【完全保存版】第二次世界大戦エースパイロットランキングTOP15|352機撃墜のハルトマンから日本海軍の岩本徹三まで、空の英雄たちの伝説を徹底解説

第二次世界大戦。それは人類史上最も激しい航空戦が繰り広げられた時代だった。

青空を舞台に、数百キロの速度で旋回する戦闘機同士が火花を散らし、一瞬の判断ミスが死を意味する世界。その中で「エース・パイロット」と呼ばれる存在が生まれた。敵機を5機以上撃墜したパイロットに与えられる称号である。

だが、諸君はご存知だろうか。

ドイツ空軍(ルフトヴァッフェ)には100機以上撃墜したエースが107人も存在し、200機以上撃墜が15人、そして300機を超えるスーパーエースが2人もいたことを。

一方で日本海軍のエースたちは、圧倒的な物量差の中で零戦を駆り、ラバウルの空で「龍の顎(ドラゴン・ジョーズ)」と恐れられた。アメリカ軍のトップエースは40機撃墜に留まり、それでも国民的英雄として称えられた。

なぜこれほどの差が生まれたのか。そして、数字だけでは測れない「真のエース」とは何だったのか。

この記事では、第二次世界大戦の空を彩った各国のエースパイロットたちをランキング形式で紹介しながら、彼らの人間ドラマと空戦技術の真髄に迫る。読み終える頃には、きっと諸君も彼らの乗機を手元に置きたくなるはずだ。


目次

エースパイロットとは何か──5機撃墜から始まる伝説

第二次世界大戦中、ヨーロッパ上空を編隊飛行するP-51マスタング戦闘機

まず「エース・パイロット」の定義を押さえておこう。

第一次世界大戦でフランスが「10機以上撃墜者」をエースと定義したのが始まりだ。イギリスやドイツも同様の基準を採用した。しかし1917年に参戦したアメリカは戦闘期間が短かったことを考慮し、「5機以上撃墜者」をエースの資格と定めた。第二次世界大戦では、この5機基準が各国共通の標準となっている。

日本では「撃墜王」という呼称が一般的だった。ただし、日本軍には独特の事情があった。海軍では1943年後半以降、軍令部の指示で個人撃墜数の記録を廃止している。部隊としての戦果を重視し、個人の功名を戒めたのだ。そのため日本のエースたちの撃墜数は、戦後の自己申告や戦史家の推定に頼らざるを得ない部分が多い。

陸軍はこれとは対照的に、国民へのアピールと部内の士気向上のため、個人撃墜数の公表を積極的に行っていた。同じ日本軍でも陸海軍で対応が真逆だったのは、いかにも日本的と言えるかもしれない。

さて、問題は撃墜数の「信頼性」だ。

空中戦での撃墜判定は誤認が非常に多い。高速で旋回する敵機に弾を命中させ、煙を吹いて落ちていくのを確認しても、実際には不時着して生還していることがある。著名な搭乗員である坂井三郎も「空戦の戦果なんて、まぁほとんど誤認です」と語っている。

ドイツ軍は撃墜認定が厳格だった。二人以上の目撃証言に加え、内陸戦だったため敵機の墜落現場の確認まで行われることがあった。それでも352機という数字が記録されているのだから、ドイツ空軍エースたちの凄まじさが分かる。


なぜドイツ空軍の撃墜数は桁違いなのか

ランキングに入る前に、この疑問を解消しておこう。

第二次世界大戦で5機以上撃墜のエースは世界で約432名誕生した。内訳を見ると驚愕する。

ドイツ空軍:208名(全体の約48%)
日本軍:101名
イギリス空軍:28名
アメリカ軍:約40名

ドイツ軍が突出している理由は複数ある。

第一に、東部戦線の存在だ。
ドイツ空軍最高撃墜記録保持者エーリッヒ・ハルトマンの352機は、ほとんどが東部戦線でのソ連機撃墜だった。大戦初期のソ連空軍は練度が低く、航空機の性能もドイツ機に劣っていた。大量のソ連機が押し寄せてくる状況は、腕のあるパイロットにとって「撃墜数を稼ぐ」好条件だったと言える。

第二に、出撃回数の多さ。
ドイツ軍パイロットは「ずば抜けてこき使われた」。交代要員が少なく、同じパイロットが何度も何度も出撃を重ねた。ハルトマンは1,400回以上出撃し、800回以上の空戦を経験している。アメリカ軍のパイロットが一定期間で交代させられたのとは対照的だ。

第三に、防弾装備と戦場環境の差。
Bf109やFw190は十分な防弾装備を備えており、被撃墜されてもパイロットの生存率が高かった。しかも戦場は大陸上空。撃墜されても不時着して帰還できることが多かった。ハルトマンでさえ16回撃墜されているが、毎回生還している。

これが日本軍パイロットや太平洋の戦場であれば、一度の被撃墜が即座に戦死を意味した。海に落ちれば救助は困難を極める。防弾装備を軽視した零戦は、被弾すればすぐに火を噴いた。

第四に、ロッテ戦法の採用。ドイツ空軍は早くから2機編隊を基本とするロッテ戦法を採用した。一機が攻撃している間、もう一機が上空を援護するこの戦法は、パイロットの生存率を高めると同時に、効率的な撃墜を可能にした。

