1934年5月30日、東郷平八郎は86歳で亡くなった。国葬には大勢の人が詰めかけ、アメリカやイギリスの海軍も弔意を示した。日本海海戦から29年。東郷はもはや一人の提督ではなく、日本海軍そのものの象徴になっていた。
でも、私が東郷について一番考えさせられるのは、死の場面ではなく、その少し前の数年間だ。
1930年のロンドン海軍軍縮条約をめぐって、日本海軍は真っ二つに割れた。条約を受け入れて米英との協調を保とうとする「条約派」と、条約に反対して戦力の拡充を求める「艦隊派」。このとき、すでに80歳を超えていた東郷は艦隊派の側に立った。そして、日本海海戦の英雄が反対しているという事実は、海軍の中で誰にも覆せない重みを持った。
その後の数年で、条約派の有能な提督たちは次々と現役を追われていく。山本五十六が「巡洋艦の戦隊よりも大事だ」と惜しんだと伝えられる親友、堀悌吉もその一人だった。
日本海海戦で日本を救った名将が、晩年には海軍の進路を狭める「神様」になっていた。この記事は、東郷平八郎という人の一生を追いながら、この矛盾をどう考えればいいのかを書いていく。日本海海戦そのものの詳細は日本海海戦の解説に譲り、ここでは人物に焦点を当てる。
東郷平八郎を一言で

資料:Harris & Ewing, photographer/出典・利用条件(Public domain)
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 生没 | 1848年(弘化4年12月)〜1934年5月30日 |
| 出身 | 薩摩藩(鹿児島・加治屋町) |
| 最終階級 | 元帥・海軍大将(死去時に侯爵) |
| 代表的な戦歴 | 薩英戦争、戊辰戦争、日清戦争(浪速艦長)、日露戦争(連合艦隊司令長官) |
| 戦後の役割 | 東宮御学問所総裁(のちの昭和天皇の教育)、海軍の長老 |
| 異名 | 東洋のネルソン |
薩摩の少年は、イギリスの砲弾から海軍を学んだ
東郷は、鹿児島城下の加治屋町に生まれた。この小さな町は、西郷隆盛、大久保利通、大山巌、山本権兵衛と、明治を動かした人物を何人も出している。東郷も、その流れの中で育った。
15歳のとき、薩英戦争に参加している。イギリス艦隊が鹿児島湾に来て、薩摩藩と砲火を交えた戦いだ。薩摩は意外な善戦をしたが、イギリス艦の大砲の威力と射程には歯が立たなかった。少年の東郷は、このとき海の力というものを身をもって知ったはずだ。
戊辰戦争では、薩摩藩の軍艦「春日」に乗り組み、旧幕府の海軍と戦った。阿波沖の海戦や、函館の戦いにも加わっている。東郷の海軍人生は、日本で最初の近代的な海戦の中から始まった。当時の軍艦は、木造の船体に蒸気機関と帆を併せ持つものが多く、のちに東郷が率いる鋼鉄の戦艦とはまるで別物だった。帆船の時代の終わりから、ドレッドノートの時代の入り口まで。東郷の一生は、軍艦そのものが劇的に変わっていった時代とぴったり重なっている。
7年間のイギリス留学:国際法を身につけた士官
1871年、東郷はイギリスに留学する。ここから帰国まで7年。決して短くない。
当時のイギリスは世界最強の海軍国だった。東郷は商船学校の練習船で船乗りとしての基本を叩き込まれ、イギリス人の学生たちと一緒に生活した。体の小さな東洋人として、からかわれることも多かったと伝えられている。それでも東郷は、黙々と学び続けた。
この留学で東郷が身につけたもので、のちに一番効いたのは、操艦の技術よりも、国際法の知識だったかもしれない。それがはっきりわかるのが、日清戦争の開戦直後に起きた事件だ。
高陞号事件:国際法で名を上げた艦長
1894年7月、日清戦争の開戦直後。巡洋艦「浪速」の艦長だった東郷は、清国の兵士を乗せて朝鮮に向かうイギリス船籍の輸送船「高陞号」に出会った。
東郷は停船を命じ、日本艦に従うよう求めた。ところが船内の清国兵がイギリス人の船長に従わせず、交渉は決裂する。東郷は撃沈を決断した。
