今村均とは|陸大首席の秀才は、なぜ東條に逆らってジャワで「甘い」軍政を貫き、ラバウルで10万人を飢えさせずに終戦まで持ちこたえ、戦後は自ら望んで部下のいる南の島の牢に戻り、庭の小屋で死ぬまで謹慎したのか

今村均 記事表紙
要点

私は旧軍ファンとして、この人を長いこと「いい話の人」として消費してきた。ジャワでスカルノを釈放した、ラバウルで10万人を飢えさせなかった、戦後は自分から刑務所に戻った、庭に小屋を建てて死ぬまで謹慎した。どれも本当だ。だが、今回ちゃんと調べ直して、この人の凄みは「いい話」の部分ではなく、その手前にある「判断の理屈」の部分にあるとわかった。今村は感情で動いた人ではない。陸軍大学校を首席で出た参謀の頭で、徹底的に計算して、その結果として人を殺さない道を選び続けた人だ。

だから今回は、いい話としてではなく、判断の連続として今村均を書く。技術屋として、投資家として、そして今の自衛隊にこの人が何を残したかも含めて。

目次

30秒でわかる今村均

今村均
今村均。
資料:Post-Work: W.Wolny/出典・利用条件(Public domain)
30秒でわかる今村均

太平洋戦争では第16軍司令官としてジャワを9日間で攻略し、その後の軍政で占領地住民に寛容な政策を貫いて東條英機ら陸軍中央から批判された。1942年11月からは第8方面軍司令官としてラバウルにあり、米軍に完全包囲されたまま、島内で食料を自給して陸海軍約10万人を終戦まで生き延びさせた。

戦後はBC級戦犯として豪州の裁判で禁固10年。巣鴨で服役できるところを、部下が収容されているマヌス島の刑務所に自分も入れてくれと願い出て認められ、1953年に日本へ移送され、1954年に刑期を終えた。以後、東京の自宅の庭に建てた小屋で謹慎生活を送り、回顧録の印税をすべて戦死者と戦犯刑死者の遺族に充て、1968年に82歳で没した。

先に年表を置いておく

  • 1886年:仙台に生まれる。父は判事
  • 1907年:陸軍士官学校19期卒業
  • 1915年:陸軍大学校27期を首席で卒業(同期に東條英機、本間雅晴)
  • 1918年:英国大使館付武官補佐官
  • 1931年:参謀本部作戦課長。満州事変で関東軍の独走に反対
  • 1938年:第5師団長。南寧作戦
  • 1940年:教育総監部本部長。『戦陣訓』を起案
  • 1941年11月:第16軍司令官。翌年3月ジャワ攻略
  • 1942年11月:第8方面軍司令官としてラバウル着任
  • 1943年5月:陸軍大将
  • 1945年9月:ラバウルで降伏文書に調印
  • 1947年:豪州軍事裁判で禁固10年。1949年、オランダ軍事裁判で無罪
  • 1950〜53年:マヌス島刑務所で服役
  • 1954年:巣鴨を出所。以後、自宅の謹慎小屋で暮らす
  • 1955年:防衛庁顧問
  • 1968年:死去、82歳

判事の息子、陸大首席、そして居眠り

今村は仙台藩の上士の家に生まれた。祖父は戊辰戦争で藩の参謀を務めたが、新政府軍に融和的だったために藩内で非難され、財産を家来に分けて隠遁した人だ。父の虎尾は裁判所の事務員として働きながら弟妹を育て、裁判官試験に2番で合格して判事になった。

今村本人は第一高等学校に進みたかった。だが受験勉強中の19歳の春に父が死に、金がなくなった。母は陸軍士官学校を勧めた。迷った今村は、青山の練兵場で観兵式を見に行き、明治天皇の馬車に群衆が詰め寄る光景を見て何かに打たれ、その足で郵便局から母に「陸士を受ける」と電報を打った。試験の机で隣になったのが本間雅晴で、生涯の親友になる。