つまり、ドイツ軍エースの高い撃墜数は、純粋な技量だけでなく、戦場環境・機体性能・戦術・出撃回数など複合的な要因の結果なのだ。だからといってその数字を「水増し」と見なすのは正しくない。彼らが過酷な状況で戦い続けたことは紛れもない事実である。

さあ、前置きが長くなった。いよいよランキングに入ろう。


【第15位〜第11位】世界のエースパイロットたち

第15位:リチャード・ボング(アメリカ)──40機撃墜

アメリカ全軍を通じてのトップエース。撃墜数40機は、ドイツや日本のエースと比べれば控えめに見えるかもしれない。だが、彼こそアメリカの国民的英雄だった。

リチャード・アイラ・ボングは1920年ウィスコンシン州生まれ。教師を目指していたが、戦争の勃発でその道を変えた。1942年から南西太平洋戦線でP-38ライトニングを駆り、日本軍機と戦った。

P-38は双発の重戦闘機で、格闘戦には不向きとされていた。日本軍パイロットからは「ペロ8」と蔑称で呼ばれたこともある。しかしボングはその弱点を逆手に取り、一撃離脱戦法を徹底して撃墜数を重ねた。

愛機「マージ号」の機首には婚約者マージの写真が大きく貼られていた。戦場にあっても愛する人を忘れない。そのロマンチックな姿勢もアメリカ国民の心を掴んだ。

1944年12月に名誉勲章を受章した後は、貴重な英雄を失いたくない軍の配慮で本国勤務に回された。新婚生活を楽しみながら、新型ジェット戦闘機P-80のテストパイロットを務めていた。

しかし1945年8月6日──広島に原爆が投下されたまさにその日──P-80の離陸直後に故障が発生。脱出を試みたが高度が足りずパラシュートが開かなかった。享年24歳。

アメリカン・ウォー・ヒーローの、あまりにもあっけない最期だった。


第14位:デヴィッド・マッキャンベル(アメリカ)──34機撃墜

アメリカ海軍のトップエース。F6Fヘルキャットを駆り、太平洋戦争で最も成功した海軍パイロットとなった。

特筆すべきは、戦争を生き延びたアメリカ人エースの中で最高の撃墜数を記録したことだ。ボングが事故死したため、マッキャンベルが「生き残った最高のエース」となった。

1944年6月19日のマリアナ沖海戦では、一日で7機を撃墜するという離れ業を演じた。この海戦でアメリカ軍は日本機を一方的に撃ち落とし、「マリアナの七面鳥撃ち」と呼んだ。我が日本軍にとっては痛恨の敗北であり、機動部隊の実質的な終焉を意味する戦いだった。

マリアナ沖海戦については、マリアナ沖海戦を徹底解説|「七面鳥撃ち」と呼ばれた日本機動部隊最後の決戦で詳述している。


第13位:イワン・コジェドゥーブ(ソ連)──62機撃墜

連合国側で最高の撃墜数を記録したソ連空軍のエース。La-5、La-7戦闘機を駆り、ドイツ空軍と激闘を繰り広げた。

コジェドゥーブの特徴は、大戦後半になってから頭角を現したことだ。1943年のクルスクの戦いで初撃墜を記録し、そこから急速にスコアを伸ばした。最も驚くべきは、Me262ジェット戦闘機を撃墜した記録があることだ。プロペラ機でジェット機を落とすとは、尋常ではない技量である。

ソ連軍エースの撃墜数は西側に比べて控えめに見えるが、これには理由がある。ソ連は撃墜認定が厳格で、僚機の証言だけでなく地上部隊の確認も求められた。また、東部戦線はドイツ軍にとって「撃墜を稼ぐ場」だったとすれば、ソ連軍にとっては「生き残ること自体が困難な場」だった。

コジェドゥーブは三度にわたりソ連邦英雄の称号を授与され、朝鮮戦争にも参加(アメリカ機を撃墜したとも言われる)。1985年に空軍大元帥となり、1991年に死去した。

クルスクの戦いについてはクルスクの戦いを徹底解説|史上最大の戦車戦はなぜドイツ軍の”最後の賭け”となったのかを参照してほしい。


第12位:エイノ・イルマリ・ユーティライネン(フィンランド)──94機撃墜

ドイツ軍以外で最高の撃墜数を誇るエース。小国フィンランドの空を守り抜いた伝説的パイロットだ。

フィンランドは1939年のソ連による侵攻(冬戦争)、そして第二次世界大戦(継続戦争)と、人口わずか400万の小国でありながら巨大なソ連軍と戦い続けた。その空を護ったのがユーティライネンである。

彼はブリュースター・バッファロー(フィンランドではB-239)やメッサーシュミットBf109Gを操り、圧倒的な数のソ連機を相手に戦果を重ねた。94機という数字は、フィンランド空軍のみならず、連合国・中立国を含めた非ドイツ圏で最高記録である。

しかも彼は一度も被撃墜されていない。1,400回近い出撃で、無傷のまま終戦を迎えたのだ。

フィンランド人の頑強さ、そして祖国を守る決意。それがユーティライネンという一人のエースに凝縮されていた。


第11位:西沢広義(日本海軍)──87機(公認)〜147機(自称)

零戦とF6Fヘルキャットの死闘

いよいよ日本のエースが登場する。

西沢広義は「ラバウルの魔王」と呼ばれた日本海軍きってのエースだ。公認撃墜数87機は日本海軍で最高とされるが、本人は1944年の家族宛ての手紙で147機と記している。

