根本博とは|終戦後もソ連軍と戦って邦人4万人を逃がし、密航して台湾を守った将軍の生涯――「命令違反」で日本人を救った駐蒙軍司令官は、なぜ蒋介石の元へ行き、金門島で何をして、なぜ日本で忘れられたのか

根本博の記事表紙
要点

根本博。駐蒙軍司令官、陸軍中将。彼は降伏の後、大本営が止めろと言った戦闘を止めず、邦人が全員天津へ脱出するまでソ連軍とモンゴル軍を張家口の北で食い止めた。責任は自分が取る、と言って。

そしてこの人は4年後、漁船で日本を密航して台湾へ渡った。蒋介石の中華民国が大陸を失い、次は台湾が落ちると言われていた時期に、偽名を使って国民党軍の顧問になり、金門島で共産軍の上陸部隊が全滅した古寧頭戦役に関わった。台湾を救った日本人として、台湾では今も名前が出る。日本ではほとんど知られていない。

私はこの人物を、太平洋戦争の日本陸軍で「自分の判断で人を救った」数少ない将軍の一人として読んでいる。ただし台湾での話は、日本側で語られる姿と台湾側の記録にかなりの差があって、そこを盛らずに書くのがこの記事の仕事になる。

目次

根本博とは何者か、3分でつかむ

根本博とは何者か、3分でつかむ

1945年8月9日、ソ連が参戦した。満州の関東軍が崩れ、モンゴル方面からもソ連・モンゴル連合軍が南下してくる。張家口には軍人のほかに約4万人の日本人居留民がいた。8月15日に日本は降伏したが、ソ連軍は止まらない。根本は邦人を天津方面へ脱出させると決め、その間、張家口北方の丸一陣地で部隊に防衛を命じた。戦闘は8月19日から21日まで続き、邦人は全員が脱出し、部隊も撤収した。

8月19日には北支那方面軍司令官も兼任し、華北の日本軍の武装解除と引き揚げを国民党側と交渉する立場になった。1946年に帰国。

1949年、根本は日本を密航して台湾へ渡った。偽名は林保源。蒋介石の側近だった湯恩伯将軍の顧問として福建の厦門と金門島に入り、10月の古寧頭戦役で国民党軍が共産軍の上陸部隊を全滅させた戦いに関わった。1952年に帰国し、その後は公職に就かず、1966年5月に74歳で亡くなった。

中国屋の軍人:根本の来歴

大陸の駅と蒸気機関車
根本の軍歴は、中国での駐在や部隊勤務と深く結びついていた。

根本の判断を理解するには、彼が「中国屋」だったことを押さえておく必要がある。

日本陸軍には、ソ連を専門にする「ロシア屋」と、中国を専門にする「中国屋」がいた。根本は後者で、若い頃から中国駐在が長く、中国語を使い、国民党の軍人とも個人的なつながりがあった。1932年の上海事変の頃には上海の武官として現地にいて、日中の衝突を直接見ている。日中戦争が始まってからは、戦争を早く終わらせる側で動いた将校の一人でもあった。

1937年、日中戦争が始まった時点で根本は参謀本部の支那課長だった。この年の陸軍には、戦争を拡大させたい派と、ソ連に備えて中国とは早く手を打ちたい不拡大派の対立があり、石原莞爾が後者の中心にいた。根本もソ連を主敵と見る側で、中国との戦争が長引けば日本は消耗するだけだという考えを持っていた。だが戦争は拡大し、根本自身も支那派遣軍の参謀として8年間、その戦争の現場にいることになる。

この経歴が、1945年8月の判断と1949年の密航の両方につながっている。張家口では、国民党側と交渉して邦人の脱出ルートを確保する必要があった。根本はその交渉ができる人間だった。そして台湾に渡ったのは、蒋介石と湯恩伯という、彼が中国で長く付き合ってきた相手が滅びかけていたからだ。

