フォークランド紛争はなぜ”現代海戦の教科書”になったのか|シーハリアーとエグゾセが暴いた艦隊の弱点

フォークランド紛争はなぜ"現代海戦の教科書"になったのか|シーハリアーとエグゾセが暴いた艦隊の弱点

1982年5月4日、南大西洋。イギリス海軍の駆逐艦「シェフィールド」の艦橋で、見張りが水平線の近くに白い煙を見つけた。それが何かを確かめる間もなく、低空を這うように飛んできた一発のミサイルが、艦の右舷に突き刺さった。

アルゼンチン海軍の攻撃機シュペル・エタンダールが放った、フランス製の対艦ミサイル「エグゾセ」だった。シェフィールドは炎に包まれ、数日後に沈んだ。第二次世界大戦のあと、イギリス海軍の軍艦がミサイルで沈められたのは、これが初めてだった。

最新鋭の駆逐艦が、たった一発のミサイルと、それを撃つ一機の攻撃機に沈められた。このニュースは、世界中の海軍に衝撃を与えた。

フォークランド紛争は、わずか74日間の戦争だった。でも、この短い戦争は、ミサイルの時代の海戦がどういうものかを、実戦で世界に見せつけた。対艦ミサイル、垂直に離着陸する戦闘機、原子力潜水艦、そして地球の裏側まで部隊を送り届ける兵站。今の海軍が抱える課題の多くは、この戦争ですでに姿を現していた。

この記事は、フォークランド紛争の全体像を追いながら、なぜこの戦争が「現代海戦の教科書」と呼ばれるのかを考える。そして最後に、同じ島国として、日本と自衛隊がここから何を学べるのかも書いておきたい。

目次

30秒でわかるフォークランド紛争

日付(1982年) 出来事
4月2日 アルゼンチン軍がフォークランド諸島に上陸、占領
4月5日 イギリスの機動部隊(空母ハーミーズ、インヴィンシブルなど)が本国を出港
4月25日 イギリス軍がサウスジョージア島を奪回
5月1日 イギリス空軍のバルカン爆撃機がスタンリー空港を爆撃(ブラック・バック作戦)
5月2日 イギリスの原子力潜水艦がアルゼンチンの巡洋艦ヘネラル・ベルグラーノを撃沈
5月4日 駆逐艦シェフィールドがエグゾセで被弾
5月21日 イギリス軍がサン・カルロスに上陸
5月25日 輸送船アトランティック・コンベアーがエグゾセで被弾
5月28〜29日 グース・グリーンの戦い
6月14日 スタンリーのアルゼンチン軍が降伏

そもそも、なぜ戦争になったのか

南大西洋の小さな島をめぐる、150年の対立

フォークランド諸島は、南アメリカ大陸の南端から500キロほど沖の南大西洋に浮かぶ島々だ。当時の住民は2,000人に満たず、多くは羊を飼って暮らしていた。

この島は、1833年からイギリスが支配してきた。一方のアルゼンチンは、島を「マルビナス諸島」と呼び、スペインから独立したときに受け継いだ自国の領土だと主張し続けてきた。アルゼンチンの人々にとって、マルビナスの返還は、長年の国民的な悲願だった。

軍事政権の賭け

1982年当時、アルゼンチンを支配していたのは、ガルティエリ大統領を中心とする軍事政権だった。国内では経済が悪化し、物価は激しく上がり、政権への不満が高まっていた。

軍事政権は、マルビナスを取り戻せば国民の支持を一気に集められると考えた。そして、イギリスは地球の裏側の小さな島のために、本気で戦争はしないだろう、と読んだ。

イギリスが出していた「弱気のサイン」

アルゼンチンがそう読んだのには、理由があった。

当時のイギリスは財政難で、国防費の大幅な削減を進めていた。1981年の国防見直しでは、海軍の水上艦を大きく減らし、空母インヴィンシブルをオーストラリアに売る話まで進んでいた。南大西洋で島の周りを見張っていた砲艦も、引き揚げる予定になっていた。