長野県出身の西沢は、予科練を経て戦闘機パイロットとなった。1942年、台南海軍航空隊に配属されると、坂井三郎、太田敏夫とともに「台南空の三羽烏」と呼ばれるようになる。

ラバウルでの西沢は凄まじかった。零戦を自在に操り、次々とアメリカ機を撃ち落とした。100機撃墜記念として航空艦隊司令長官から「武功抜群」と書かれた軍刀を授与されている。

だが西沢の最期は、戦闘機乗りとしてはあまりに不本意なものだった。

1944年10月25日、神風特別攻撃隊敷島隊の直掩を務め、その戦果を確認。翌26日、新しい飛行機を受領するためマバラカット基地へ輸送機で移動中、ミンドロ島上空でアメリカ軍F6Fの攻撃を受けて撃墜された。

戦闘機乗りではなく、輸送機の便乗者として。大空の魔王は地に落ちた。享年24歳。


【第10位〜第6位】撃墜数100機超えの世界へ

ここからは撃墜数100機を超える超人的なエースたちの領域だ。ドイツ空軍がランキングを独占していく。

第10位:ハインツ・ベーア(ドイツ)──220機撃墜

ドイツ空軍で「220機撃墜でようやくトップ10に入る」という事実が、いかにルフトヴァッフェが異常な世界だったかを物語る。

ハインツ・ベーアは西部戦線と東部戦線の両方で戦果を挙げた数少ないエースだ。しかも大戦末期にはMe262ジェット戦闘機に搭乗し、16機を撃墜している。プロペラ機からジェット機への移行に成功したパイロットとしても貴重な存在だった。

彼の特徴は「生き残る技術」にあった。18回撃墜されながらも、その都度生還している。戦争を生き延び、1957年に航空ショーでの墜落事故で死亡するまで飛び続けた。


第9位:ヘルマン・グラーフ(ドイツ)──212機撃墜

東部戦線で活躍したエース。1942年に200機撃墜を達成した最初のパイロットとなった。

グラーフは「空戦の芸術家」と呼ばれた。彼の特徴は射撃の正確さにあった。無駄弾を使わず、確実に敵機の急所を撃ち抜く技術は他のエースからも一目置かれていた。

柏葉・剣・ダイヤモンド付騎士鉄十字章を受章。戦後はソ連の捕虜となり、1950年に帰還。西ドイツ空軍への復帰は果たせず、1988年に死去した。


第8位:ヴァルター・ノヴォトニー(ドイツ)──258機撃墜

258機という驚異的な撃墜数を、わずか23歳で記録したエース。ノヴォトニーは「天才」という言葉がふさわしいパイロットだった。

1941年に東部戦線で初撃墜を記録すると、そこから急速にスコアを伸ばした。1943年10月、255機目の撃墜を達成し、ドイツ空軍初の「250機エース」となった。

大戦末期、ノヴォトニーはMe262ジェット戦闘機部隊の指揮官となる。新しい戦闘機の可能性を追求する任務だった。

しかし1944年11月8日、アメリカ軍のP-51マスタング編隊と交戦中に戦死。享年23歳。

若き天才の死は、ドイツ空軍全体に衝撃を与えた。彼の名を冠した「ノヴォトニー飛行隊」は、ジェット戦闘機運用のパイオニアとして歴史に名を残している。


第7位:オットー・キッテル(ドイツ)──267機撃墜

267機撃墜という数字を残しながら、キッテルの名は一般にはあまり知られていない。

東部戦線で黙々と戦果を重ねた「地味なエース」だった。派手な宣伝を好まず、目立つことを嫌った。しかしその実力は折り紙付きで、ハルトマンに次ぐ歴代4位の撃墜数を記録している。

1945年2月14日、東プロイセン上空でソ連軍のイリューシンIl-2シュトルモヴィーク攻撃機を追撃中に被弾。脱出したが、パラシュートが開かなかった。享年28歳。


第6位:ヴィルヘルム・バッツ(ドイツ)──237機撃墜

バッツは「遅咲きのエース」だった。大戦初期は教官として後進の育成に従事し、実戦に参加したのは1942年からだった。

東部戦線に配属されると、その教官としての経験が存分に活かされた。冷静な判断力と正確な射撃で次々と撃墜を重ね、最終的に237機という記録を残した。

戦争を生き延び、西ドイツ空軍にも勤務。2013年に96歳で死去。ドイツ空軍トップエースの中では最も長寿を全うしたパイロットの一人だ。


【第5位〜第1位】人類史上最強のエースパイロットたち

いよいよトップ5。ここからは撃墜数300機超えの「超人」領域に踏み込む。

第5位:ヘルムート・リップフェルト(ドイツ)──203機撃墜

バトル・オブ・ブリテンでのスピットファイアとBf109の激しい空戦シーン

203機撃墜で第5位。これがドイツ空軍の異常さを端的に示している。

リップフェルトは東部戦線のスペシャリストだった。Bf109、Fw190を駆り、ソ連機を次々と撃墜した。彼の特徴は「生存能力の高さ」。何度も被弾し、何度も不時着しながら、その都度復帰して戦果を重ねた。