もう一つ、根本は華北で終戦を迎えた将軍として、国民党軍による武装解除と引き揚げの実務を担当した。華北の日本軍と居留民の帰国は、ソ連軍の下に置かれた満州と比べれば、はるかに秩序立って進んだ。満州で何が起きたかを知っていると、この差の大きさが分かる。根本が蒋介石に恩義を感じた理由はここにもある。

1945年8月、張家口:命令に背いて4万人を逃がす

荷物を積んだ馬車と移動する民間人
終戦時の華北では、居留民の退避と部隊の撤退が重なった。

根本の生涯で最も重い決断は、1945年8月の張家口にある。

駐蒙軍という組織についても書いておく。1937年の日中戦争開始後、日本軍は内モンゴルに蒙古聯合自治政府という傀儡政権を作り、その警備と対ソ警戒のために張家口に駐蒙軍を置いた。ソ連とモンゴルに接する最前線で、1939年にノモンハンで関東軍を破ったソ連・モンゴル軍と、同じ相手に向き合う軍である。だが1945年の時点で駐蒙軍の兵力は薄かった。南方への転用で主力を抜かれ、残っていたのは独立混成旅団と若干の部隊で、ソ連軍の機甲部隊と正面から戦える戦力ではない。根本が張家口で持っていたのは、時間を稼ぐことができる程度の軍だった。

8月9日、ソ連が参戦した。満州の関東軍は崩壊し、開拓団の人々が置き去りにされ、葛根廟のように避難民がソ連軍の戦車に襲われる事態が各地で起きた。内モンゴルでも、ソ連軍とモンゴル軍が南下を始めた。張家口は北京に向かう玄関口で、ここが抜かれれば華北の邦人も危ない。

1945年8月、張家口

彼は後者を選んだ。在留邦人約4万人を張家口から列車で北京、天津方面へ脱出させ、その間、張家口北方の丸一陣地に部隊を配置してソ連・モンゴル軍を食い止める。命令は「邦人が全員脱出するまで陣地を守れ」で、根本は責任を自分が取ると部下に伝えている。戦闘は8月19日から21日まで続き、日本側の陣地は持ちこたえた。邦人の脱出が完了し、部隊は21日に撤収した。

この判断の背景には、根本が満州で何が起きているかを知っていたことがある。8月9日以降、関東軍が南へ後退し、国境近くの開拓団が置き去りにされ、避難民の列がソ連軍に襲われているという情報は、張家口にも入っていた。関東軍は軍人と家族を先に逃がし、一般の居留民を後回しにしたと批判されることになるが、根本は逆をやった。邦人を先に運び、軍は最後まで残った。同じ8月、同じソ連軍を相手に、隣接する二つの軍が正反対の判断をしたことになる。

脱出の実務も簡単ではなかった。4万人を列車で運ぶには、線路と機関車と、途中の駅の安全が要る。張家口から北京へ向かう線路は八路軍の活動地域を通り、いつ切られてもおかしくなかった。根本は列車を次々に出し、軍の一部を線路の警備につけ、邦人を北京と天津に集めた。天津からは船で日本へ帰る。舞鶴などの引揚港に着いた華北からの引揚者の中には、張家口から列車で逃げた人たちが含まれている。

樺太では緊急疎開の途中で船が沈められ、満州では開拓団が置き去りにされた。同じ1945年8月に、張家口の4万人が組織的に運ばれたのは、軍が邦人を運ぶことを最優先に決めたからで、それを決めたのは根本だった。

8月の張家口には、もう一つ書いておきたい話がある。邦人の脱出を決めたとき、根本の部隊の中には「降伏したのに戦うのか」という疑問があった。停戦命令は出ている。戦えば自分たちが処罰される可能性もある。根本はそれを引き受け、部隊は陣地についた。丸一陣地で戦った部隊の損害は少なくなかったが、彼らが3日間持ちこたえたことで、列車は走り続けた。