イギリスの旗を掲げた船を沈めたのだから、イギリスの世論は激しく反発した。日英関係が壊れかねない事態だった。しかし、イギリスの国際法の専門家たちが、東郷の処置は戦時国際法にかなっていると相次いで論じたことで、空気は一変する。防衛研究所の史料紹介でも、この事件は東郷の処置が国際法に適っていたことで、かえって彼の名声を高めたと説明されている。
ここで面白いのは、東郷が「撃つ」と決めるまでに、手順を一つずつ踏んでいたことだ。停船命令、臨検、退去の勧告、そして最後に撃沈。勢いで撃ったのではなく、法の手続きを踏んだうえで撃った。大胆さと慎重さが、一つの決断の中に同居している。これは、のちの日本海海戦の東郷にもつながっていく性格だと思う。
その後の日清戦争で、「浪速」は1894年9月の黄海海戦にも加わり、清国の北洋艦隊と戦っている。日本の艦隊は、巨大な戦艦「定遠」「鎮遠」を擁する北洋艦隊に対して、速力と速射砲の手数で戦った。東郷はこの戦争を通じて、艦の性能の差を運動と射撃で埋めるという、日本海軍の戦い方の原型を体で覚えたのだと思う。
日清戦争の勝利で、海軍には一気に予算がつき、「三笠」を含む新しい戦艦がイギリスに発注されていく。東郷が10年後に乗ることになる艦は、こうして生まれた。日清戦争については、別の記事で詳しく書くつもりだ。
「運のいい男」という人事
日清戦争のあと、東郷は常備艦隊の司令長官などを務めるが、そこから先は地味なポストが続いた。日露戦争の直前には、京都の北にある舞鶴鎮守府の司令長官だった。いわば、主流から少し外れた場所だ。
1903年12月、ロシアとの戦争が避けられないと見えてきたころ、海軍大臣の山本権兵衛は、連合艦隊の司令長官に東郷を選んだ。このとき、常備艦隊の司令長官だった日高壮之丞を外しての抜擢だった。
なぜ東郷なのか。明治天皇にそう尋ねられた山本が「東郷は運のいい男だから」という趣旨で答えた、という話がよく知られている。どこまで本当かはわからないが、山本の本心は、たぶん別のところにあった。日高は優秀だが、自分の考えで動く人だった。東郷は、命令に忠実で、大局を見て、いざというときに腹が据わっている。山本は、大本営の方針どおりに動いて、最後の勝負どころで決断できる司令長官を求めたのだと思う。
組織の人事として、これはなかなかの賭けだった。そして、その賭けは当たった。
日露戦争:日本海海戦の前に、苦い1年があった

資料:撮影者不詳/出典・利用条件(Public domain)
日本海海戦の印象があまりに強いので忘れられがちだが、東郷の日露戦争は、その前の1年以上のほうがずっと苦しかった。戦争の全体像は日露戦争の解説で書いているので、ここでは東郷に関わるところだけを拾う。
開戦直後、連合艦隊は旅順のロシア艦隊を奇襲したが、全滅させることはできなかった。港に逃げ込んだ艦隊を外から閉じ込めるため、古い船を港口に沈める閉塞作戦も繰り返したが、完全には塞げなかった。その間、連合艦隊は戦艦「初瀬」と「八島」を機雷で一度に失っている。もともと戦艦は6隻しかなかったので、その3分の1が消えたことになる。
1904年8月の黄海海戦では、旅順を脱出してウラジオストクに向かおうとするロシア艦隊を、東郷はあと一歩で取り逃がすところだった。艦隊の位置取りで後手に回り、一時は大きく引き離されている。追いついて砲撃戦になり、ロシアの旗艦に命中した一弾で艦隊が崩れたことで、ようやく脱出を阻止できた。勝ったとはいえ、決定的な撃滅には至らなかった。
この黄海海戦について、のちに興味深い証言がある。海軍の条約派の重鎮だった山梨勝之進が晩年に海上自衛隊の幹部学校で行った講話には、東郷は日本海海戦よりも黄海海戦のほうを重視したがっていた、という話が出てくる。
私はこれに、東郷という人の本当の強さを見る。華々しい勝利ではなく、取り逃がしかけた苦い戦いのほうから学ぼうとしていた。黄海海戦の反省は、射撃の訓練や艦隊運動の見直しにつながり、9か月後の日本海海戦で実を結ぶことになる。
その間、陸軍は旅順の要塞に苦しみ続けていた。旅順の港に残るロシア艦隊が健在なうちは、連合艦隊は旅順から離れられない。そこにバルチック艦隊が来れば、挟み撃ちになる。東郷にとって、旅順の陥落は自分の艦隊の死活問題でもあった。このあたりは旅順攻囲戦の解説で詳しく書いている。
