帰るとき、養父母は年老いて中国に残された。日本政府は養父母への扶養費を支払う制度を作ったが、育てた子を手放す養父母の側の喪失は、制度では埋まらない。

訪日調査まで36年|国の対応はなぜ遅れたのか

日本と中国の国交は、1972年9月に回復した。国は1975年に残留孤児の公開調査を始め、1981年3月には訪日調査が実現した。

理由は、政府の姿勢にあった。厚生省は残留邦人の問題を「個人レベルの問題」ととらえ、国としての方針を持たなかった。子や弟妹を中国に残してきた民間人が、独自に消息を探し、1974年には民間の手による肉親探しが始まった。政府はその後を追った。

訪日調査まで36年

1981年3月2日、第1次訪日調査が実現した。47人の孤児が国費で来日し、テレビと新聞を通じて肉親を探した。来日した孤児の顔写真と、覚えている断片、体の傷跡、養父母から聞いた話が公開され、名乗り出る肉親を待った。

敗戦から36年。孤児は40歳前後になっていた。

訪日調査|1981年から1999年まで

家族の便りを収めた箱
家族の便りを収めた箱。
項目数値
訪日調査の回数(1981〜1999年)30回
訪日した孤児2,116人
訪日調査で身元が判明した孤児673人
身元判明率初期は50%超、後に10%以下に低下
訪日調査

2000年以降は、中国現地での日中共同調査で新たに認定した孤児の情報を日本で公開し、肉親に関する情報が得られた者だけが訪日対面調査を受ける方式に変わった。2010年、訪日調査は1981年の開始以来初めて実施されなかった。前年に訪日した孤児は1人だけだった。

敗戦から36年後に実現した訪日調査は、年月がたった分だけ、身元の確認が難しくなっていた。国交回復後の1975年には公開調査が始まっていたが、直接対面する調査の実現は1981年だった。もっと早く対面できていれば、身元の分かった孤児は多かったのではないか。待つ間にも、肉親は高齢になっていった。

13歳の線引き|「孤児」と「婦人」

日本政府は、残留邦人を「中国残留日本人孤児」と「中国残留婦人等」に分けている。肉親調査の対象となる孤児は、日本人の両親から生まれ、1945年8月9日以降の混乱で保護者と別れ、当時おおむね13歳未満で、自己の身元を知らないまま中国に残留・成長した人である。「婦人等」は年齢だけで決まる区分ではなく、男性も含む。

この線引きが、帰国の道を分けた。孤児は「自分の意思で残ったのではない」とされ、国費で肉親探しと帰国が支援された。一方、13歳以上だった女性は「自らの意思で残った」と扱われ、1984年の日中政府間の口上書で孤児の永住帰国が可能になった後も、帰国は「先送り」された。

13歳の少女が、逃避行の途中で中国人に嫁がされ、あるいは生きるために結婚し、中国で家庭を持った。それを「自らの意思」と呼ぶことが、どれほどのことか。残留婦人の帰国が本格的に認められるのは1990年代に入ってからで、1993年には、帰国を認められない残留婦人12人が、日本の支援者の助けで強行的に帰国する出来事が起きている。

私は、この13歳の線引きに、日本政府の姿勢が最もはっきり現れていると思う。ソ連の侵攻と関東軍の後退が生んだ被害者を、年齢で二つに分け、一方には「あなたは被害者だ」と言い、他方には「あなたは自分で選んだ」と言った。13歳で選べることなど、何もなかった。

帰国|身元が分からなくても、肉親が拒んでも

孤児の帰国は、制度の壁に何度も阻まれた。

1984年の口上書までは、日本に親族がいることが永住帰国の条件だった。身元が分からない孤児は、帰る資格がなかった。1984年に親族の有無にかかわらず永住が認められ、1985年には身元引受人制度ができて、身元未判明の孤児が国の配置した引受人のもとへ帰れるようになった。

もう一つの壁があった。身元が判明しても、日本の肉親が受け入れを拒めば、帰国できなかった。40年ぶりに見つかった兄弟が、中国人として育った家族ぐるみの帰国を負担と考え、拒む例があった。1989年になって、肉親が拒否しても帰国できるようになった。

こうして帰国した孤児は2,557人。婦人等も含めた残留邦人全体と同行家族の永住帰国者は、2026年8月31日時点で20,919人である。

帰国後|日本語が通じない「日本人」

史料を読み解くための冊子と閲覧机
史料を読み解くための冊子と閲覧机。

帰国した孤児を待っていたのは、言葉の壁だった。

帰国直後の定着促進研修は、当初4か月で、2004年度に6か月へ延長された。その後の自立研修や地域の日本語学習支援も設けられたが、40年を中国で生きた人にとって、短期間で地元の人と十分に意思を疎通できるようになることは難しい。読み書きはさらに難しい。就職は限られ、多くは単純労働か、生活保護に頼る生活になった。中国での学歴も職歴も、日本では通用しなかった。

肉親が見つかり、親族に迎えられた孤児は、親族の援助を受けて暮らせた。だが、肉親がいない、あるいは拒まれた孤児は、国が配置した身元引受人のもとへ、全国にばらばらに送られた。東京、大阪、名古屋、そして開拓団を最も多く送り出した長野には、孤児のコミュニティができた。だが地方の小さな町に送られた孤児は、同じ経験を持つ相手がいないまま、日本語の通じない日本人として暮らした。

帰国後

2001年から各地で訴訟が提起され、2002年には東京で大規模な集団提訴が行われた。原告は全国で2,000人を超えた。国は早期の帰国を実現する義務と、帰国後の自立を支援する義務を怠った、というのが訴えだった。2006年、神戸地裁は国の責任を認める判決を出したが、他の地裁は退けた。判決の分かれる中、2007年、政府は新たな支援策を決めた。満額の基礎年金の支給と、それを補う支援給付金。訴訟は、これを受けて終わった。