陸士は1053人中54番。陸大は首席、恩賜の軍刀。同期には3番の本間と、11番の東條英機がいた。この三人が同じ教室にいたという事実は、後で効いてくる。

ところで今村は、9歳まで夜尿症があり、青年期になっても夜中に何度も便所に立つ癖が抜けず、慢性的な睡眠不足に悩まされていた。士官学校でも陸大でも講義中に居眠りをして怒鳴られ、演習中に農家からもらった唐辛子をこっそり噛んで眠気を覚ましていたという。教官たちは「あれだけ寝ているのに成績が抜群だから、何か病気だろう」と結論して、以後は叱らなくなった。私はこの話が好きだ。首席の秀才が、唐辛子を噛みながら聖書と『歎異抄』を読んでいた。この人の「聖将」の像は、そういう雑味の上に立っている。

満州事変――参謀本部で「独走」に反対した作戦課長

1931年8月、今村は参謀本部の作戦課長になった。翌月、満州事変が起きる。

石原莞爾と板垣征四郎の関東軍が独断で軍を動かし、朝鮮軍が独断で国境を越えた。今村は軍務局の永田鉄山とともに、統帥の紊乱、国民の支持、世界の世論の三点からこれに反対した。関東軍との折衝のために満州に渡ると、板垣と石原に酒席に呼び出され、馬鹿にした態度を取られて激怒し、席を蹴って帰った。

同じ時期、青年将校がクーデターを企てた十月事件が起きている。今村は事態の収拾に当たったが、首謀者の橋本欣五郎らが未遂のまま逮捕できたのは、決行直前に名も知らぬ貿易商から渡された名刺に計画の情報が書かれていたからだった、と今村自身が回顧している。参謀本部の作戦課長が、通りすがりの民間人の名刺で首都のクーデターを知る。1931年の日本陸軍の統制が、どれほど壊れていたかがわかる話だ。

今村は後年、このとき中央の統制に従わなかった者を厳罰に処すべきだった、それをせずに栄転させたことが陸軍の下克上の風習を作った、と回顧している。私は、この一文が今村均という人の思想の核だと思っている。今村は「上に逆らった」人として有名だが、本人の考えは逆で、「軍は上の命令に従わなければならない」という統帥の原則を、誰よりも真面目に信じていた。だからこそ、上が原則を守らないときに、原則の側に立った。

翌1932年4月、今村は歩兵第57連隊長に出された。事実上の左遷だ。関東軍を止められなかった作戦課長は、こうして中央を去った。

満州事変――参謀本部で「独走」に反対した作戦課長

南寧――今村にも負け戦がある

聖将の像を作りすぎないために、勝ち負けの話も書いておく。

1938年11月、今村は第5師団長になった。翌年11月、第5師団は広西省の欽州湾に上陸し、9日で南寧を攻略する。中国軍に戦死6,000人余りの損害を与え、日本側の戦死は145人。大勝だった。狙いは仏印からの援蒋ルートを南寧で断つことだ。

だが12月、蒋介石は14個師団、約10万の反撃を南寧に向けた。中国軍唯一の機械化部隊まで投入されている。前哨の崑崙関を守る1個大隊が包囲され、今村は救援に連隊と支隊を送ったが、それも包囲され、支隊長の中村正雄少将が戦死する。約10日の激戦の末、第5師団は崑崙関を放棄して後退した。軍司令官の安藤利吉が増援を送り、翌年2月にようやく中国軍を撃退している。

しかも南寧を取っても援蒋ルートは切れなかった。物資は鉄道で運ばれ続け、南寧占領後にはむしろ輸送量が倍になった。作戦の目的は達成されていない。今村は師団長としては勝ったが、この作戦は戦略としては失敗で、それを計画した参謀本部第1部長の富永恭次は、3年後にジャワで今村の更迭を求める側に回っている。今村の生涯は、こうやって同じ顔ぶれが立場を変えて何度も出てくる。陸軍という組織の狭さが、この人の人生からはよく見える。

『戦陣訓』を書いた男が、『戦陣訓』に縛られた

『戦陣訓』を書いた男が、『戦陣訓』に縛られた

これは意外に思う人が多いと思う。玉砕と自決を生んだ文書を、聖将と呼ばれる今村が書いていた。だが経緯を見ると、話は少し違う。『戦陣訓』はもともと、日中戦争で多発した略奪・強姦・住民殺害に危機感を持った岩畔豪雄の発案で、軍紀を引き締めるための文書だった。今村は島崎藤村らの意見を入れながら起案したが、後に「よい話を入れようとしすぎて長くなったのが失敗だった」「無辜の住民を愛護し、略奪強姦をするなと、はっきり短く書くべきだった」と述懐している。