戦後はアメリカに渡り、航空関連の仕事に従事。1970年代にドイツに帰国し、2001年に死去した。


第4位:ハンス・ヨアヒム・マルセイユ(ドイツ)──158機撃墜

「撃墜数で測れないエース」がいるとすれば、マルセイユこそがその筆頭だろう。

158機という数字は、トップ10に入るほどではない。しかしマルセイユが「アフリカの星」と呼ばれ、ドイツ空軍史上最も伝説的なエースの一人とされる理由は、その撃墜の「質」にある。

彼の158機は、ほぼ全てが北アフリカ戦線でのイギリス空軍機だった。スピットファイア、ハリケーン、P-40といった当時の一流戦闘機を相手にした数字なのだ。東部戦線でソ連機を撃ち落とすのとは、難易度が全く違う。

マルセイユの空戦技術は芸術の域に達していた。「偏差射撃」──高速で旋回する敵機の未来位置を予測し、何もない空間に弾を撃ち込んで命中させる技術──を極めていた。4G、5Gの遠心力で顔が歪むほどの機動の中、瞬時に計算を行い、無駄弾なく敵機を仕留めた。

1942年9月1日、マルセイユは一日で17機を撃墜するという空前の記録を達成した。単独のパイロットが一日に17機。これは人間の限界を超えた数字である。

しかしその29日後、彼は死んだ。

1942年9月30日、出撃中にBf109のエンジンがトラブルを起こした。煙に包まれたコックピットから脱出を試みたが、機体に体を打ちつけてしまい、パラシュートが開く前に砂漠に激突した。享年22歳。

敵弾ではなく、機械の故障で命を落とした。撃墜王の皮肉な最期だった。

マルセイユの生涯は1957年にドイツ映画『撃墜王 アフリカの星』として映画化された。テーマ曲「アフリカの星のボレロ」は、軍歌ではなく哀愁を帯びたボレロ。彼の短くも激しい生涯を象徴する名曲として、今も愛されている。

北アフリカ戦線についてはエル・アラメインの戦いを徹底解説|「砂漠の狐」ドイツ軍英雄ロンメルが敗れた日で詳しく解説している。


第3位:ギュンター・ラル(ドイツ)──275機撃墜

275機撃墜で第3位。ラルは「生き残ったエース」として戦後も重要な役割を果たした人物だ。

1941年から東部戦線で戦い始め、着実にスコアを伸ばした。1943年には重傷を負って背骨を骨折、半身不随と診断されたが、奇跡的に回復して戦線に復帰。1944年5月には200機撃墜を達成した。

大戦末期は西部戦線に移動し、アメリカ軍のP-47やP-51と戦った。1945年には自身も撃墜されて負傷し、親指を失った。

戦後、ラルは西ドイツ空軍の再建に尽力した。1971年には空軍参謀長に就任し、NATO軍の要職も歴任。戦時中の敵だったアメリカ空軍のエース、ロビン・オールズとも親交を結んだ。

2009年、91歳で死去。ドイツ空軍のエースの中で、戦後最も「成功した」人生を送った一人と言えるだろう。


第2位:ゲルハルト・バルクホルン(ドイツ)──301機撃墜

301機撃墜。人類史上、300機を超えたパイロットは、たった2人しかいない。バルクホルンはその一人だ。

1941年から東部戦線で戦い始めたバルクホルンは、最初の50出撃で撃墜ゼロだった。エースへの道のりは決して順風満帆ではなかった。

しかしコツを掴んでからは急速にスコアを伸ばし、1944年には300機撃墜を達成。しかも9回撃墜されながらも、その都度生還している。

バルクホルンの強みは「安定感」だった。一日に大量撃墜するタイプではなく、毎回確実に1〜2機を仕留めて帰還する。その積み重ねが301機という数字になった。

戦後はソ連の捕虜となり、1950年に帰還。西ドイツ空軍で将軍まで昇進したが、1983年に自動車事故で死去。享年64歳。


第1位:エーリッヒ・ハルトマン(ドイツ)──352機撃墜

352機。

この数字は、人類の航空戦史上、空前絶後の記録である。後にも先にも、これに近づいたパイロットすら存在しない。2位のバルクホルンとは50機以上の差がある。

エーリッヒ・アルフレート・ハルトマンは1922年、ドイツ南部ヴァイスバッハに医師の子として生まれた。母親はドイツ初の女性パイロットの一人で、グライダークラブも設立していた。

この環境が彼の運命を決めた。14歳で滑空免許、15歳で教官資格を取得。生まれながらの空の申し子だった。

1942年、航空士官学校を卒業して東部戦線に配属される。最初の出撃で僚機を見失い、燃料切れで不時着するという失態を演じた。上官からの評価は「有能だが組織に馴染めない」。

しかし実戦を重ねるうちに、ハルトマンは独自の戦法を編み出した。

「接近して撃つ」──これがハルトマンの基本だった。敵機に50メートルまで接近し、確実に仕留める。遠距離からの射撃は命中率が低い。弾薬を無駄にするより、リスクを冒してでも接近する。

「一撃離脱」──格闘戦には深入りしない。一度攻撃したら即座に離脱し、上空から再度アプローチする。

1943年7月7日、100機撃墜を達成。1944年8月24日には300機撃墜に到達し、柏葉・剣・ダイヤモンド付騎士鉄十字章を授与された。この時まだ22歳。

1945年5月8日の終戦時、ハルトマンの記録は352機に達していた。1,400回以上出撃し、800回以上の空戦を経験。自身も16回撃墜されたが、一度も負傷しなかった。