敗戦から62年、帰国から20年以上が経っていた。

数字で見る残留孤児

項目数値時点
認定された孤児2,818人2026年8月31日
うち身元判明1,284人
うち身元未判明1,534人(上記の差)
永住帰国した孤児2,557人・2,553世帯
孤児の永住帰国者と同行家族9,381人
永住帰国した残留邦人と家族(婦人等を含む)20,919人

身元未判明の1,534人は、自分の日本名を知らないまま、日本に帰り、あるいは中国に残って、老いた。そのうちの多くは、すでに世を去っている。彼らの親が誰だったかは、永遠に分からない。

誰が作り、誰が放置したのか

残留孤児は、二つの責任の産物である。

作ったのは、ソ連の侵攻と、関東軍の後退である。侵攻がなければ逃避行はなく、後退がなければ開拓団は置き去りにされなかった。子どもが手放されたのは、その両方が重なった結果である。ソ連は満洲を8か月占領し、その冬に親を死なせ、子どもを孤児にした。この責任を、ソ連もロシアも認めたことはない。

放置した責任は、日本政府にもある。1972年の国交回復後、民間人や山本慈昭が肉親探しに動き、国は1975年に公開調査、1981年に訪日調査を始めた。帰国をめぐっては年齢や身元、親族の受け入れなどの制度上の壁があり、帰国後も、研修や生活支援だけでは埋められない困難が残った。孤児たちは、自分を作った国の隣国で40年を生き、自分を放置した祖国に帰って、また異邦人になった。

私は、この特集の中で、残留孤児をソ連の被害の一部として書いている。それは正しい。だが、彼らの80年のうち、ソ連が直接関わったのは最初の1年だけである。残りの79年を作ったのは、中国社会の冷たさと温かさと、日本政府の無為だった。ソ連の非道を書くことは、その後を放置した自国の責任を消すことではない。残留孤児の話は、その両方を同時に見なければ、理解できない。

判定|残留孤児は、ソ連が作り、日本が置き去りにした

三段階で判定する

事実の判定。1945年8月のソ連侵攻と開拓団の逃避行、収容所の冬の中で、数千人の子どもが親と引き離され、中国人の養父母に育てられた。日本政府による訪日調査は1981年に始まり、認定された孤児2,818人のうち身元が判明したのは1,284人、帰国したのは2,557人である。帰国後は日本語が通じず、訴訟を経て2007年に年金と給付金の支援策ができた。

意図の判定。残留孤児を生んだのはソ連の侵攻と占領であり、関東軍の後退がそれを拡大した。日本政府は国交回復後、1975年に公開調査を始めたが、訪日調査の実現は1981年だった。その後も帰国条件や言葉の壁が人々を苦しめた。私は、帰国の実現と生活支援は遅すぎたと思う。ソ連は孤児を作り、日本は孤児を放置した。どちらの責任も消えない。

歴史の判定。残留孤児は、中国では日本人として、日本では中国人として扱われ、身元未判明の1,534人は自分の名前を知らないまま老いた。彼らの人生は、ソ連の侵攻が一人の子どもに何をするかの、最も長い記録である。侵攻は1945年8月に終わったのではない。2026年の今も、自分が誰の子か分からないまま生きている人がいる限り、終わっていない。

逃避行の中で親を失った子どもたちの、最初の場面は葛根廟事件麻山事件で書いた。引き揚げの中で残された人々の話は樺太からの引き揚げにもある。特集全体はソ連の対日侵攻と日本人被害から辿ってほしい。

よくある疑問

中国残留孤児はなぜ生まれたのですか

1945年8月のソ連軍侵攻から逃げる満洲の逃避行と、その後の収容所の冬の中で、親が死んだり、生きるために子を預けたりして、数千人の子どもが中国人家庭に引き取られたためである。肉親調査の対象となる「残留孤児」は、当時おおむね13歳未満で保護者と別れ、身元を知らないまま中国で育った人など、国が定める要件を満たす人である。

何人いて、何人帰国しましたか

厚生労働省の2026年8月31日現在の統計では、認定された孤児は2,818人、うち身元判明1,284人、永住帰国2,557人(2,553世帯)。孤児の永住帰国者と同行家族は9,381人で、婦人等も含む残留邦人全体とその家族は20,919人である。

なぜ帰国が1980年代以降になったのですか

日中国交回復は1972年で、民間の肉親探しに続いて国の公開調査が1975年に始まり、本人が来日して探す訪日調査は1981年に実現した。身元未判明者の永住は1984年、肉親が拒否した場合の帰国は1989年まで認められなかった。

帰国後の支援はありますか

2007年に決まった新支援策は2008年4月に実施され、対象要件を満たす人に満額の老齢基礎年金等や支援給付が支給される。集団訴訟と原告団との合意を経た措置である。それ以前にも定着促進研修や生活保護などがあり、現在は地域の日本語学習、生活相談、通訳などの支援も行われている。

出典・参考

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この記事を書いた人

軍研ノート編集部のアバター 軍研ノート編集部 自衛隊・兵器 / 戦史 / サバゲー

自衛隊で6年間勤務した編集長を中心に、自衛隊時代の仲間やサバゲーを通じた知人と記事を制作。経験と公開資料をもとに、装備の仕組みや歴史、その背景にある人々の工夫を掘り下げています。「かっこいい」から、その先の理解へ。編集長のプロフィール → 運営・編集方針

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