そして今村は、この文書に自分自身を縛らせることになる。ジャワの話だ。

ジャワ――9日間の攻略と、東條に逆らった軍政

ジャワを訪問した杉山元と軍関係者(1942年)
ジャワを訪問した杉山元と軍関係者(1942年)。
資料:撮影者不詳/出典・利用条件(Public domain)

1942年3月1日、今村の第16軍はジャワ島に上陸した。100隻近い船団を使う大規模上陸で、9日間でオランダ軍約9万3千人と英米豪軍約5千人を無条件降伏させた。

上陸の夜、今村の乗った輸送船龍城丸が魚雷を受けて沈み、今村は救命胴衣で重油の海を3時間泳いだ。この魚雷は、バタビア沖海戦で戦っていた味方の第七戦隊が撃った魚雷の誤射だった。海軍側は謝罪し、今村はそれを快く受けて、事実を公にしなかった。世間は敵の魚雷艇にやられたと思っていた。今村は上陸後、その海軍部隊に「献身的な協力を深謝す」と電報を送っている。

ここまでなら「人格者のいい話」だ。だが本番は軍政のほうだった。

今村は、オランダに流刑にされていた独立運動指導者のスカルノとハッタを釈放し、資金と物資を援助し、現地人を官吏に登用した。占領した製油所を復旧して石油価格をオランダ時代の半額にし、オランダ軍から没収した金で学校を建てた。オランダ人民間人は住宅地に住まわせ外出も自由にした。捕虜の軍人も高待遇にした。日本兵の略奪は厳禁した。

戦争が進んで日本国内で衣料が不足すると、政府はジャワで生産される白木綿を大量に日本へ送れと言ってきた。今村は断った。白木綿を取り上げれば住民の日常生活を圧迫し、死者を白木綿で包んで埋葬する宗教的な習慣まで傷つける、というのが理由だった。オランダ時代に歌うことを禁じられていた独立歌『インドネシア・ラヤ』が盛んに歌われているのを知ると、東京でレコードを作らせて住民に配った。

1942年3月、参謀総長の杉山元が直々にバタビアに来て、「攻略は褒めているが、軍政には批判が多いから注意しろ」と軽く叱った。その席で杉山が「バターン攻略に手間取っている本間雅晴を更迭する」と漏らすと、今村は、兵力不足のまま攻略を急かした大本営の指導不足が原因で、本間だけに責任を負わせるのは酷すぎる、と正面から反論した。陸士の受験で机が隣だった親友を、参謀総長の前でかばった。本間はその後更迭され、戦後マニラで銃殺される。

これに陸軍中央が怒った。「シンガポール同様、強圧政策が必要だ」と、東條は軍務局長の武藤章と人事局長の富永恭次をジャワに送り込んだ。武藤と今村は激論になった。平行線になったところで、今村は富永に向かってこう言った。

昨年、大臣の名で全陸軍に布告された『戦陣訓』は、私が主宰して起案したものだ。「服するは撃たず、従うは慈しむ」「無辜の住民を愛護すべし」と書いてある。それに反することは私の良心が許さない。方針を変えさせたいなら、『占領地統治要綱』を改正する前に、私を免職にしてくれ。新しい要綱が出るまで、ジャワの軍政方針は決して変えない。

自分が書いた文書を盾にして、それを布告した大臣に逆らった。私は、これが今村均という人の一番「参謀らしい」場面だと思っている。感情で反発したのではない。規則に則っている自分と、規則を破ろうとしている中央、という構図を作って、更迭するならしろと言った。富永は折れ、1942年10月に「ジャワ軍政に改変を加える要なし」と打電した。強圧派の武藤は後にスマトラで今村の軍政の成果を目の当たりにして、非礼を詫びたという。

ジャワ――9日間の攻略と、東條に逆らった軍政

ラバウル――包囲された10万人を、畑で生かす

終戦後に撮影されたラバウルの日本軍の菜園(1945年9月10日)
終戦後に撮影されたラバウルの日本軍の菜園(1945年9月10日)。
資料:Australian War Memorial(096380)/出典・利用条件(Public domain)