さらに驚くべきは、彼が率いた僚機のパイロットを一人も失わなかったことだ。ハルトマンは自分の撃墜数より、このことを誇りにしていた。「僚機を撃ち落とされたら負けである」──それが彼の哲学だった。

戦後、ハルトマンはソ連軍に捕らえられ、10年半の強制収容所生活を送った。スターリンの死後、1955年にようやく帰還。西ドイツ空軍に入隊し、ジェット戦闘機部隊の指揮官を務めた。

1993年9月20日、71歳で死去。彼の352機という記録は、おそらく永遠に破られることはないだろう。

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【後編】大日本帝国が誇るエースパイロットたち

お待たせした。ここからは我が日本が誇るエースパイロットたちを詳しく紹介していく。

ドイツ空軍の撃墜数に比べれば数字は見劣りするかもしれない。だが、彼らが戦った環境を考えれば、その価値は決して劣らない。いや、むしろ「よくぞ生き残った」と言うべきだろう。

防弾装備のない零戦。広大な太平洋。一度墜落すれば帰還の望みはない。そんな絶望的な状況で、彼らは大空のサムライとして戦い抜いた。


岩本徹三(日本海軍)──202機撃墜(自称)/ 80機(研究者推定)

日本海軍航空隊が誇る最強のエース。「零戦虎徹」の異名を持つ男。

岩本徹三は1916年、樺太国境近くで警察官の父のもとに生まれた。海軍を志し、1934年に呉海兵団に入団。航空母艦勤務を経て、1936年に第34期操縦練習生を卒業した。

1938年2月25日、日中戦争の中国戦線で初陣を迎える。この日、岩本は4機の敵機を撃墜した。初陣で4機。これが岩本徹三という男だった。

日中戦争では14機の撃墜を公認され、下士官としては異例の金鵄勲章を授与されている。

太平洋戦争開戦時、岩本は空母瑞鶴の戦闘機隊に所属していた。真珠湾攻撃では母艦上空の直衛任務につき、珊瑚海海戦でも瑞鶴を守り抜いた。史上初の空母決戦で、次々と襲い来る敵の雷撃機、爆撃機を片っ端から撃ち落とした。

珊瑚海海戦については珊瑚海海戦を徹底解説|世界初の空母決戦が変えた太平洋戦争の流れで詳しく解説している。

1943年11月、岩本は南方の最前線ラバウルに現れた。

ラバウル──ニューブリテン島に位置するこの基地を、連合軍パイロットは「龍の顎(ドラゴン・ジョーズ)」と呼んで恐れた。龍の顎に似た地形と、そこから飛び立つ零戦隊の精鋭が待ち構えていたからだ。

当時、物量で勝るアメリカ軍は連日数百機単位の編隊で来襲した。迎え撃つ日本軍は、性能で劣る零戦30機程度。人員の交代も機材の補給も滞りがちな、まさに絶望的な状況だった。

岩本はここでトップエースとなった。

彼の戦法は独特だった。ドッグファイトには参加せず、高度を取って上空を遊弋する。敵機を発見するや急降下し、50メートルまで接近して一撃。そのまま下方に抜けて上昇し、また別の敵機を狙う。

「敵が来る時は退いて敵の引き際に落とすんだ。すでに里心ついた敵は反撃の意思がないから楽に落とせるよ」

同僚の西沢広義はこれを「ずるい」と評したが、岩本は意に介さなかった。「俺が落とさなくちゃ、奴ら基地まで帰るだろ?」

ラバウル航空隊についてはガダルカナル島の戦いとは?「餓島」で2万人が散った太平洋戦争の転換点を徹底解説でも触れている。ソロモン諸島をめぐる死闘の中で、ラバウルは日本軍の最前線基地として機能していた。

岩本機の胴体後部には、撃墜数を示す桜のマークが描かれていた。それが増えすぎて、遠目には機体がピンク色に見えたという。

岩本は特攻にも反対した。

「我々戦闘機乗りはどこまでも戦い抜き、敵を一機でも多く叩き落とすのが任務じゃないのか。一回きりの命中で死んでたまるか」

下士官でありながら上官に堂々と反論する。長髪を貫き、連日飲み歩く。泥酔しながらの出撃もあったという。しかし誰も咎めなかった。それだけの実績があったからだ。

背中には「天下の浪人 零戦虎徹」と書かれたライフジャケット。岩本徹三という男の生き様そのものだった。

本土防空戦を戦い抜いて終戦を迎えた岩本だったが、戦後は不遇だった。GHQに呼び出されて尋問を受け、公職追放となった。日本開拓公社に入社して北海道の開拓に向かうも、心臓を病んで帰郷。

空の生活から地上の生活に馴染めず、心のはけ口をアルコールに求めた。益田土木事務所、畑仕事、鶏の飼育、駅前の菓子問屋と職を転々とした。

1955年、39歳で死去。病床で大学ノート3冊に日中戦争から敗戦までの足跡を克明に記録し、巻末に撃墜数一覧を残した。総撃墜数202機。

研究者の秦郁彦は岩本の撃墜数を80機前後と推定している。空戦での誤認は多く、202機という数字がそのまま正しいとは言い切れない。

しかし、日中戦争から終戦まで8年間、第一線で戦い続けたエースは岩本以外にいない。その事実だけで、彼が日本海軍最強のパイロットの一人だったことは疑いない。

岩本の自伝『零戦撃墜王 空戦八年の記録』(光人社NF文庫)は、彼の戦いを克明に記した貴重な記録だ。戦史ファンなら必読の一冊である。


坂井三郎(日本海軍)──64機撃墜(自称)/ 28機(公認)