これは命令違反である。大本営の停戦命令に反して戦闘を続けた。ただし、樋口季一郎が占守島で自衛戦闘を命じたのと同じく、大本営は8月16日に「自衛のための戦闘は妨げない」という一項を出していて、根本の判断もこの枠に収まると解釈することはできる。それでも根本は、この枠を「使う」と決めた側の人間だった。同じ8月に満州で何万人もの日本人が置き去りにされたことを考えると、張家口で4万人が無事だったのは、自然にそうなったのではなく、誰かが決めたからそうなった。

付け加えると、この時期の根本には北支那方面軍司令官としての仕事も同時に来ていた。華北全域の日本軍の停戦と武装解除を国民党側と調整しながら、張家口の戦闘を続けさせる。停戦の交渉と戦闘の継続を一人の司令官が同時にやっていたわけで、その矛盾を彼は自分の責任で抱えた。

華北の武装解除と帰国

8月19日、根本は北支那方面軍司令官を兼任し、華北全域の日本軍の武装解除と引き揚げを担う立場になった。相手は国民党軍で、根本が長く付き合ってきた人々だ。

華北の引き揚げは、満州に比べると格段に秩序立って進んだ。それは国民党側が日本軍を敵として扱いながらも、共産党との内戦を控えて日本軍の秩序ある撤収を望んだことと、根本が交渉できる相手だったことの両方による。華北の日本人の多くは1946年までに帰国した。根本自身も1946年に帰国している。

彼は東京裁判で訴追されず、B級戦犯としての裁判も受けなかった。中国で長く戦った将軍としては珍しい。国民党側が彼を戦犯として追及しなかったことが大きく、これも後の台湾行きにつながる。

根本が戦犯として裁かれなかった背景には、当時の国民党の方針がある。蒋介石は日本の降伏に際して「怨みに報いるに徳をもってす」と呼びかけ、日本軍の武装解除と引き揚げを比較的穏やかに進めた。支那派遣軍総司令官だった岡村寧次も国民党の軍事法廷で無罪となり、後に白団の結成に関わっている。共産党との内戦を控えた国民党にとって、旧日本軍の将校は裁く相手であると同時に、使える相手でもあった。根本が台湾へ渡ったとき、この文脈の中に入っていったことになる。

1949年:漁船で台湾へ密航する

夜明けの海を進む小型木造船
戦後の根本は再び海を渡り、台湾へ向かった。
1949年

1949年6月、根本は宮崎県の港から小さな漁船で日本を出た。同行者は数人、船には食料と水と、途中で持ち込んだ日本刀があったという。密航である。占領下の日本で、元陸軍中将が海外へ出ることは許されていない。船は台湾に着き、一行は当局に拘束されたが、根本の身元が国民党側に伝わり、解放された。根本は「林保源」という中国名を名乗った。

密航の顛末をもう少し書く。船は小さな漁船で、台湾までの航海に耐える設計ではなかった。途中で嵐に遭い、食料と水が尽きかけ、漂流に近い状態で台湾に着いたと伝えられる。着いた先で一行は不審者として拘束されたが、根本が湯恩伯との関係を告げ、身元が確認されて解放された。台湾側にとっても、日本から元中将が漁船でやって来るという事態は想定外で、蒋介石の周辺で扱いに困ったことが記録に残っている。

なぜ行ったのか。根本本人の説明は、終戦時に華北の日本軍と居留民を無事に帰国させてくれた蒋介石への恩返し、というものだ。私はそれを信じるが、もう一つ、彼が「中国屋」として国民党の敗北を放っておけなかったことも大きいと思っている。長く付き合った相手が滅びかけていて、自分にできることがある。この動機は、張家口で邦人を守ったときと同じ種類のものだ。