アルゼンチンの軍事政権は、こうした動きを、イギリスがもう南大西洋を守る気がないというサインだと受け取った。抑止とは、相手に「この国は本気で守る」と思わせることだ。イギリスの国防費の削減は、図らずも、その抑止を弱めてしまったのだ。

ここは、防衛費の議論をするときに、ぜひ覚えておいてほしいところだ。防衛費を削ることは、その金額以上に、相手に「隙がある」と思わせるメッセージになりうる。

イギリスの決断:12,000キロ先への遠征

空母ハーミーズとフリゲートのブロードソード。1982年。
空母ハーミーズとフリゲートのブロードソード。1982年。 Royal Navy official photographer / IWM / OGL v1.0(ライセンス)

サッチャーの選択

1982年4月2日、アルゼンチン軍はフォークランド諸島に上陸し、わずかなイギリス海兵隊の守備隊を降伏させた。

このとき、イギリスの首相はマーガレット・サッチャーだった。政府の中には、遠すぎる、勝てるかわからない、という慎重な声もあった。それでもサッチャーは、島を取り戻すために機動部隊を送ることを決めた。わずか3日後の4月5日、空母ハーミーズとインヴィンシブルを中心とする機動部隊が、イギリス本国を出港した。

地球の裏側への兵站

イギリス本国からフォークランドまでは、およそ12,000キロ以上ある。東京からだと、南米を通り越すほどの距離だ。しかも、途中にイギリス軍が使える大きな基地はほとんどない。

イギリスが頼ったのは、大西洋の真ん中に浮かぶ小さな島、アセンション島だった。イギリス本国とフォークランドのほぼ中間にあるこの島の飛行場が、兵站の中継点になった。それでも、アセンション島からフォークランドまで、さらに6,000キロ以上ある。

足りない輸送力を補うために、イギリスは民間の船を大量に徴用した。豪華客船の「キャンベラ」や「クイーン・エリザベス2」が兵員輸送船になり、コンテナ船やタンカー、フェリーまでもが、物資や燃料、ヘリコプターを運んだ。民間の船がなければ、この遠征は成り立たなかった。

ここに、この戦争の一つ目の教訓がある。遠く離れた島を守るには、軍艦だけでなく、それを支える膨大な輸送力が要る。そして、その輸送力の多くは、平時には民間の手にある。

フォークランド紛争の主な兵器

1982年6月、排他水域内を航行するインヴィンシブル。
1982年6月、排他水域内を航行するインヴィンシブル。 Ken Griffiths / CC BY-SA 4.0(ライセンス)

技術好きとして、この戦争に登場した主な兵器を一覧にしておく。

側 兵器 役割・ポイント
イギリス シーハリアーFRS.1 空母の艦上戦闘機。空中戦で撃墜されずに約20機を撃墜したとされる
イギリス ハリアーGR.3 空軍の攻撃機。空母から地上攻撃に出撃
イギリス AIM-9Lサイドワインダー アメリカ製の空対空ミサイル。正面からも狙える
イギリス 原子力潜水艦コンカラー ベルグラーノを撃沈。アルゼンチン海軍を港に閉じ込めた
イギリス 42型駆逐艦 艦隊防空の駆逐艦。シェフィールドとコヴェントリーが失われた
イギリス 22型フリゲート 近距離の対空ミサイル「シーウルフ」を積み、低空の敵機の迎撃に活躍した
イギリス バルカン爆撃機 ブラック・バック作戦で6,000キロ以上を飛んで爆撃
アルゼンチン シュペル・エタンダール フランス製の攻撃機。エグゾセの発射母機
アルゼンチン エグゾセAM39 フランス製の空中発射型対艦ミサイル。数発で大きな戦果
アルゼンチン A-4スカイホーク アメリカ製の攻撃機。低空からの爆撃でイギリス艦を苦しめた
アルゼンチン ミラージュIII・ダガー 戦闘機・攻撃機。本土から遠く、島の上空で戦える時間が短かった
アルゼンチン 巡洋艦ヘネラル・ベルグラーノ もとは米海軍の巡洋艦。イギリスの原潜に撃沈された
要点