技術と訓練の司令長官:鎮海湾の猛訓練
技術好きとして、東郷の連合艦隊を語るなら訓練の話は外せない。
旅順が落ちてからバルチック艦隊が来るまでの数か月、連合艦隊は朝鮮半島南岸の鎮海湾に集まり、ひたすら射撃の訓練を繰り返した。実弾を撃つと砲身がすり減り、弾も足りなくなる。そこで、大砲の砲身の中に小さな銃を仕込んで撃つ「内筒砲射撃」のようなやり方で、弾を節約しながら狙いの精度を上げていったと言われる。
黄海海戦で痛感したのは、遠い距離での砲撃がなかなか当たらないことだった。そこで連合艦隊は、各砲がばらばらに撃つのではなく、艦全体で距離を測り、まとまって撃つ方向に射撃の方法を見直していく。日本海海戦での高い命中率は、この地道な積み重ねの上にあった。
艦の性能や新兵器も大事だが、それを使いこなす人間の腕がなければ意味がない。東郷の連合艦隊は、そのことを誰よりもよくわかっていた。東郷が派手な号令より、黙って訓練を見守るタイプの司令長官だったことは、この時期の連合艦隊の空気をよく表していると思う。
日本海海戦と「東郷ターン」の真実

資料:撮影者不詳/出典・利用条件(Public domain)
1905年5月27日、対馬沖。旗艦「三笠」のマストに、「皇国の興廃この一戦にあり」の意味を込めたZ旗が揚がった。
そして午後2時過ぎ、敵の艦隊を前にして、東郷は連合艦隊の針路を大きく変えさせた。いわゆる「東郷ターン」だ。敵の目の前で艦が1隻ずつ同じ地点で向きを変えていくこの運動は、その間、回頭する地点に敵の砲火を集められる危険な動きでもあった。
この東郷ターンが名采配だったのかどうかは、今でも議論が分かれる。私なりに整理すると、ポイントは3つある。
一つ目は、リスクを取った決断だったということ。敵前での回頭は危険だが、そのまま進めば敵とすれ違ってしまい、決定的な打撃を与えられない。東郷は、自分の艦隊が損害を受ける危険を承知で、敵の進路を押さえる位置を取りにいった。
二つ目は、ターンだけで勝ったわけではないということ。連合艦隊は、無線による索敵、黄海海戦の反省から磨き込んだ射撃、下瀬火薬の威力、そして長い航海で疲れ果てたバルチック艦隊という条件がそろっていた。ターンは、その条件を最大限に生かすための一手だった。
三つ目は、のちの「伝説化」によって、ターンの意味が大きく膨らんだということ。日本海海戦の勝利があまりに完璧だったために、東郷ターンは「天才の閃き」として語られるようになった。でも実際には、事前に研究された戦術と、その場の判断が組み合わさった結果だった。天才の一手として崇めるより、準備と決断の産物として見るほうが、私は東郷の本当の凄さに近いと思っている。
このあたりの詳しい検証は、冒頭で紹介した日本海海戦の記事で書いている。
ちなみに旗艦の「三笠」は、イギリスのヴィッカース社で造られた戦艦だ。7年間イギリスで学んだ東郷が、イギリス生まれの艦の艦橋に立って、ロシア艦隊を破った。当時の日本海軍は、人も艦も、イギリスから多くを学んでいた。日本海軍の艦艇の系譜を追うならこの一冊がいい。
名将だった理由:部下を使い、責任を負った

資料:伊藤正徳の掲載資料(原写真の撮影者不詳)/出典・利用条件(Public domain)
日本海海戦の勝利を、東郷一人の手柄にするのは正しくない。連合艦隊には、参謀長の加藤友三郎や、作戦を練った先任参謀の秋山真之といった人材がいた。Z旗の文言も、海戦の報告電報の有名な一節も、秋山の筆によるものだと言われている。
でも、私は、だからこそ東郷は名将だったのだと思う。
才能ある部下を信じて使い、彼らの案を聞いたうえで、最後の決断は自分で下し、その結果の責任をすべて自分で負った。秋山は鋭い天才肌の参謀だったが、司令長官としてすべてを背負う器だったかというと、それはまた別の話だ。東郷は、自分が一番賢くある必要はないことを知っていた。
もう一つ、東郷は待つことができた。バルチック艦隊が対馬海峡に来るのか、津軽海峡に回るのか。連合艦隊の中でも意見は割れ、司令部には焦りが広がった。それでも東郷は、対馬で待つという判断を最後まで崩さなかったと伝えられる。動くより、動かないほうがずっと難しいときがある。