台湾側から見ると、根本の来訪はかなり異例だった。蒋介石は旧日本軍将校を軍事顧問として招く計画を進めていて、後に「白団」と呼ばれる顧問団が1949年11月から台湾で活動を始める。だが根本は白団の一員ではない。白団より早く、自分で勝手に来た将軍で、蒋介石はこれを湯恩伯に預けた。

金門島、古寧頭:根本は何をしたのか

木造船が残る岩の多い海岸
古寧頭の戦闘では、島の海岸と上陸地点が重要な舞台となった。
金門島、古寧頭

1949年8月、蒋介石は湯恩伯を福建省主席兼綏靖主任に任命した。湯恩伯は福建の守備に自信がなく、日本から来ていた根本を作戦の相談相手として連れて行くことを蒋介石に願い出た。蒋介石は「根本が同意するなら」と答え、根本は湯恩伯に同行して厦門に入った。これは根本自身が戦後に書いた回想に基づく話で、台湾国防部の資料にも翻訳が載っている。

湯恩伯という人物についても触れておく。湯恩伯は日本の陸軍士官学校に留学した経歴を持ち、根本とはその頃からの知り合いだった。日中戦争では台児荘などで日本軍と戦った国民党軍の名将で、戦後は上海の防衛を任されたが1949年5月に共産軍に上海を落とされ、評価を大きく落としていた。福建に送られたのはその後の話で、彼が根本を連れて行きたがったのは、自信を失っていた時期に旧知の日本人将校を相談相手にしたかったからだと私は読んでいる。湯恩伯は1954年、治療のために訪れた東京で手術中に亡くなった。根本との縁は最後まで日本につながっていた。

厦門に着いた時点で、金門島には守備兵が一人もいなかった。湯恩伯の手元には1個団しかなく、根本は「私が動かせる兵力は1個営だけだ」と笑う湯恩伯を見て、寒々しい思いをしたと書いている。ここから根本は、厦門と金門のどちらを守りの重点にするかを湯恩伯と検討した。厦門は香港と大陸を結ぶ商業港で守る価値があるが、守りにくい。金門は小さく、台湾への足場として重要で、守れる。根本は金門への集中を進言したとされる。

古寧頭戦役の背景を押さえておく。1949年10月1日、北京で中華人民共和国が成立し、国民党は大陸をほぼ失っていた。共産軍の次の目標は福建沿岸の島々で、10月17日に厦門が落ちる。金門島は厦門の目と鼻の先にあり、ここを取れば台湾への足場になる。共産軍は大陸から集めた木造の帆船で渡海するしかなく、10月24日夜、約9,000人の上陸部隊が金門島北岸の古寧頭に向かった。上陸には成功したが、潮が引いて帆船が座礁し、増援を運ぶ船がなくなった。上陸部隊は島に取り残され、国民党軍の戦車と火砲に囲まれて3日で壊滅した。中国側の記録でも古寧頭は明確な敗北として扱われていて、以後、共産軍の台湾侵攻計画は現在に至るまで実行されていない。

上陸部隊は約1万人。国民党軍は胡璉の第12兵団を中心に約3万人が防備についていて、3日間の戦闘で上陸部隊を全滅させた。中華民国の存亡を分けた戦いと台湾では言われ、共産軍の台湾侵攻計画はここで止まった。

根本の役割はどこまでだったのか。日本側の評伝では、根本が湯恩伯の指揮を支え、上陸部隊を水際で叩かず内陸に引き込んで包囲する戦法を助言し、勝利の立役者だったとされる。台湾側の公式な戦史では、古寧頭の勝利は胡璉、李良榮、湯恩伯ら国民党軍の指揮官の功績であり、根本の名前は出ない。台湾の研究者の中にも、根本の関与は限定的で、日本側の語りは過大だと見る人がいる。