外交の戦い:アメリカの仲介と、エグゾセをめぐる攻防

機動部隊が南へ向かっているあいだ、もう一つの戦いが外交の舞台で続いていた。

開戦の翌日、国連の安全保障理事会は、アルゼンチン軍の即時撤退を求める決議502を採択した。イギリスは、国際法の上での正当性を早い段階で確保したのだ。ヨーロッパ共同体(今のEUの前身)も、アルゼンチンに経済制裁を科した。

アメリカは当初、イギリスとアルゼンチンの両方と良い関係にあったため、仲介に乗り出した。国務長官のヘイグが、ロンドンとブエノスアイレスのあいだを何度も行き来して、妥協の道を探った。でも、島からの撤退を拒むアルゼンチンと、撤退を譲れないイギリスの溝は埋まらず、仲介は失敗に終わる。その後、アメリカははっきりとイギリス支持に回り、AIM-9Lミサイルや燃料、情報の提供で、イギリスの戦いを裏で支えた。

南米の隣国チリも、アルゼンチンとのあいだに国境の争いを抱えていたことから、目立たない形でイギリスに協力したと言われる。

そして、エグゾセをめぐる攻防もあった。エグゾセをつくったのはフランスの企業だったが、フランス政府は同盟国のイギリスを支持し、アルゼンチンへのエグゾセの追加の引き渡しを止めた。アルゼンチンは、闇の市場も含めて世界中でエグゾセを買い集めようとしたが、イギリスの情報機関がその動きを妨害したと言われている。アルゼンチンが手にできたエグゾセが5発ほどにとどまったのは、こうした外交と情報の戦いの結果でもあった。

もしアルゼンチンが、エグゾセをあと十数発持っていたら、イギリスの空母が狙われていた可能性もある。空母を一隻失えば、遠征そのものが続けられなくなっていたかもしれない。戦場の外の戦いが、戦場の結果を左右したのだ。

最初の反撃:サウスジョージア島の奪回

機動部隊の本隊が到着する前に、イギリスはまず、フォークランドのさらに東にあるサウスジョージア島を取り戻した。

4月25日、島の近くにいたアルゼンチン海軍の潜水艦サンタ・フェを、イギリスの艦載ヘリコプターが攻撃し、損傷させた。潜水艦は港に逃げ込んで動けなくなり、その日のうちに島のアルゼンチン軍は降伏した。

小さな作戦だったが、この勝利は、イギリス国内の士気を大きく高めた。ヘリコプターが潜水艦を追い詰めたという点でも、この戦争らしい新しい戦い方の一つだったと思う。

空の戦い:シーハリアーという「奇跡」

たった20機ほどの、垂直に降りる戦闘機

イギリスの機動部隊の空を守ったのは、空母に積まれたシーハリアーだった。

シーハリアーは、滑走路がなくても、短い距離で飛び立ち、垂直に降りることができる戦闘機だ。エンジンの噴射の向きを変えることで、空中で止まったり、真上に上がったりできる。だから、大型の空母でなくても、小さな空母から運用できた。

ただ、性能だけを見れば、シーハリアーは決して強い戦闘機ではなかった。音速を超えることはできず、レーダーも小さく、空母に積めた数も、紛争が始まったときには20機ほどしかなかった。相手のアルゼンチン空軍は、フランス製のミラージュや、アメリカ製のスカイホークなど、100機を超える戦闘機や攻撃機を持っていた。

それでも、空中戦で一機も落とされなかった

ところが、結果は驚くべきものだった。シーハリアーは、この紛争の空中戦で、アルゼンチン軍の航空機を20機ほど撃墜し、空中戦で撃墜されたシーハリアーは一機もなかったとされる。対空砲火や事故で失われた機体はあったが、空の戦いそのものでは、ほぼ完勝だった。

なぜ、数でも性能でも劣るシーハリアーが勝てたのか。理由はいくつかある。

一つは、アメリカから提供された最新の空対空ミサイル、AIM-9Lサイドワインダーだ。それまでの赤外線誘導のミサイルは、敵機の後ろからでないと狙えなかったが、AIM-9Lは正面からでも狙えた。これが、空中戦の様相を大きく変えた。