1942年11月、今村は第8方面軍司令官としてラバウルに着任した。赴任の直前、シンガポールで乗機が離陸時に墜落している。ジャワで沈められ、シンガポールで落ちて、それでもラバウルに着いた。運の強さもこの人の才能の一部だ。

ラバウルには、佐官時代からの友人、海軍の山本五十六がいた。二人は毎週末に家を行き来してポーカーをするような仲だった。着任の夕食会で山本は「ラバウルの司令官が君だと聞いて安心した、遠慮なく話せるからな」と言ったという。5か月後、山本はブーゲンビル上空で戦死する。今村は泣いた。

今村がラバウルで最初にやった仕事は、ガダルカナルからの撤退だった。着任時点でガダルカナルはすでに餓島で、ラバウルからの補給は駆逐艦の鼠輸送しかない。今村は撤退を進言し、1943年2月のケ号作戦で1万人余りを救い出した。あの島で日本軍は約2万人を失い、その大半は戦闘ではなく餓死と病死だった。

この経験が、今村のラバウル経営の全部を決めた。今村は、ラバウルはいずれ海上補給を断たれる、と判断した。そして島内に大量の田畑を作り、日本から農事指導班と農具修理班を呼び、陸稲や野菜の種を持ち込み、労務者を集め、自分でも率先して畑を耕した。海軍は当初、陸軍の百姓仕事を冷ややかに見ていたが、戦局が悪化すると作物の育て方を陸軍に教わりに来た。

同時に、米軍の空襲と上陸に備えて地下要塞を掘った。地下の病院、兵器と弾薬を作る工廠。1944年に入ると、米軍機はラバウルに月に3,000機近い規模で来襲し、2月には海軍航空隊がトラック空襲の影響で引き揚げて、ラバウル航空隊は事実上消滅した。米軍は周囲の島々に飛行場を作ってラバウルを完全に封鎖し、しかし上陸はしなかった。要塞化されたラバウルを攻めれば大損害が出る、無力化して放置すればいい、と判断したからだ。米軍がこの封鎖に払った損害は300人程度だった。

そして日本側は、封鎖されたまま、終戦まで持ちこたえた。1945年には兵士一人あたり200坪の耕地で、陸軍約7万・海軍約3万の完全な自給体制ができていた。餓死者を出さず、玉砕もせず、10万人を生きたまま終戦に連れて行った。ニューギニアで、ガダルカナルで、餓えと病で消えた部隊がいくつもある中で、これは太平洋戦争の日本陸軍の中で、ほとんど唯一の「持久戦の成功」だ。

技術屋として言えば、ラバウルは兵器の話ではなく、システムの話だ。補給を前提にしない軍。食料生産、地下工廠、地下病院、防空壕、労務の組織化。全部を一つの閉じた系として設計して、2年半回した。この設計思想は、今なら「サプライチェーンが切れた前提での継戦能力」と呼ばれる。今村は、それを1943年に、畑を耕しながらやった。

責任――自決の薬が古くなっていた

英空母グローリーで降伏文書に署名する今村均(1945年9月6日)
英空母グローリーで降伏文書に署名する今村均(1945年9月6日)。
資料:Australian War Memorial(095763)/出典・利用条件(Public domain)

1945年9月6日、今村は海軍の草鹿任一中将とともに、ラバウル沖の英空母グローリーで降伏文書に調印した

陸上自衛隊の元陸将補・冨澤暉は、戦後に今村本人から「ラバウルのことが一段落したあと、責任を取って自決しようとしたが、薬が古くなっていて死ねなかった」と聞いたという。私はこの話を、今村の生涯で最も重い一行だと思っている。死のうとした。死ねなかった。だから、生きて責任を取る方法を、その後の23年間かけて探すことになった。

1946年、ラバウルの戦犯収容所に入所。1947年、豪州軍事裁判で、部下の不法行為に対する監督責任を問われて禁固10年。ジャワに移送され、オランダ軍事裁判では死刑を求刑されたが、証拠不十分で無罪。1950年に帰国し、巣鴨拘置所で残りの刑期を服役することになった。

