「日本はアメリカと戦争をしたら負ける」と言った海軍軍人は、実はそれなりの数いた。だが、負ける理由を数字で説明し、それでも戦争が始まった場合にどんな形の戦争になるかまで紙に書いて海軍大臣に叩きつけた人間は、私の知る限り一人しかいない。井上成美。昭和20年5月に大将になった、帝国海軍最後の大将だ。
この人物、ミリタリー好きの間でも評価が割れる。「海軍の良識」「先見の明の人」と持ち上げる人がいる一方で、「口が悪くて部下に嫌われた」「珊瑚海で逃げた」「結局、反対しただけで何も止められなかった」と冷ややかに見る人もいる。私は正直、どちらの言い分にも一理あると思っている。だからこそ、この人の生涯は面白い。
この記事では、米内光政・山本五十六と並んで「海軍三羽烏」と呼ばれた井上が、何を根拠に対米戦争へ反対し続けたのか、なぜそれが通らなかったのか、そして戦後に横須賀の岬で近所の子どもに英語を教えて暮らした晩年まで、一本の線で追ってみる。
井上成美とは何者か、3分でつかむ
まず経歴を一気に押さえておく。細かい年月は後の章で触れるので、ここでは流れだけ。
井上成美(いのうえ しげよし)は1889年、仙台の生まれ。海軍兵学校37期で、成績は上から2番。海軍大学校を出てからは欧州駐在が長く、イタリアの駐在武官も務めた。語学が抜群にできて、英語もドイツ語もイタリア語も使える。海軍の中では「軍政」、つまり戦艦を動かす側ではなく、予算・法律・外交・軍備計画を扱う側で頭角を現した。
肩書きで言うと、日中戦争が始まった1937年から1939年まで海軍省軍務局長。ここで日独伊三国同盟に反対して陸軍とやり合った。1940年から41年にかけて航空本部長、そこで「新軍備計画論」を書いた。開戦直前に第四艦隊司令長官として内南洋に出て、1942年の珊瑚海海戦を指揮。同年秋に海軍兵学校校長に転じて江田島で2年。1944年8月に米内海相のもとで海軍次官に戻り、終戦工作にかかわった。1945年5月に大将。敗戦後は一切の公職を断り、横須賀市長井の自宅で英語塾を開いて生き、1975年12月に86歳で亡くなった。
海戦の英雄でも、真珠湾の立案者でもない。この人が歴史に残っている理由は「戦争を始める前に何を言ったか」と「負けた後にどう生きたか」の二点にある。そこが山本五十六や南雲忠一のような「戦った提督」とはまったく違う。
「海軍三羽烏」とは何だったのか
海軍三羽烏という言葉は、1937年から39年の海軍省の顔ぶれから来ている。海軍大臣が米内光政、次官が山本五十六、軍務局長が井上成美。この三人が日独伊三国同盟に反対して、陸軍と、そして海軍内部の同盟推進派と真正面からぶつかった。
役割分担が絶妙だった。米内は大臣として腹をくくる人で、口数は少ないが一度決めたら動かない。山本は次官として政界や陸軍と渡り合う交渉役で、右翼から命を狙われるほど目立った。そして井上は、理屈を組み立てる役だった。陸軍が持ってくる同盟案を条文レベルで潰し、「この条約を結ぶと自動的に対米英戦争に引きずり込まれる」という論理を組み立てたのは軍務局長の井上である。
戦後の海軍の座談会で、井上は三国同盟について「海軍が最後まで譲らなかったのは、自動的参戦は嫌だという一点だった」という趣旨のことを語っている。同盟そのものより、ドイツが英米と戦争になった瞬間に日本も参戦義務を負う「自動参戦条項」を、海軍は絶対に飲めなかった。なぜか。海軍はアメリカと戦って勝てないことを、他の誰よりも数字で知っていたからだ。
ここで大事なのは、三羽烏が「平和主義者」だったわけではないという点である。三人とも軍人で、海軍の予算は欲しいし、艦隊も増やしたい。山本はのちに真珠湾を仕掛ける。彼らが反対したのは戦争一般ではなく、「勝てない相手と、勝てない形で始める戦争」だった。この区別を外すと、井上という人物は分からなくなる。
平沼内閣で五相会議が70回以上も開かれ、それでも同盟は決まらなかった。1939年8月、ドイツが突然ソ連と不可侵条約を結び、平沼首相が「欧州情勢は複雑怪奇」と言って総辞職した時点で、三羽烏は一度は勝った。だがその勝利は長く続かない。
反対の原点:1933年、軍令部の権限拡大に一人で逆らった
三国同盟の前に、井上には「前科」がある。1933年、海軍省軍務局の第一課長だったとき、軍令部の権限を大幅に強める省部の規定改定に、ほぼ一人で反対した一件だ。