もう一つは、距離だ。アルゼンチンの航空機の多くは、本土の基地から600キロ以上飛んできて戦わなければならなかった。燃料に余裕がなく、島の上空で戦える時間はほんのわずかだった。一方のシーハリアーは、すぐ近くの空母から飛び立てた。

そして、パイロットの訓練だ。イギリス海軍のパイロットたちは、NATOの演習で厳しい空中戦の訓練を積んでいた。

技術好きとして付け加えると、シーハリアーの垂直離着陸を可能にしたペガサスエンジンをつくったのは、イギリスのロールス・ロイスだ。この会社は今、GCAPのエンジン開発にも関わっている。ロールス・ロイスという企業についてはロールス・ロイス株の解説で書いた。ハリアーの系譜は、アメリカ海兵隊のハリアーIIにも受け継がれている。そちらはAV-8BハリアーIIの解説へ。

シーハリアーを自分の手で組み立ててみたいなら、模型店や公式通販で探してみてほしい。小さな空母の甲板に並ぶ姿は、この戦争の象徴だ。

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ブラック・バック作戦:6,000キロ先への爆撃

空の戦いで、もう一つ忘れられないのが、イギリス空軍のバルカン爆撃機による「ブラック・バック作戦」だ。

5月1日、アセンション島を飛び立ったバルカン爆撃機が、6,000キロ以上離れたフォークランドのスタンリー空港を爆撃した。この距離を飛ぶために、バルカンは空中で何度も給油を受けた。たった1機の爆撃機を往復させるために、10機を超える空中給油機が飛び立ったと言われる。

この爆撃で滑走路に与えた損害は限られていた。それでも、イギリス空軍がアセンション島からアルゼンチン本土まで届く力を持っていることを見せつけたことで、アルゼンチンは本土の防空のために戦闘機の一部を後方に残さざるを得なくなった、という見方もある。爆撃の効果より、相手の計算を狂わせる効果のほうが大きかったのかもしれない。

海の戦い:原潜とエグゾセ

カーディフの右舷側砲射撃指揮所。1982年。
カーディフの右舷側砲射撃指揮所。1982年。 Ken Griffiths (Griffiths911) / CC BY-SA 3.0(ライセンス)

原子力潜水艦が、敵の艦隊を港に閉じ込めた

5月2日、イギリスの原子力潜水艦「コンカラー」が、アルゼンチン海軍の巡洋艦「ヘネラル・ベルグラーノ」を魚雷で撃沈した。この攻撃で、ベルグラーノの乗員300人以上が亡くなった。

ベルグラーノは、イギリスが設定した島の周りの封鎖区域の外にいた。そのため、撃沈が正当だったかどうかは、戦後も長く議論になった。

ちなみに、このベルグラーノという艦には、日本と深いつながりがある。もとはアメリカ海軍の巡洋艦「フェニックス」で、1941年12月、日本軍の真珠湾攻撃のとき、真珠湾に停泊していながら大きな損害を受けずに生き延びた艦なのだ。戦後にアルゼンチンに売却されて名前を変え、それから40年あまりたって、南大西洋で沈むことになった。日本の攻撃を生き延びた艦が、イギリスの原潜の魚雷で沈む。歴史の巡り合わせを感じずにはいられない。

軍事的に見て大きかったのは、その後のアルゼンチン海軍の動きだ。ベルグラーノが沈められたあと、アルゼンチン海軍の水上艦の主力は、ほとんど港から出てこなくなった。いつ、どこから攻撃してくるかわからない原子力潜水艦の存在が、敵の艦隊を丸ごと戦場から締め出したのだ。

原子力潜水艦は、敵に見つかりにくく、長く潜っていられる。そこにいるかもしれない、と思わせるだけで、相手の行動を縛ることができる。この戦争は、その力をはっきりと示した。原子力潜水艦そのものについては原子力潜水艦の解説で書いている。

エグゾセ:一発のミサイルが艦を沈めた

一方、イギリス海軍を最も苦しめたのが、アルゼンチンのエグゾセだった。

アルゼンチンが持っていた、航空機から発射するタイプのエグゾセは、わずか5発ほどだったと言われる。それを、シュペル・エタンダールが海面すれすれの低空から撃ち込んだ。海面に近いところを飛ぶミサイルは、艦のレーダーに映りにくく、見つけたときにはもう目の前に迫っている。