ここで今村は、巣鴨ではなく、部下たちが収容されているパプアニューギニアのマヌス島の豪軍刑務所で服役させてくれ、と願い出た。妻を通じてマッカーサーに直接訴えたとされる。マッカーサーは「日本に来て以来、初めて真の武士道に触れた思いだ」と言って即座に許可したという説がある。1950年3月から1953年8月まで、今村はマヌス島で部下と一緒に服役した。刑務所の閉鎖で巣鴨に移され、1954年11月に刑期満了で出所している。

同じ時期、親友の本間雅晴はマニラで銃殺され、山下奉文はロスバニョスで絞首刑になっている。今村は生き残った。生き残った者の刑期の使い方として、部下のいる島の牢に戻る、というのは、私には今村らしい「計算」に見える。自分の刑期を、部下の刑期と重ねる。それが、自決できなかった人間にできる唯一の帳尻合わせだったのだと思う。

庭の小屋――死ぬまでの14年

出所した今村は、東京の自宅の庭の一隅に小さな小屋を建て、そこに自分を幽閉した。軍人恩給だけの質素な暮らしをしながら回顧録を書き、その印税はすべて戦死者と戦犯刑死者の遺族のために使った。元部下を名乗って金を無心に来る者もいて、騙されているとわかっていても拒まなかったという話も伝わっている。

一方で、1955年に防衛庁の顧問に就任し、翌年には全日本銃剣道連盟の初代会長になっている。謹慎しながら、新しい軍の相談には乗った。この二つは矛盾していない。今村にとって謹慎は、世間から隠れることではなく、死ねなかった自分の責任の取り方だった。

ラバウルで兵役中に今村から言葉をかけられた漫画家の水木しげるは、「私の会った人の中で一番温かさを感じる人だった」と書いている。水木は同じラバウルで左腕を失い、現地の村人と親しくなって、戦後も何度も島を訪れている。今村のラバウルが、一兵卒の目にどう見えていたかを知る、貴重な証言者だ。司馬遼太郎が『坂の上の雲』で乃木希典を無能と評したとき、今村は読売新聞に「乃木将軍は無能ではない」という文章を寄稿した。乃木と今村は、責任の取り方の形が正反対だ。乃木は明治天皇の大喪の日に自刃し、今村は自決に失敗して23年生きた。それでも今村は乃木を擁護した。同じ問いを抱えた人間として、乃木を「無能」の一言で片付けられなかったのだと思う。

1968年10月4日、死去。82歳。

投資家メモ――補給が切れる前提で、どう設計するか

ラバウルを攻撃する米陸軍航空軍のB-25(1943年2月)
ラバウルを攻撃する米陸軍航空軍のB-25(1943年2月)。
資料:撮影者不詳/出典・利用条件(Public domain)

投資家の目でラバウルを見ると、これは「サプライチェーン断絶を前提にした事業設計」の完成例だ。

多くの日本軍の部隊は、補給が来ることを前提に組まれていて、補給が切れた瞬間に崩壊した。今村はガダルカナルの撤退を自分でやったから、補給は切れると最初から決めてかかった。そして、切れても回る系を先に作った。米軍はそれを見て「攻める価値がない」と判断した。守る側が自立していると、攻める側の計算が変わる。

今、防衛の世界で「継戦能力」という言葉が予算の柱になっている。弾薬の備蓄、部品の国内生産、燃料と食料の確保。要するに「補給が切れても戦える系」を国が作ろうとしている。これは投資テーマとしては防衛関連銘柄の話だが、私はもっと広く、自分の資産についても同じことを考えている。収入が止まる前提で、どこまで回るか。今村がラバウルでやったのは、資産運用で言えば「最悪のシナリオを先に組んで、そこから逆算する」ことだった。

ただし、ここに書いたのは私個人の見方で、投資を勧めるものではない。防衛関連株は政策の変化で大きく動く。投資判断はご自身の責任で、必要なら専門家に相談してほしい。

東條と今村――同じ教室にいた二人

陸大27期、首席の今村と11番の東條。この二人は、同じ組織の中で正反対の方向に進んだ。

東條は組織のルールを自分の側に引き寄せる人だった。今村は組織のルールを自分に適用する人だった。東條は下からの突き上げに乗って首相になり、今村は下からの突き上げ(関東軍の独走)に反対して左遷された。東條はジャワの軍政を「甘い」と言い、今村は東條の名で出た『戦陣訓』を盾に反論した。戦後、東條は東京裁判で絞首刑になり、今村は自分から南の島の牢に戻った。