私の読みはこうだ。根本が金門にいたことは確かで、湯恩伯の相談相手として厦門と金門の守備方針に関わったことも本人の回想と台湾国防部の翻訳資料で裏付けられる。だが古寧頭の戦闘そのものを指揮したのは国民党軍の将校であり、根本は顧問であって指揮官ではない。「台湾を救った」は盛りすぎで、「台湾が救われた戦いの現場に、日本から勝手に来た元中将が顧問としていた」が正確なところだと思う。それでも十分に異常な話で、盛る必要はない。

白団との違い、そして帰国

古寧頭の後、蒋介石は旧日本軍将校による軍事顧問団を正式に発足させた。団長は富田直亮元少将で、白団と呼ばれた。根本は白団に合流することを望んだが、結果的にそうならなかった。

理由は台湾側の資料に書かれている。根本は中将で、団長の富田は少将だ。年齢も根本の方がずっと上で、根本が富田の下につくことに本人が納得しなかった。加えて、根本は米軍関係者の前で目立つ行動をとり、日本軍将校を秘密裏に使いたい国民党側の担当者を困らせた。白団側も根本が団を率いることに反対し、根本は白団の指導者になれないまま、1952年5月に日本へ帰った。帰る前に蒋介石は根本を呼び、1,000ドルを渡して労をねぎらったという。

この経緯は根本という人間をよく表している。彼は組織に属して動く人ではなく、自分の判断で動く人だった。張家口でも、密航でも、金門でも同じで、それが功績を生み、同時に組織からはみ出す原因になった。白団はその後20年近く台湾に残り、台湾軍の教育に深く関わった。根本は3年で帰った。

帰国後の根本は、台湾のことも張家口のことも公にはほとんど語らなかった。回想は残したが、生前に広く読まれることはなく、1966年5月、74歳で亡くなった。日本で根本の名前が再び語られるようになったのは、2010年代に評伝が出てからだ。台湾では、根本の名前は蒋介石と湯恩伯の周辺の記録に残り続けていた。

台湾では、根本の名前は完全に消えたわけではない。2009年の古寧頭戦役60周年には根本の遺族が台湾側に招かれたと伝えられ、金門島の戦史館には日本人顧問がいたことを示す展示もある。日本で根本が「台湾を救った」と語られるのに対し、台湾では「あの時、日本から来た将軍がいた」という程度の位置づけで、その温度差が根本という人物の実像をむしろ正確に示していると私は思う。

帰国後の根本について、もう少しだけ書く。台湾から戻った彼は、旧軍関係者の集まりにも表立って関わらず、張家口から生還した邦人の会合に顔を出す程度だった。張家口で救われた人々の中には、戦後長く根本に感謝の手紙を送り続けた人がいる。彼が公に語らなかったことと、救われた側が語り続けたことは、両方がこの人の記録になっている。

根本博の言葉と人柄

根本の言葉として残っているものは多くないが、張家口で部下に伝えた「責任は自分が取る」という趣旨の言葉と、台湾行きを決めたときの「恩義に報いる」という言葉は、彼の行動原理をそのまま示している。

人柄については、台湾側の記録と日本側の評伝で共通する点がある。押しが強く、目立ち、組織の中で角が立つ。白団の関係者からは扱いにくい人物と見られ、国民党の担当者は彼が米軍関係者の前で目立つことを嫌がった。一方で、湯恩伯のように彼を頼った人間もいる。敵味方ではなく、相性で評価が割れるタイプだったのだろう。

もう一つ、根本は中国人との付き合いが長い分、中国側の論理を理解していた。華北の武装解除で交渉相手になれたのも、湯恩伯が相談相手として指名したのも、彼が相手の考え方を分かっていたからだ。日本陸軍の将官の多くは中国を「戦う相手」としてしか見ていなかったが、根本は「付き合う相手」として見ていた。この差が、1945年と1949年の両方で効いている。

根本博の判断を貫くもの

張家口、密航、金門を並べて、根本の考え方を整理する。

一つ目、命令より目の前の人を優先する。張家口の戦闘継続は大本営の命令に反していた。密航は占領政策に反していた。どちらも「そうしなければ守れない人がいる」ことが理由で、彼はその都度、自分が責任を負う形で規則を越えた。