ざっくり言うと、それまで海軍省(軍政)が握っていた兵力量の決定権を、軍令部(軍令)に移す改定だった。ロンドン軍縮条約で「軍令部の頭越しに政府が兵力を決めた」と怒った艦隊派が、二度と同じことが起きないように仕組みを変えようとしたわけである。井上の理屈はこうだ。兵力を決めるのは金であり、金を扱うのは政府と海軍省で、軍令部が兵力量を決めるなら予算に責任を持たない人間が国の財布を決めることになる。だからこの改定は間違っている。
井上は課長として決裁の判を押さなかった。上から圧力がかかり、右翼からの脅しめいた話もあったが、最後まで印を押さず、上司が代わりに処理した。結局改定は通り、以後の海軍は軍令部が兵力を決め、海軍省が金を集めてくる組織になった。大和型戦艦も、対米七割の艦隊も、この仕組みの上で決まっていく。
私はこの1933年の一件が、井上という人物の全部だと思っている。彼は「勝てない喧嘩」でも理屈が正しければ判を押さない。そして負ける。それを30代の課長時代から死ぬまで繰り返した。三国同盟も、新軍備計画論も、珊瑚海の撤退も、全部同じパターンで動いている。
反対の理由①:「戦えば負ける」の中身

井上が対米戦争に反対した理由は、感情でも思想でもない。彼の論法はかなりドライで、要するに「勘定が合わない」という話だ。
軍務局長として陸軍の同盟推進派と議論したとき、井上は繰り返し「日本は米英を相手に戦争をすれば必ず負ける」と言った。その根拠は三つある。
一つ目は資源だ。日本の石油は輸入の大半をアメリカに頼っていた。鉄も工作機械もそうだ。相手と戦争をするということは、戦争に必要な物資の供給元と戦争をするという意味になる。井上は軍務局長として海軍の予算と資材を握っていたから、この矛盾を毎日見ていた。
二つ目は造船力と工業力の差である。海軍軍縮条約が失効して無制限建艦の時代に入っていた。日本は戦艦大和を秘密で造っていたが、アメリカは同じ期間に戦艦も空母もまとめて発注できる。ヨーイドンで造り始めれば差は開く一方で、縮まることはない。井上はこの差を「今すぐ戦えば五分」ではなく「戦えば戦うほど負ける」と読んでいた。
三つ目が、ドイツと組んでも意味がないという読みだ。ドイツは大西洋の向こうにいて、太平洋で日本を助けることはできない。同盟は日本に義務だけ持ってきて、利益は持ってこない。陸軍はドイツの快進撃に酔っていたが、井上は欧州駐在が長かったから、ドイツの強さも限界も肌で知っていた。
私がこの人を面白いと思うのは、こういう「負ける理由」を並べ立てた人間が、その先まで考えたところにある。負けると分かっていて、それでも始まったらどうなるか。それを書いたのが次の「新軍備計画論」だ。
反対の理由②:開戦11か月前に書かれた「答え合わせ」

1941年1月30日、航空本部長だった井上は「新軍備計画論」という意見書を及川古志郎海軍大臣に提出した。太平洋戦争が始まるおよそ11か月前のことである。現在この原本は防衛研究所に残っていて、書き出しはほぼ一行で要約できる。海軍の軍備計画は根本から作り直す必要がある、と。
何を言っていたのか。私なりに整理するとこうなる。
まず、アメリカは日本本土を占領できないし、日本もアメリカ本土を占領できない。だから日露戦争のような「艦隊決戦で勝敗が決まる戦争」にはならない。では何が起きるか。太平洋の島を奪い合う戦争と、海の上を走る商船を沈め合う戦争になる。だから、戦艦同士の決戦に備えて大和のような巨大戦艦を造るのは金の無駄で、航空機と潜水艦、島に置く基地航空隊、そして輸送船を守る海上護衛に金を回すべきだ。
さらに、その島を守れるのは航空機であり、航空機を失った島は落ちる。空を取られた側は海も取られる。これが1941年の1月に書かれている。
答え合わせをしてみると、恐ろしいほど当たっている。太平洋戦争は結局、ガダルカナル、マリアナ、ペリリュー、硫黄島と島の奪い合いになった。日本の輸送船はアメリカの潜水艦に片っ端から沈められ、海上護衛は後手に回り続けた。大和と武蔵は決戦の機会を一度も得ないまま沈んだ。井上が「要らない」と書いた戦艦に海軍はそのあと何年も予算を注ぎ込み、「足りない」と書いた海上護衛は開戦後2年経ってやっと専門の艦隊ができた。
なぜ通らなかったのか。理由は単純で、海軍の中で予算と人事を握っていたのは軍令部と艦隊派で、彼らの頭の中にはまだ日本海海戦があった。井上の意見書は「これまでの海軍のやり方は全部間違っている」と言っているに等しく、組織はそういう意見を「正しいかどうか」ではなく「誰が言ったか」「どの部署の権益を削るか」で判断する。井上は正しかったが、海軍の中では少数派の、しかも口の悪い航空本部長でしかなかった。