連合艦隊解散の辞:「勝って兜の緒を締めよ」
戦争が終わった1905年12月、連合艦隊は解散した。そのとき東郷の名前で読み上げられたのが「連合艦隊解散の辞」だ。これも秋山の起草とされる。
その結びにあるのが、「古人曰く、勝って兜の緒を締めよ」という言葉だ。戦争に勝っても、それで終わりではない。平時こそ訓練を怠らず、備えを続けよ、という戒めだった。
アメリカのセオドア・ルーズベルト大統領はこの文章に感銘を受け、英訳させて自国の軍に配ったという話が残っている。
ただ、皮肉なことに、日本海軍が本当に締めるべきだった兜の緒は、訓練の量ではなかった。日本海海戦の勝ち方そのものにとらわれ、次の戦争の形を見誤った。その皮肉は、晩年の東郷自身の姿にも重なっていく。
世界が見た東郷
東郷の名は、日本の外でも広く知られた。
アジアの小国がヨーロッパの大国の艦隊を破ったことは、ロシアの圧迫を受けていた国々に大きな衝撃を与えた。フィンランドには、東郷を含む世界の提督の肖像をラベルにしたビールのシリーズがあったことが知られている。トルコでも、日本海海戦のあとに子どもに「トーゴー」と名付けた人がいたという話がある。どれも、話が大きく膨らんで伝わっている面はあるが、東郷の勝利が世界にどう受け止められたかを示す逸話ではある。
アメリカ海軍のチェスター・ニミッツは、若い士官だった1905年に、日本で東郷に会ったことがあると語っている。のちに太平洋戦争で日本海軍と戦ったニミッツは、戦後、荒れ果てていた記念艦「三笠」の保存に協力した。敵として戦った国の英雄の艦を、救う側に回ったのだ。私はこの話が、東郷にまつわる逸話の中でも一番好きだ。
東宮御学問所総裁:のちの昭和天皇を教えた7年間
1913年に元帥となった東郷は、翌1914年から、皇太子だったのちの昭和天皇の教育を担う東宮御学問所の総裁を務めた。1921年まで、7年間にわたる役目だ。
東郷自身が講義をしたわけではないが、学びの場全体を統べる立場として、若い皇太子のそばにいた。倫理の講義を担当したのは教育者の杉浦重剛で、ほかにも各分野の一流の学者が集められた。東郷はその全体に目を配り、皇太子の学びの環境を整える役目を負っていた。のちに昭和天皇が東郷をどう思っていたかについては、さまざまな証言があるが、少なくとも若き日の天皇にとって、東郷が身近で特別な存在だったことは間違いない。日本海海戦の英雄が、未来の天皇の教育に関わる。それだけ東郷の権威が大きかったということでもある。
ただ、この役目が、晩年の東郷の存在をさらに特別なものにしていった面もあると思う。元帥であり、日本海海戦の英雄であり、天皇の教育係でもあった人物に、面と向かって異を唱えられる人は、海軍の中にほとんどいなくなっていった。
晩年の「神様」:ロンドン条約と艦隊派
ここからが、この記事で一番書きたかったところだ。
1930年、ロンドン海軍軍縮会議で、日本は補助艦の保有量について、アメリカに対して7割に届かない比率を受け入れた。海軍大臣の財部彪や、条約を支持する海軍省の主流は、米英との協調を保つにはやむを得ないと考えた。一方、作戦を担う軍令部の加藤寛治らは、これでは国を守れないと強く反発した。
ここで問題は、軍の兵力を決める権限が誰にあるのか、という憲法論にまで広がる。軍令部の同意なしに兵力を決めたのは天皇の統帥権を犯すものだ、という「統帥権干犯」の主張だ。この主張は野党や右翼にも利用され、政治を揺さぶる大問題になった。
東郷は、この争いで艦隊派の側に立った。軍縮条約に反対する加藤寛治らを支持し、その後も条約派に厳しい姿勢を取り続けたと言われる。
80歳を超えた元帥の、一人の意見にすぎない、と言えばそれまでだ。でも、東郷の意見は、もう一人の意見ではなかった。日本海海戦の英雄、元帥、天皇の教育係。その人が反対しているという事実は、海軍の中で決定的な重みを持った。