二つ目、恩義で動く。蒋介石が華北の日本軍と居留民を無事に帰したことに対して、彼は台湾行きで返した。合理的な判断ではない。しかしこの人の行動原理はそこにあって、それを外すと密航は説明できない。

三つ目、組織に収まらない。白団に入れなかった経緯が示す通り、根本は誰かの下で動くのが苦手だった。功績と欠点が同じ性格から出ている。

四つ目、語らない。張家口の4万人も、金門も、彼は自分から語らなかった。この記事で扱った井上成美、宮崎繁三郎、樋口季一郎にも同じ傾向があり、戦後の日本で「戦った側」が黙るというのは、一つの型だったのだと思う。

根本博は正しかったのか

批判の側も書く。

まず張家口の戦闘継続について。結果として4万人が救われたので称賛されるが、停戦命令に反して戦闘を続けたことで、部隊にも損害が出ている。もし陣地が抜かれていたら、部隊も邦人も失っていた。根本の判断は結果が出たから正しいと言われているが、8月19日の時点でその結果は保証されていなかった。それでも私は、満州で何が起きたかを知っている以上、この判断を支持する。

次に密航について。占領下の日本の元将官が、他国の内戦に参加するために国外へ出るのは、法的にも政治的にも問題のある行動だった。日本政府が関知しない形で日本人が国共内戦に関わったことは、当時の日中関係にも影を落としている。根本個人の恩義は理解できても、それを美談として語ることには慎重であるべきだと思う。

そして金門での役割については、上に書いた通りで、日本側の語りは過大だ。「台湾を救った日本人」というフレーズは、根本の実際の仕事を歪める。彼は顧問として厦門と金門にいた。それで十分に価値のある話であって、指揮官に格上げする必要はない。

その上で私の評価はこうだ。根本博は、日本陸軍の将官の中で最も「勝手に動いて人を救った」人物である。命令を待たず、許可を取らず、責任を自分で引き受けて動いた。日本軍の失敗の多くが「誰も決めなかった」ことから来ているとすれば、根本は数少ない「決めた人」だった。インパールで誰も撤退を言えなかった軍隊と、張家口で「責任は取る」と言った司令官は、同じ陸軍の中にいた。

現代の目で読み直すと

自衛隊ファンとして根本を読むと、張家口の判断は在外邦人保護という現代の自衛隊の任務に直結する。2021年のアフガニスタン、2023年のスーダンで、自衛隊は在外邦人の輸送任務に出ている。敵対する武装勢力が動いている中で、邦人が脱出するまでの時間をどう稼ぐか。根本が1945年に張家口でやったのは、この任務の原型だった。

もう一つ、台湾との関係だ。台湾有事が現実の議論になっている今、1949年に金門島で共産軍の上陸が止まったことの意味は大きい。あの戦いがなければ、台湾海峡の現在の形はなかった。根本の役割が顧問止まりだったとしても、その現場に日本人がいた事実は、日台の関係を考えるときに知っておいていい。

投資家として見るなら、根本の判断は「恩義で動く」という非合理の話で、あまり参考にならない。ただ、組織に収まらない人間が功績を残し、組織からはみ出す、というパターンは、会社でも投資先でも繰り返し見る光景だ。

根本博を深く知るための本

写真や文書を広げた史料閲覧机
張家口と金門島の経歴は、日本側と台湾側の資料を照らし合わせて読む。

根本の評伝は門田隆将『この命、義に捧ぐ 台湾を救った陸軍中将根本博の奇跡』(角川文庫)が読みやすいが、金門での役割についてはかなり根本寄りに書かれているので、野嶋剛『蔣介石を救った帝国軍人 台湾軍事顧問団・白団の真相』(ちくま文庫)と合わせて読むと、台湾側の資料に基づく見方が分かる。いずれもこの記事の執筆時点で当ブログの商品リストに未登録なので、書店やAmazonで直接探してもらいたい。ここでは合わせて読む本を挙げる。