私はこの二人を、能力の差だと思っていない。二人とも陸大の上位卒で、どちらも有能だった。違いは、組織の中で「自分がどこに立つか」を選び続けた結果だ。太平洋戦争の愚将10人を史料で検証した記事でも書いたが、日本軍の失敗は、無能な個人の問題というより、有能な個人が組織の圧力の中で判断を曲げていった問題だ。今村は曲げなかった数少ない例で、その代償として、開戦後の要職からは外され、包囲された島に置かれた。もし今村が陸軍中央にいたら、と考えることに意味はないが、考えずにはいられない。

日本軍の組織がなぜああなったかを、ガダルカナルをはじめ具体的な作戦の失敗から解剖した本が一冊ある。今村の判断が「例外」だったことが、この本を読むとよくわかる。もう一冊、日本軍の兵士が現実にどう飢え、どう病んで死んでいったかを数字で追った本を並べておく。ラバウルの10万人が「どういう死を免れたか」は、この本を読むと逆側から見える。

自衛隊に今村は残っているのか

ラバウルとラクナイ飛行場の航空写真(1943年4月29日)
ラバウルとラクナイ飛行場の航空写真(1943年4月29日)。
資料:米海軍水路部(1943年)/出典・利用条件(Public domain)

今村は、自衛隊と直接つながっている数少ない旧軍の大将だ。1955年に防衛庁顧問になり、長男の今村和男は陸軍の航空技術将校から戦後は防衛庁技官、防衛大学校教授になっている。旧軍と自衛隊の間には制度上の断絶があるが、今村の家は、その断絶をまたいでいる。

そして、私が一番大事だと思うのは『戦陣訓』の反省だ。今村は自分が書いた文書について、「住民を愛護し、略奪強姦をするな、とだけ短く書くべきだった」と悔いた。今の自衛隊の服務の宣誓や教育に、玉砕や自決を美化する言葉は一つもない。代わりにあるのは、国民を守るという一点だ。今村が「こう書くべきだった」と言ったものに、結果として近づいている。

もう一つ。ラバウルの自給自足は、今の自衛隊の兵站教育や、離島の持久防衛を考えるとき、必ず参照される事例だ。南西諸島の島々は、有事に海上補給が切れる。そのとき島の部隊がどう持ちこたえるか。今村がラバウルでやったことは、80年前の答案として、今も読み直す価値がある。木村昌福がキスカで「引く判断」を示したとすれば、今村はラバウルで「持つ判断」を示した。どちらも、突入や玉砕より難しい判断だ。

ラバウルに行く

ラバウル港に停泊する船舶(1945年頃)
ラバウル港に停泊する船舶(1945年頃)。
資料:撮影者不詳/出典・利用条件(Public domain)

ラバウルは現在、パプアニューギニアのニューブリテン島にある。1994年の火山噴火で旧市街が火山灰に埋まり、町の中心は隣のココポに移った。それでも、日本軍が掘った地下壕や、山本五十六が最後に飛び立った飛行場跡、今村の司令部があったあたりは、今も戦跡として残っている。日本からは直行便がなく、ポートモレスビー経由で1日がかりになる。

慰霊と戦跡巡りが目的なら、現地の日本語ガイドを手配してから行くのが現実的だ。地下壕は崩落の危険がある場所もあり、単独で入るのは勧めない。宿はココポに取り、ラバウル周辺は日帰りで回る。遠いが、10万人が畑を耕して生き延びた場所に立つ経験は、他のどの戦跡とも違う。

一点、パプアニューギニアの治安と渡航情報は変わる。出発前に外務省の海外安全情報を必ず確認してほしい。

もっと深く知るための本と音声

今村自身の『今村均回顧録』(芙蓉書房出版)が第一の資料で、本人が獄中から書き始めたものだ。人物伝としては角田房子『責任 ラバウルの将軍今村均』(ちくま文庫)が定番で、「責任」という題名がそのままこの人の生涯を言い当てている。近年では岩井秀一郎『今村均 敗戦日本の不敗の司令官』(PHP新書、2023年)が読みやすい。