5月4日、駆逐艦シェフィールドが被弾した。ミサイルの弾頭は爆発しなかったとも言われるが、残っていた燃料が燃え広がり、艦内の火災を止められなかった。20人が亡くなり、艦は数日後に沈んだ。

5月25日には、輸送船アトランティック・コンベアーがエグゾセ2発を受け、のちに沈んだ。この船には、部隊を運ぶための大型輸送ヘリコプターのチヌークが何機も積まれていた。そのほとんどが失われたことで、上陸した地上部隊は、重い装備を背負って島を徒歩で横断しなければならなくなった。ミサイル攻撃が、地上戦の進め方まで変えてしまったのだ。

対艦ミサイルの時代が来たことを、世界の海軍はこのとき思い知らされた。今の日本の対艦ミサイルについては、12式地対艦誘導弾の解説やASM-3Aの解説で書いている。

アルミの船は燃えやすい、という誤解

シェフィールドの沈没をめぐっては、「アルミニウムでできた船体が燃えたから沈んだ」という話がよく語られる。でも、これは正確ではない。

シェフィールドが属した42型駆逐艦は、船体も上部構造も鋼鉄でできていた。アルミニウムを上部構造に使っていたのは、同じ戦争に参加した21型フリゲートのほうだ。このアーデントやアンテロープといった21型が被弾して大きな被害を出したことから、アルミの上部構造の弱さが問題視されるようになった。

二つの話が混ざって、シェフィールドもアルミの船だったという誤解が広まったのだと思う。ただ、いずれにしても、この戦争のあと、軍艦の材料や燃えにくさについての考え方が大きく見直されたことは確かだ。

上陸と「爆弾通り」:サン・カルロスの戦い

サンカルロス湾のフリゲート、ペネロピ。1982年6月13日。
サンカルロス湾のフリゲート、ペネロピ。1982年6月13日。 Ken Griffiths / CC BY-SA 4.0(ライセンス)

5月21日、イギリス軍はフォークランド東島の西岸、サン・カルロスの入り江に上陸した。

アルゼンチン空軍は、ここに集まったイギリスの艦船に、連日のように低空からの攻撃を仕掛けた。入り江の上空は、イギリスの兵士たちから「爆弾通り」と呼ばれるようになる。フリゲートのアーデントやアンテロープが沈み、駆逐艦コヴェントリーも失われた。

ただ、ここで一つ、イギリスにとっての幸運があった。アルゼンチンの航空機が落とした爆弾の多くが、艦に命中しても爆発しなかったのだ。低空から投下したため、爆弾の信管が作動するまでの時間が足りなかったと考えられている。もし、それらの爆弾がすべて爆発していたら、イギリスの損害は何倍にもなっていた可能性がある。戦争の結果は、ときにこうした小さな技術的な要素で大きく変わる。

地上戦と降伏

1982年のポート・スタンリー沖に停泊するカーディフ。
1982年のポート・スタンリー沖に停泊するカーディフ。 Ken Griffiths (Griffiths911) / CC BY-SA 3.0(ライセンス)

上陸したイギリス軍は、島の中心の町スタンリーを目指して進んだ。5月28日から29日にかけてのグース・グリーンの戦いでは、空挺部隊が数で勝るアルゼンチン軍の陣地を攻め落とした。

チヌークを失った地上部隊は、冬に向かう南半球の荒れた土地を、重い装備を背負って何十キロも歩き続けた。そして6月に入ると、スタンリーを囲む山々の陣地をめぐって、夜の激しい戦いが繰り返された。

6月8日には、スタンリーへの前進のために兵を運んでいた揚陸艦サー・ガラハッドとサー・トリストラムが、フィッツロイの沖でアルゼンチン空軍の攻撃を受けた。とくにサー・ガラハッドでは、多くの兵士が艦の上で犠牲になった。上陸作戦の中で、兵を乗せた船が守られていないことが、どれほど危険かを示した悲劇だった。