読み比べると、日本側の評伝は張家口と金門を「二つの救出劇」として並べ、台湾側の資料は根本を湯恩伯の周辺にいた顧問の一人として扱う。どちらも嘘ではなく、視点が違うだけだ。人物伝を読むときは、誰がどの立場から書いたかを一緒に読むと、盛られた部分と削られた部分が見えてくる。根本はその練習問題として最適な人物でもある。

『日ソ戦争 帝国日本最後の戦い』は、1945年8月のソ連侵攻を満州、樺太、千島、内モンゴルまで含めて整理した本で、張家口の戦闘が日ソ戦争全体の中でどこに位置するかが分かる。記事の途中で紹介した。

『新版 昭和史 戦前篇』は、根本が生きた時代の陸軍と中国政策の流れを追うのに向いている。これも記事の途中で紹介した。

『失敗の本質』は、日本軍が「決められない組織」だった理由を分析していて、根本のような「決めた人」がなぜ例外だったかを考える土台になる。

長い本ばかりなので、通勤中に耳で聴く手もある。

よくある質問

根本博は終戦後になぜ戦闘を続けたのか

張家口の在留邦人約4万人を天津方面へ脱出させるためで、ソ連・モンゴル軍が停戦を無視して南下してきたことから、邦人の脱出完了まで張家口北方の陣地を守るよう命じた。戦闘は8月19日から21日まで続き、邦人は全員脱出した。

根本博はなぜ台湾へ密航したのか

終戦時に華北の日本軍と居留民を無事に帰国させた蒋介石への恩義を理由に、1949年6月に宮崎県から漁船で台湾へ渡った。偽名は林保源。蒋介石の側近だった湯恩伯将軍の顧問として福建の厦門と金門島に入った。

根本博は古寧頭戦役で本当に台湾を救ったのか

根本は湯恩伯の顧問として厦門と金門の守備方針に関わったが、古寧頭の戦闘を指揮したのは胡璉ら国民党軍の将校で、台湾側の戦史に根本の名前は出ない。日本側の「台湾を救った」という語りは過大で、顧問として現場にいたと見るのが正確である。

根本博と白団の関係は

白団は1949年11月から活動した旧日本軍将校の軍事顧問団で、団長は富田直亮元少将。根本は白団より早く自力で台湾に渡ったが、階級や性格の問題で白団に合流できず、1952年5月に帰国した。

根本博の戦後はどうだったのか

1952年に台湾から帰国した後は公職に就かず、張家口や台湾のことを公には語らずに過ごし、1966年5月に74歳で死去した。

出典・参考

  • 台湾国防部「外文軍史譯粹 我所認識的湯恩伯將軍」(根本博 著、陳鵬仁 訳)
  • 台湾国防部 軍事史料「古寧頭戰役六十周年」関連資料
  • 野嶋剛『蔣介石を救った帝国軍人 台湾軍事顧問団・白団の真相』(ちくま文庫、講談社刊『ラスト・バタリオン』の改題)
  • 門田隆将『この命、義に捧ぐ 台湾を救った陸軍中将根本博の奇跡』(角川文庫)
  • 麻田雅文『日ソ戦争 帝国日本最後の戦い』(中公新書)

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軍研ノート編集部のアバター 軍研ノート編集部 自衛隊・兵器 / 戦史 / サバゲー

自衛隊で6年間勤務した編集長を中心に、自衛隊時代の仲間やサバゲーを通じた知人と記事を制作。経験と公開資料をもとに、装備の仕組みや歴史、その背景にある人々の工夫を掘り下げています。「かっこいい」から、その先の理解へ。編集長のプロフィール → 運営・編集方針

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