「大空のサムライ」──この名を知らぬ者はいないだろう。

坂井三郎は、日本のエースパイロットの中で最も有名な存在だ。著書『大空のサムライ』は世界中でベストセラーとなり、映画化もされた。百田尚樹の小説『永遠の0』にも、坂井三郎をモデルにしたと思われる人物が登場する。

1916年、佐賀県に生まれた坂井は、決して恵まれた環境ではなかった。父が早逝し、一家は困窮。青山学院中等部に進学するも成績不振で退学処分となった。

1933年、海軍に入隊。操縦練習生を経て戦闘機パイロットとなり、日中戦争に参加。太平洋戦争開戦時は台南海軍航空隊に所属し、フィリピン攻撃に参加した。

1942年8月7日、ガダルカナル攻撃に参加した坂井は、人生を変える出来事に遭遇する。

敵機と交戦中、連装機銃の集中砲火を浴びて被弾。頭部を負傷し、左半身が麻痺。右目は負傷で視力を失い、左目の視力も低下した。

場所は上空。普通なら墜落して終わりだ。

しかし坂井は諦めなかった。動かない体と、よく見えない視界の中で、無意識に機体を水平飛行に回復させた。そして約4時間かけてラバウルまで戻った。

着陸時、正常な操縦はできなかった。降下角と進入速度のみをコントロールし、椰子の木と同じ高さになった時にエンジンを切る──そんな方法で機体を滑り込ませた。

重傷を負った坂井は内地に搬送され、奇跡的に回復。右目の視力は戻らなかったが、戦線に復帰した。硫黄島での戦いにも参加している。

硫黄島の戦いについては【完全解説】硫黄島の戦いをわかりやすく – 栗林中将が米軍を震撼させた36日間の死闘で詳しく解説している。

坂井の撃墜数は自称64機。公認撃墜数は28機とされるが、日本軍は部隊戦績として記録していたため正確な数字は分からない。

しかし数字以上に、坂井が残した功績がある。

戦後、坂井は著作を通じて零戦という飛行機の存在と活躍を世界に伝えた。『大空のサムライ』は英語でも出版され、アメリカでもベストセラーとなった。

かつての敵国アメリカのエース協会(撃墜5機以上)は、坂井を正規メンバーとして認めた。戦争で戦った相手にも敬意を払うフェアプレイ精神。坂井もまた、そうした態度でアメリカ人と接した。

2000年9月22日、厚木基地で行われた米海軍西太平洋艦隊航空司令部50周年記念の祝賀夕食会。坂井は来賓として招かれ、自らの人生について語った。食事を終えた後、体調不良を訴え、帰らぬ人となった。享年84歳。

「零戦の時代」の終わりを感じさせる出来事だった。

零戦については最強と謳われた零戦の真実——21型から52型へ、連合軍を恐怖させた日本の戦闘機の光と影で詳しく解説している。

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穴吹智(日本陸軍)──51〜53機撃墜(報告)/ 30機(研究者推定)

海軍のエースを紹介してきたが、陸軍にも優れたパイロットがいた。

穴吹智は「ビルマの桃太郎」「白色電光戦闘穴吹」と呼ばれた陸軍のエースだ。主に一式戦闘機「隼」を駆り、ビルマ戦線でイギリス空軍やアメリカ陸軍航空軍と戦った。

1921年、香川県に生まれた穴吹は、1938年に陸軍少年飛行兵として東京陸軍航空学校に入校。1941年3月に戦闘機操縦者として飛行第50戦隊に配属された。

太平洋戦争開戦時、穴吹は九七式戦闘機でフィリピン攻略戦に参加。1941年12月22日、リンガエン上空でP-40を撃墜し、初戦果を挙げた。

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1942年4月、第50戦隊は隼一型に機種改編。穴吹は愛機に自身の姓から「吹雪」号と名付けた。ビルマ戦線に展開し、イギリス軍のハリケーン、スピットファイア、アメリカ軍のP-38、P-40と交戦した。

1943年10月8日、穴吹は「君風」号(妻の名前「君子」から命名)でP-38を2機撃墜。さらにB-24爆撃機に体当たりを敢行し、これを撃墜した。自機も大破したが、不時着して生還。「運の穴吹」の異名はここから来ている。

体当たりして敵機を落とし、自分も生き残る。尋常ではない幸運と技量だ。

1944年2月、穴吹は明野陸軍飛行学校の助教として内地に帰国。ビルマ人留学生らの操縦教育を担当した。その後、四式戦闘機「疾風」でルソン島への空輸任務中、台湾上空でF6Fを4機撃墜。終戦までは五式戦闘機でB-29迎撃にも参加した。

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穴吹の総撃墜報告数は51〜53機。研究者による戦後の調査では30機と推測されている。