6月14日、スタンリーのアルゼンチン軍が降伏した。開戦から74日。戦争は、イギリスの勝利で終わった。

この戦争で、イギリス軍は255人、アルゼンチン軍は649人が亡くなった。島の住民も3人が犠牲になっている。小さな島をめぐる戦争だったが、失われた命の数は、決して小さくなかった。

アルゼンチンでは、敗戦によって軍事政権が国民の信頼を失い、翌1983年に民政に移行した。一方のイギリスでは、勝利によってサッチャー政権の支持が大きく高まった。

アルゼンチン側から見た戦争

ここまでイギリスの側から見てきたが、アルゼンチンの側の事情も書いておきたい。

アルゼンチンの軍事政権の最大の誤算は、イギリスが本気で取り戻しに来るとは思っていなかったことだ。軍事政権は、島を占領すれば、イギリスは外交の交渉で折れるだろうと考えていた。ところが、サッチャーは即座に機動部隊を送り出した。準備のないまま戦争に突入したアルゼンチンは、島の守りを固める時間も、十分な兵站を整える時間も持てなかった。

島に送り込まれた地上部隊の多くは、徴兵されたばかりの若い兵士だった。南半球の冬に向かう寒く湿った島で、十分な装備も食料もないまま、イギリスの精鋭部隊を待ち受けることになった。

一方で、アルゼンチン空軍と海軍航空隊のパイロットたちの戦いぶりは、敵だったイギリス側からも高く評価されている。本土から遠く離れた島まで、燃料ぎりぎりで低空を飛び、対空砲火の中を何度も攻撃に向かった。爆弾の信管の問題がなければ、彼らの攻撃はイギリスに致命的な損害を与えていたかもしれない。

アルゼンチンの人々にとって、マルビナスは今も特別な場所だ。戦争で亡くなった兵士たちは国の英雄として追悼され、島の領有の主張も取り下げられてはいない。勝った側と負けた側で、同じ戦争の記憶は大きく違う。

なぜ「現代海戦の教科書」なのか:5つの教訓

ここからが、この記事の本題だ。フォークランド紛争が、なぜ今も世界中の海軍で研究され続けているのか。私は、大きく5つの教訓があると思っている。

教訓1:艦隊には「遠くを見る目」が要る

イギリスの機動部隊には、早期警戒機がなかった。空母が小さすぎて、アメリカの空母のようにE-2のような大型の早期警戒機を積めなかったからだ。

その結果、低空を飛んでくるアルゼンチンの攻撃機や、エグゾセを、ぎりぎりまで見つけられなかった。シェフィールドが被弾したのも、敵機の接近を早く知ることができなかったことが大きい。

イギリス海軍は、この教訓から、紛争中に急いでヘリコプターにレーダーを積んだ早期警戒ヘリを開発した。艦隊にとって、遠くを見る目がどれほど大事かを示した戦いだった。早期警戒機については早期警戒機ランキングやE-2Dの解説で書いている。

教訓2:最後の盾が要る

エグゾセのように、低空から高速で飛んでくるミサイルを、最後の瞬間に撃ち落とす武器が、当時のイギリスの艦には十分になかった。

この戦争のあと、世界の海軍は、近づいてくるミサイルを自動で狙って撃ち落とす近接防御火器システムを、艦に積むことを急いだ。アメリカのファランクスのような、艦の「最後の盾」だ。今の護衛艦の多くにも、こうした装備が積まれている。

一方で、この戦争では、近い距離で敵機を迎え撃つ艦対空ミサイルの有効性も示された。22型フリゲートが積んでいたシーウルフは、低空から突っ込んでくる攻撃機を何機も撃ち落としたとされる。遠くで敵を見つける目と、近くで敵を撃ち落とす盾。その二つがそろって初めて、艦隊はミサイルの時代を生き残れる、ということがはっきりしたのだ。