1932年には、皇族の伏見宮博恭王が軍令部長に就き、艦隊派の勢いはさらに強まる。そして1933年から1934年にかけて、海軍大臣・大角岑生のもとで、条約派の提督たちが次々と予備役に回された。いわゆる「大角人事」だ。山梨勝之進、谷口尚真、左近司政三、そして堀悌吉。国際協調を重んじ、アメリカとの戦争の危うさを冷静に見ていた人たちが、海軍の中枢から消えていった。この人事には、伏見宮と東郷の意向も働いたと言われている。
山本五十六は、海軍兵学校の同期で親友だった堀悌吉が追われたことを、深く嘆いたと伝えられる。山本や、のちに対米戦争に反対し続けた井上成美のような人たちが、この流れの中で孤立を深めていったことを思うと、私はやりきれない気持ちになる。二人については山本五十六の解説と井上成美の生涯で書いた。
投資家の目で見る軍縮:条約の裏にあった財政の事情
ここで少し、お金の話をはさんでおきたい。
ロンドン条約を結んだ浜口雄幸内閣は、同時に、大蔵大臣・井上準之助のもとで、厳しい緊縮財政と金解禁を進めていた。国の財政を立て直し、通貨の信用を取り戻すためだ。軍縮は、その財政再建の柱でもあった。軍艦は、造るのにも維持するのにも、とてつもなくお金がかかる。
つまり、ロンドン条約をめぐる争いは、「国防のための軍備」と「国の財政」のどちらを優先するか、という争いでもあった。条約派は財政と外交の現実を見て、艦隊派は戦場の現実を見た。どちらにも理はあった。
ただ、その後の歴史を知っている私たちから見ると、財政の歯止めが外れたあとの日本がどうなったかは、はっきりしている。軍事費は膨らみ続け、最後は国そのものが戦争に飲み込まれた。防衛費の増額が議論されている今、この時代の対立は、決して他人事ではないと私は思っている。
なぜ「神様」は止まらなかったのか
私は、晩年の東郷を一方的に責める気にはなれない。
東郷は、ロシアの大艦隊と命がけで戦った人だ。数で劣る艦隊を率いる怖さを、誰よりも知っていた。だからこそ、アメリカに対して比率で縛られることに、本能的な危機感を覚えたのだと思う。その気持ち自体は、理解できる。
問題は、東郷の個人の意見が、組織の中で「誰も反論できない意見」に変わってしまったことだ。老いた英雄の権威が、現役の指導者たちの冷静な議論を押しつぶした。そして、その権威を利用しようとする人たちも周りにいた。
これは東郷一人の問題というより、組織の問題だと私は思っている。成功体験の象徴を、組織が祭り上げすぎた。祭り上げられた本人も、それを止める立場にはなかった。日本海海戦の完璧な勝利が、海軍に「次も決戦で勝てる」という思い込みを植えつけ、その思い込みの象徴が東郷だった。そのあたりの構造は日本海軍はなぜ敗れたのかで詳しく書いている。
成功した組織がなぜ失敗するのか、という問いを日本軍の事例で突き詰めた古典が、この本だ。東郷の晩年を考えるとき、私はいつもこの本のことを思い出す。
死と神格化

資料:Underwood & Underwood, publisher/出典・利用条件(Public domain)
1934年5月30日、東郷は亡くなった。国葬が営まれ、日本中が喪に服した。
そして1940年、東京の原宿に東郷神社が創建される。東郷は、文字どおり「神様」になった。同じように日露戦争の英雄だった乃木希典も、乃木神社に祀られている。乃木の生涯については乃木希典の解説を読んでほしい。
東郷が神として祀られた翌年、日本はアメリカとの戦争に踏み出した。日本海海戦の再現を夢見た海軍は、その夢とともに太平洋で敗れていく。東郷の名は、最後まで海軍を励ます旗印であり続けたが、同時に、海軍が古い勝ち方から抜け出せなかったことの象徴にもなってしまった。
結論:東郷平八郎は名将だったのか
私の答えは、こうだ。
海戦の指揮官としての東郷は、間違いなく名将だった。国際法を踏まえて決断できる冷静さ、才能ある部下を信じて使う度量、黄海海戦の苦い経験から学ぶ姿勢、そして待つべきときに待てる胆力。どれも、今のリーダーにも通じる資質だと思う。
でも、晩年の東郷は、名将としての自分の権威を、組織にとって健全な形で手放すことができなかった。あるいは、組織が手放させなかった。その結果、東郷の名は、日本海軍が新しい時代に適応するのを妨げる重しにもなった。
名将であったことと、老いてなお権威を持ち続けたことは、別の話だ。東郷平八郎の一生は、その両方を私たちに見せてくれる。