長い評伝は、私は移動中にオーディオブックで聴くことが多い。今村の話は、聴いていると途中で何度か止めたくなる。それでいい本だと思う。

よくある疑問に、私なりに答えておく

今村均の読み方は

「いまむら ひとし」。「聖将」「ラバウルの聖将」「徳の人」など、いろいろな呼ばれ方をするが、本人はそういう呼び方を嫌ったと思う。回顧録の題名が『幽囚回顧録』であることが、本人の自己認識を示している。

なぜ東京裁判のA級戦犯にならなかったのか

開戦時点で今村は陸軍中央にいなかった。満州事変のあと左遷され、開戦時は第16軍司令官として前線にいた。開戦の決定にも政策にも関わっていない。だからA級(平和に対する罪)の対象にはならず、現地での部下の不法行為に対する監督責任として、BC級で裁かれた。

豪州で有罪、オランダで無罪なのはなぜか

豪州の裁判はラバウル周辺での捕虜や住民に対する部下の不法行為の監督責任を問うたもので、方面軍司令官としての責任が認められて禁固10年。オランダの裁判はジャワでの捕虜・抑留者の扱いを問うもので、死刑が求刑されたが、今村のジャワ軍政が寛容だったことは証拠上明らかで、無罪になった。同じ人間が、場所によって有罪と無罪に分かれた。BC級裁判というものの性格がよく出ている。

「聖将」という呼び方は正しいのか

私は、この呼び方に少し距離を置いている。今村は聖人ではなく、陸大首席の参謀だ。ジャワの寛容政策も、住民を敵に回さないほうが軍需資源の調達が捗るという計算を伴っていて、実際に政府の調査団は「軍需物資の調達の成果がずば抜けて良い」と報告している。ラバウルの自給も、玉砕させないための情ではなく、包囲された部隊を機能させ続けるための設計だ。今村の凄さは「優しかった」ことではなく、優しい判断と合理的な判断が一致する道を、毎回見つけてきたことにある。聖将と呼ぶより、日本陸軍で最も計算が正しかった大将、と呼ぶほうが、私はこの人に敬意を払える気がしている。

自決しなかったのは逃げではないか

今村は自決を試みて、失敗している。そのあと、生きて責任を取る道を23年かけて歩いた。私は、死ぬことと生きて償うことのどちらが重いかを決める立場にない。ただ、今村が選んだ道が「楽な道」でなかったことだけは、庭の小屋と、マヌス島の3年半と、印税の行き先を見ればわかる。

今村均が今の私たちに残したもの

今村均は、陸大首席の参謀の頭で、人を殺さない道を計算し続けた人だ。満州事変では統帥の原則の側に立って左遷され、ジャワでは自分の書いた『戦陣訓』を盾に東條に逆らい、ラバウルでは補給が切れる前提で10万人を生かす系を作り、戦後は自決に失敗して、部下のいる牢に戻り、庭の小屋で死ぬまで謹慎した。

どれも、感情ではなく判断だ。そしてその判断の基準は、最初から最後まで一つだった。自分の責任の範囲で、人を死なせない。

日本軍には、突撃を命じる指揮官はいくらでもいた。玉砕を命じる指揮官もいた。撤退を決められる指揮官は少なく、持久を組める指揮官はさらに少なく、戦後に責任を自分の身体で引き受けた指揮官は、もっと少ない。今村は、その全部をやった。

ラバウルの畑は、今はもう火山灰の下だ。だが「補給が切れても人を生かす」という設計思想は、今の日本の防衛が、80年遅れで真面目に取り組み始めた課題そのものだ。今村は終わった人ではない。

基本情報の参考資料

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軍研ノート編集部のアバター 軍研ノート編集部 自衛隊・兵器 / 戦史 / サバゲー

自衛隊で6年間勤務した編集長を中心に、自衛隊時代の仲間やサバゲーを通じた知人と記事を制作。経験と公開資料をもとに、装備の仕組みや歴史、その背景にある人々の工夫を掘り下げています。「かっこいい」から、その先の理解へ。編集長のプロフィール → 運営・編集方針

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