教訓3:被弾したあとの「生き残る力」

シェフィールドが沈んだ最大の理由は、ミサイルの爆発そのものより、そのあとに広がった火災だった。

この戦争のあと、世界の海軍は、艦の燃えにくさや、火災を食い止めるダメージコントロールの重要性を見直した。乗員の制服の素材が燃えにくいものに改められるなど、細かいところまで見直しが進んだと言われる。艦は、撃たれないことも大事だが、撃たれたあとに沈まないことも同じくらい大事なのだ。

教訓4:小さな空母と、垂直に降りる戦闘機の価値

イギリスの空母は、アメリカの巨大な空母に比べれば、ずっと小さかった。それでも、シーハリアーという垂直に降りられる戦闘機があったからこそ、イギリスは南大西洋で空を守ることができた。もし空母とシーハリアーがなければ、この遠征そのものが成り立たなかっただろう。

小さな空母でも、使い方次第で戦争の行方を左右できる。この教訓は、今の日本にもそのままつながっている。

教訓5:遠い島を守るのは、兵站だ

そして最後の、私が一番大事だと思う教訓が、兵站だ。

イギリスは、12,000キロ離れた島を取り戻すために、民間の船を大量に徴用し、アセンション島を中継点にして、膨大な物資と兵を送り続けた。この兵站がなければ、どんなに優れた兵器も戦場にたどり着けなかった。逆に、アトランティック・コンベアーという一隻の輸送船を失っただけで、地上戦の進め方まで変わってしまった。

この戦争でイギリスが徴用したり借り上げたりした民間の船は、数十隻にのぼったと言われる。客船、タンカー、コンテナ船、フェリー、漁船まで。そして、それらの船を動かしたのは、民間の船員たちだった。軍隊だけでは、遠い島の戦争はとても戦えない。国全体の力で支えて初めて、遠征は成り立つのだ。

大日本帝国ファンとして:イギリスにできて、日本にできなかったこと

ここで、少し昔の話をさせてほしい。

遠く離れた島をめぐる戦い、と聞いて、私がまず思い出すのは、太平洋戦争のガダルカナルだ。日本軍は、本土から遠く離れた南の島に部隊を送り込みながら、制海権と制空権を失い、補給を続けることができなかった。島に残された兵士たちは、敵の攻撃よりも、飢えと病気に苦しんだ。

フォークランドのイギリスと、ガダルカナルの日本。どちらも、遠い島での戦いだった。違いを分けたのは、兵站をどう組み立てたかだった、と私は思う。イギリスは、民間の船まで総動員して、送り出した部隊を最後まで支え続ける仕組みをつくった。そして、海と空の安全を確保してから、上陸に踏み切った。

もちろん、相手の強さや戦争の規模はまったく違うので、単純には比べられない。それでも、「遠い島を守るのは兵站だ」という教訓を、日本は40年前の太平洋戦争で、最も苦い形で学んでいたはずだった。日本軍の兵站の問題については日本軍の兵站はなぜ崩壊したのかの記事で詳しく書いている。

自衛隊ファンとして:フォークランドは、日本の未来の教科書でもある

フォークランド紛争を学ぶことは、日本にとって、ただの歴史の勉強ではないと私は思っている。

日本は、南西諸島という、本土から遠く離れた島々を守らなければならない。もし島が攻撃されたら、そこに部隊と物資を送り届け、支え続けなければならない。これは、まさにフォークランドでイギリスが直面した課題だ。

自衛隊は今、島々への輸送を担う部隊をつくり、民間のフェリーを有事の輸送に使う仕組みを整えている。そのあたりは自衛隊海上輸送群の解説で書いた。そして、護衛艦いずも型をF-35Bが運用できるように改修し、小さな空母として使う道を開いている。シーハリアーの子孫とも言えるF-35Bは、2021年に米海兵隊機がいずもで発着艦試験を行っている。いずも型についてはいずも型護衛艦の解説にまとめた。

早期警戒、対艦ミサイルへの備え、被弾したあとに沈まない艦、小さな空母、そして兵站。フォークランドで示された5つの教訓は、どれも今の自衛隊の課題そのものだ。

投資家目線:「実戦で証明された兵器」は売れる

整備台に固定したターボファンエンジンの点検
整備台に固定したターボファンエンジンの点検。

最後に、投資家として、この戦争で見えたもう一つの顔を書いておく。

フォークランド紛争のあと、エグゾセの名は世界中に知れ渡った。たった数発で、イギリスの最新鋭の駆逐艦と大型の輸送船を沈めたからだ。「実戦で効果が証明された兵器」は、兵器の市場で強い説得力を持つ。この戦争のあと、エグゾセを求める国が相次いだと言われる。