勝って兜の緒を締めよ。東郷の名前で残されたこの言葉を、一番必要としていたのは、ほかでもない、東郷を神様にした日本海軍そのものだったのかもしれない。
よくある疑問に短く答える
「東洋のネルソン」はなぜそう呼ばれたのか
イギリスのネルソン提督は、1805年のトラファルガー海戦でフランス・スペイン連合艦隊を破り、イギリスを救った英雄だ。日本海海戦はそれからちょうど100年後の1905年で、一つの海戦で大国の艦隊を壊滅させ、国の危機を救ったという点で重ねられた。ネルソンはその海戦で戦死したが、東郷は生き延びて長い晩年を過ごした。この違いが、二人の評価の違いにもつながっていると私は思う。
東郷ターンは東郷が考えたのか、秋山が考えたのか
敵の進路の前を押さえる「丁字戦法」の考え方そのものは、秋山真之らが日露戦争の前から研究していた。ただ、実際の海戦で、いつ、どの方向に回頭するかを決めたのは司令長官の東郷だ。作戦の設計と、その場での決断を分けて考えると、どちらか一人の手柄と決めつける必要はない。
東郷は本当に寡黙だったのか
多くの証言で、東郷は口数が少なく、感情をあまり表に出さない人だったとされている。その寡黙さが、司令長官としての落ち着きや威厳として受け取られた面もあるし、晩年には、何を考えているのか周りが読みきれない「神様」の雰囲気を強めた面もあったと思う。
自衛隊ファンとして:海上自衛隊に残る東郷
東郷の存在は、今の海上自衛隊にも残っている。
広島県江田島の海上自衛隊幹部候補生学校には、旧海軍兵学校の時代から続く教育参考館があり、旧海軍ゆかりの品々が収められている。そこには東郷の遺髪も納められていると言われ、幹部自衛官の卵たちが、明治以来の海軍の歴史に触れる場所になっている。
また、この記事で紹介した山梨勝之進の講話は、まさに海上自衛隊の幹部学校で語られたものだ。旧海軍の最良の部分と最悪の部分を、両方とも次の世代に伝えようとした。東郷の栄光と晩年の影を、その両方とも語り継ぐことこそ、本当の意味で「勝って兜の緒を締める」ことなのだと思う。
東郷平八郎ゆかりの地を訪ねる

資料:Nesnad/出典・利用条件(CC BY-SA 3.0)
最後に、東郷の足跡に触れられる場所を紹介しておく。
横須賀の三笠公園には、記念艦「三笠」が保存されている。日本海海戦で東郷が立った艦橋に、実際に上ることができる。戦後に荒れ果てていた艦が、ニミッツらの協力も得て修復されたという話を知ってから行くと、また違って見える。
広島県の呉には、東郷が呉鎮守府の参謀長だった時代の家の離れが残っていて、国の登録有形文化財になっている。そこから海軍の施設へ続く坂道は、今も「東郷坂」と呼ばれているそうだ。呉は大和ミュージアムや海上自衛隊の史料館もある軍港の街なので、合わせて回るといい。
東京の原宿には東郷神社がある。表参道の喧騒から少し入っただけの場所に、静かな境内が広がっている。そして生まれ故郷の鹿児島・加治屋町には、明治の偉人たちの生誕地を示す碑が並んでいる。
横須賀や呉は、日帰りで回るより、一泊してじっくり歩くのがおすすめだ。
もっと深く知りたい人へ
東郷を物語として味わうなら、司馬遼太郎の『坂の上の雲』は外せない。秋山真之の目を通して描かれる東郷は、寡黙で揺るがない司令長官として印象に残る。ただ、小説なので、人物の描き方には作家の解釈が強く入っていることは頭に置いておきたい。
この記事で触れた山梨勝之進の講話をまとめた『歴史と名将』も、海軍の内側から東郷や日露戦争を見る貴重な一冊だ。
長い本を読む時間がないなら、耳で聴くのもいい。通勤のあいだに戦史や人物伝を聴くようになって、私の「読書量」はかなり増えた。
日本海軍の全体像を写真と図でつかみたいなら、こちら。三笠から大和まで、帝国海軍の艦艇を一冊で見渡せる。
日露戦争全体の流れは、日露戦争の全体像にまとめた。東郷の右腕だった秋山真之や、戦艦三笠の数奇な一生についても、これから書いていくつもりだ。







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