戦後、穴吹は警察予備隊に入隊。陸上自衛隊でヘリコプター操縦者としても活躍し、東北方面ヘリコプター飛行隊長などを歴任。1971年に2等陸佐で退官した。その後は日本航空に入社し、1984年に退職。2005年6月に死去した。

大日本帝国のエースパイロットが、戦後の自衛隊でも空を飛び続けた。穴吹智の人生は、日本の航空史そのものだった。


杉田庄一(日本海軍)──70〜120機撃墜

「空戦の神様」と呼ばれた男。

杉田庄一は1924年、新潟県に生まれた。1941年に予科練に入隊し、翌年に実戦部隊へ。ラバウルの第204海軍航空隊に配属された。

杉田の伝説は、訓練中の出来事から始まる。偶然遭遇したB-17に対し、杉田は体当たりで撃墜した。これが204空によるB-17初撃墜となった。

1943年4月18日、杉田は山本五十六連合艦隊司令官が搭乗した一式陸攻の護衛に任じた零戦6機の一人だった。アメリカ軍のP-38による待ち伏せ攻撃で山本長官は戦死。この痛恨の出来事が、杉田をさらに戦闘に駆り立てた。

負傷して帰国したが、傷が癒えると再び南方へ。そして第343海軍航空隊に配属され、紫電改の操縦桿を握ることになった。

紫電改については紫電・紫電改とはどんな戦闘機?性能・零戦との比較/343空の実戦記録・展示館・模型まで解説で詳しく解説している。

第343海軍航空隊は、日本海軍が最後に編成したエース部隊だった。紫電改という優秀な機体と、歴戦のパイロットを集めた精鋭部隊。杉田はその中でも「空戦の神様」と呼ばれた。

女子高生から贈られた紫色のマフラーには、「ニッコリ笑へばかならず墜とす」の刺繍が施されていた。杉田のキャッチフレーズだった。

空戦技の指導が上手く、後輩たちに丁寧に教えた。初期からの日本軍パイロットには珍しく、編隊空戦を重視していた。

1945年4月15日、鹿屋基地でスクランブル発進の滑走中、F6Fヘルキャットに襲われて墜落。享年20歳。

離陸前に撃たれるという、戦闘機乗りとしては最も不本意な死だった。総撃墜数は70機とも120機とも言われる。


その他の日本軍エースたち

紙幅の関係で詳しく紹介できなかったエースたちを列挙しておこう。

西沢広義──87機(公認)。第11位で既に紹介した「ラバウルの魔王」。

太田敏夫──34機撃墜。坂井三郎、西沢広義とともに「台南空の三羽烏」と呼ばれた。

笹井醇一──27機撃墜。台南空の中隊長として坂井らを率いた。

赤松貞明──27機以上撃墜。「海軍の古豪」と呼ばれた。

黒江保彦──51機撃墜。陸軍のエースで、ノモンハン事件から太平洋戦争まで戦い抜いた。

上坊良太郎──26機撃墜。二式戦闘機「鍾馗」を駆った陸軍エース。

鍾馗については鍾馗(Ki-44)とは? 曲がらない。だから、上がる。本土防空に命を懸けた二式単座戦闘機を設計・戦術・歴史・比較・展示・模型まで徹底解説で詳しく解説している。


エースパイロットの「見越し射撃」──なぜ彼らは当てられたのか

ここで少し技術的な話をしよう。

空中戦で敵機を撃墜するのは、想像以上に難しい。「見越し射撃」という技術が必要だからだ。

高速で旋回する敵機に向けて弾を撃つ。しかし、弾が届く頃には敵機は移動している。だから「今いる場所」ではなく「数秒後にいる場所」を予測して撃たなければならない。

しかも自機も旋回している。旋回によって体には4〜5Gの遠心力がかかり、顔が歪むほどの負荷を受ける。その中で瞬時に計算を行い、何もない空間に弾を送り込む。

マルセイユはこの技術の達人だった。無駄弾を使わず、出撃のたびに弾を残して帰還したという。

坂井三郎は「空戦の戦果なんて、まぁほとんど誤認です」と語った。つまり、当てたと思っても実際には当たっていないことが多い。

逆に言えば、確実に撃墜を重ねたエースたちは、この「見越し射撃」を極めていたのだ。

エースになるためには、十分な飛行訓練が必要だった。坂井三郎によれば、操縦時間700〜800時間で戦闘機操縦法ができ、1,000時間でベテランの域に入る。このクラスからエースが生まれるという。

しかし戦争末期の日本では、操縦時間100時間程度で実戦に投入されるパイロットもいた。真っ直ぐ飛ぶことしかできないレベルだ。そんな新人が、歴戦のアメリカ軍パイロットと戦えるはずがなかった。

ドイツでも同様だった。1942年の補充兵ハルトマン以降の世代からは、200機超えのエースは生まれていない。「充分な操縦時間」が間に合った最後の世代だったのだ。


現代に蘇るエースパイロットたち──手元に置ける「伝説」

さあ、ここからが諸君に最も伝えたいことだ。

彼らの伝説を「知識」として終わらせてはもったいない。現代の我々には、彼らの乗機を「形」として手にする方法がある。

プラモデルで再現する大空の死闘

タミヤ、ハセガワ、エデュアルドなど、各社から第二次世界大戦の戦闘機キットが発売されている。

タミヤ 1/48 傑作機シリーズ「メッサーシュミット Bf109E-4/7 Trop」──マルセイユの「アフリカの星」を再現するならこれだ。北アフリカ仕様の迷彩塗装は、砂漠の空を駆けた英雄を彷彿とさせる。デカールでマルセイユ機を再現できるバリエーションもある。