逆に、シーハリアーとその系譜のハリアーも、この戦争で名を上げた。そのエンジンをつくったロールス・ロイスや、イギリスの防衛産業を代表するBAEシステムズは、今も世界の防衛市場で大きな存在だ。BAEシステムズについてはBAEシステムズ株の解説で書いている。今のイギリス海軍の現役の艦艇はイギリス海軍の艦艇一覧で見渡せる。

戦争は、兵器にとって最も残酷な試験場でもある。実戦の結果は、そのまま各国の兵器の選び方を変え、防衛産業の売上を変える。ウクライナの戦場で、ドローンや対戦車ミサイル、防空システムの評価が世界の調達を大きく動かしているのも、40年前のフォークランドと同じ構図だ。防衛関連の企業を見るときには、その企業の製品が、実戦でどう評価されてきたかを知っておくことも、一つの手がかりになると思う。

※この章は防衛産業の構造を紹介するもので、特定の銘柄の売買を勧めるものではない。

よくある疑問に短く答える

フォークランド諸島は、今もイギリス領なのか

今もイギリスの海外領土だ。2013年には、島の住民がイギリスの領土であり続けるかどうかを問う住民投票が行われ、圧倒的多数がイギリスへの残留を選んだ。一方で、アルゼンチンは今も領有を主張し続けていて、両国のあいだの対立そのものは解決していない。戦争のあと、イギリスは島に大きな空軍基地を建設し、今も部隊を置いて守っている。

なぜイギリスは、たった74日で勝てたのか

一つではない。原子力潜水艦でアルゼンチン海軍を港に閉じ込めたこと、シーハリアーとAIM-9Lで空の戦いに勝ったこと、民間の船を総動員した兵站、そしてよく訓練された地上部隊。加えて、アメリカの支援と、アルゼンチンのエグゾセが少なかったことも大きかった。そのどれか一つでも欠けていれば、結果は違っていたかもしれない。

フォークランド紛争は「戦争」ではなく「紛争」なのか

日本ではフォークランド紛争と呼ばれることが多いが、イギリスでは「フォークランド戦争」と呼ばれるのが一般的だ。両国は正式に宣戦布告をしたわけではなかったが、実際には陸海空の全面的な戦闘が行われた。呼び方の違いは、この戦争をどう位置づけるかの違いでもある。

もっと深く知りたい人へ

書籍と地図を広げた読書机
回想録と別の記録を読み比べ、情報が届いた過程と使われた過程を分けて考える。

フォークランド紛争については、イギリス側、アルゼンチン側の両方から、参加した兵士や指揮官の回想や、詳しい戦史が数多く出ている。とくに、機動部隊を率いたイギリス海軍の指揮官の回想録は、遠征作戦の難しさがよくわかる一冊として知られている。

長い戦史の本を読む時間がないなら、耳で聴くのもいい。通勤のあいだに戦史を聴くようになってから、私の読書量はかなり増えた。

74日間の短い戦争は、40年以上たった今も、世界中の海軍の教科書であり続けている。海上自衛隊の幹部たちも、きっとこの戦争の記録を読み込んできたはずだ。島国の日本にとって、遠い島を守るとはどういうことか。その答えを知りたいなら、まずフォークランドから始めるのがいいと私は思う。

出典・参考資料

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軍研ノート編集部のアバター 軍研ノート編集部 自衛隊・兵器 / 戦史 / サバゲー

自衛隊で6年間勤務した編集長を中心に、自衛隊時代の仲間やサバゲーを通じた知人と記事を制作。経験と公開資料をもとに、装備の仕組みや歴史、その背景にある人々の工夫を掘り下げています。「かっこいい」から、その先の理解へ。編集長のプロフィール → 運営・編集方針

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