ハセガワ 1/48「メッサーシュミット Bf109G-6」──ハルトマンの愛機を再現するならG型だ。東部戦線の白い冬季迷彩を施せば、352機撃墜の「ブービ」(ハルトマンのあだ名)が蘇る。

タミヤ 1/48「三菱 零式艦上戦闘機 二一型」──岩本徹三、坂井三郎、西沢広義。日本海軍のエースたちの愛機だ。胴体後部に桜のマークを描き込めば、ラバウル航空隊のトップエース機が完成する。

ハセガワ 1/72「中島 一式戦闘機 隼」──穴吹智の「吹雪」号を再現するならこれだ。ビルマ戦線の濃緑色迷彩と、垂直尾翼の撃墜マークが映える。

プラモデルの魅力は、自分の手で組み上げることで「所有感」が生まれることだ。塗装一つとっても、史実を調べ、当時の状況を想像しながら仕上げる。完成した時の達成感は、完成品を買うのとは比較にならない。

映画で追体験する空戦の迫力

エースパイロットを題材にした映画も数多い。

『撃墜王 アフリカの星』(1957年・ドイツ)──マルセイユの生涯を描いた伝記映画。実機のメッサーシュミット(スペイン製のライセンス生産型)が登場し、モノクロながら迫力ある空戦シーンが展開される。テーマ曲「アフリカの星のボレロ」は名曲として今も愛されている。U-NEXTやAmazon Prime Videoで視聴可能だ。

『空軍大戦略(バトル・オブ・ブリテン)』(1969年・イギリス)──バトル・オブ・ブリテンを描いた大作。スピットファイア、ハリケーン、メッサーシュミットBf109の実機が大量に登場する。ドイツ空軍のエースたちが登場するシーンもあり、当時の空戦を知る上で必見の映画だ。

『トラ・トラ・トラ!』(1970年・アメリカ/日本)──真珠湾攻撃を日米両国の視点から描いた大作。零戦の活躍と、日本海軍航空隊の実力を知ることができる。

『永遠の0』(2013年・日本)──百田尚樹の小説を映画化。零戦パイロットの生き様を描き、岩本徹三をモデルにしたとも言われる主人公が登場する。

これらの映画を観れば、エースパイロットたちが戦った空の迫力を追体験できる。配信サービスで手軽に観られる時代だ。ぜひ週末の夜に、大画面で堪能してほしい。

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書籍で深く知るエースの人生

『大空のサムライ』坂井三郎著(光人社NF文庫)──日本で最も有名なエースパイロットの自伝。世界中でベストセラーとなった名著で、零戦搭乗員の生活と戦いを生々しく描いている。これを読まずしてエースを語ることはできない。

『零戦撃墜王 空戦八年の記録』岩本徹三著(光人社NF文庫)──日本海軍最強のエースが病床で書き残した回想録。202機撃墜の詳細と、ラバウルでの壮絶な戦いが克明に記されている。坂井三郎とは対照的な、野武士のような生き様が心に刺さる。

『蒼空の河 穴吹軍曹「隼」空戦記録』穴吹智著(光人社NF文庫)──陸軍エースの自伝。ビルマ戦線での隼による空戦と、体当たり撃墜の詳細が語られる。続編もあり、合わせて読むと穴吹の全貌が分かる。

『撃墜王列伝 大空のエースたちの生涯』鈴木五郎著(光人社NF文庫)──世界各国のエースパイロットを網羅的に紹介した一冊。ハルトマン、マルセイユから日本のエースまで、比較しながら読める。

これらの書籍は、Amazonで容易に入手できる。電子書籍版もあるので、通勤時間に読むのも良いだろう。


まとめ:撃墜数を超えた「エースの本質」とは

長い記事を最後まで読んでくれた諸君に感謝する。

第二次世界大戦のエースパイロットたち。ハルトマンの352機、マルセイユの158機、岩本徹三の202機。数字は確かに圧倒的だ。

しかし、真のエースは数字だけで測れない。

ハルトマンは「僚機を撃ち落とされたら負けである」と語り、率いたパイロットを一人も失わなかったことを誇りにした。

坂井三郎は重傷を負いながら4時間飛び続けて帰還し、その経験を後世に伝えた。

岩本徹三は特攻に反対し、「戦闘機乗りは戦い抜くのが任務」と言い切った。

彼らに共通するのは「プロフェッショナリズム」だ。自分の仕事に誇りを持ち、最後まで戦い抜く。数字は結果に過ぎず、その過程に本当の価値がある。

そして、敵味方を超えた「戦士としての敬意」もまた、エースたちに共通していた。マルセイユは撃墜した敵パイロットの墓を作り、手紙を投下した。坂井三郎はアメリカのエース協会に認められ、晩年までアメリカ軍関係者と交流した。

戦争は悲劇だ。しかし、その中で全力を尽くした人間の姿には、時代を超えて心を打つものがある。

彼らの乗機を手元に置き、映画を観て、書籍を読む。それは単なる「趣味」ではない。歴史を「自分事」として所有する行為だ。

さあ、諸君も大空の伝説を手に入れよう。


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