この構図については、日本海軍はなぜ敗れたのかという記事で「艦隊決戦マシンが来ない決戦を待ち続けた」という角度から書いた。井上はまさにその「来ない決戦」を予言していた人だった。
なぜ止められなかったのか
ここが本題だ。三羽烏は理屈で勝っていた。同盟の危険を説明でき、負ける理由を数字で示せ、戦争の形まで書けていた。それでも1940年9月に三国同盟は結ばれ、1941年12月に真珠湾に向かう。何が起きたのか。
第一に、三人が海軍省からいなくなった。1939年8月末、平沼内閣が倒れた直後の人事で米内は海軍大臣を退き、山本は連合艦隊司令長官として海に出た。海軍省から離れると、中央の政治に口を出せなくなる。井上も1939年10月に支那方面艦隊参謀長として上海に出された。実質的な左遷ではないが、三国同盟の第二ラウンドが始まった1940年夏、海軍省にいた三羽烏はゼロだった。
第二に、米内内閣が陸軍に倒された。1940年1月に米内が首相になったが、7月に陸軍が陸相を引き揚げて内閣を潰した。後任の海軍大臣は及川古志郎で、及川は三国同盟に反対しきれなかった。井上に言わせれば「海軍が男らしく処置しなかった」ことになる。戦後の座談会で井上が「陸海軍が争っても、全陸海軍を失うよりましだった、なぜ男らしく処置しなかったのか」という趣旨の発言を残しているのは、この時のことを指している。
第三に、海軍という組織が「戦争はできない」と公式に言えなかった。これが一番大きい。海軍が対米戦争は不可能だと政府に言えば、その瞬間に「では海軍の予算は何のためにあるのか」という話になる。海軍は陸軍と予算を奪い合ってきた組織で、対米戦争のために巨額の予算を取ってきた。だから「できない」とは言えず、「やれと言われればやる」という言い方になり、それが政治家には「海軍は反対していない」と映った。東條英機の記事で「誰も止めない機械の歯車」という言い方をしたが、海軍も間違いなくその歯車の一つだった。
そして第四に、井上本人の立ち位置だ。彼は開戦の時点で航空本部長から第四艦隊司令長官に転出していた。トラック島にいる艦隊司令官が東京の開戦決定を止める手段はない。三国同盟の時には海軍省の中枢にいた人間が、対米開戦の時には中央から外れていた。これは偶然ではなく、海軍中央が「うるさい人間」を遠ざけていった結果だと私は見ている。
つまり井上が止められなかったのは、井上が弱かったからではない。理屈で勝つ人間を組織の外に出す仕組みが、海軍の中にあったからだ。
実戦指揮官・井上:珊瑚海海戦と「逃げた」批判

反対論者としての井上は評価が高い。ところが実戦指揮官としての井上は、当時から今まで批判され続けている。その中心が1942年5月の珊瑚海海戦だ。
第四艦隊司令長官の井上は、ポートモレスビー攻略を目指すMO作戦の指揮官だった。5月7日から8日にかけて、翔鶴と瑞鶴を中心とする日本の機動部隊と、レキシントンとヨークタウンを中心とするアメリカ機動部隊が、史上初めて空母同士で殴り合った。結果はレキシントン撃沈、翔鶴は大破して戦線離脱、瑞鶴は艦載機の大半を失った。
ここで井上は、作戦の中止と部隊の引き揚げを決めた。空母が使えなくなった状態で、輸送船団を珊瑚海に突っ込ませても意味がないという判断だ。連合艦隊司令部はこれに激怒した。山本五十六は追撃を命じ、軍令部は「せっかくの勝ち戦を放棄した」「井上は弱気だ」と評した。アメリカ側は空母1隻を失ってかなり痛かったので、日本側が押し込めば結果は違ったのではないか、という批判である。
私はこの批判を半分は認め、半分は認めない。認める部分は、井上に「攻めの指揮官」の資質がなかったのは事実で、本人も自覚していたことだ。彼は軍政の人であって、水雷戦隊を率いて夜戦に突っ込むタイプではなかった。
認めない部分はこうだ。井上は「新軍備計画論」で「航空機を失った側は海を失う」と自分で書いた人間である。翔鶴が大破し瑞鶴の艦載機が尽きた時点で、自分の理論に従えば引くのが正解になる。しかもこの撤退で翔鶴と瑞鶴は温存され、翔鶴は修理を終えてその後の海戦に復帰した。逆に、珊瑚海で無理をせずに済んだ結果ミッドウェーに間に合わなかったことを、井上のせいにするのは筋が違う。ミッドウェーの問題は南雲忠一と山口多聞の記事で書いたように、まったく別の場所にあった。
ただし、海軍中央は「井上は実戦で使えない」という評価に落ち着き、1942年10月に彼を海軍兵学校校長に回した。前線からは完全に外された形だ。これが結果的に、井上を「もう一つの功績」に導くことになる。
江田島の校長:なぜ「敵の言葉」を守ったのか

1942年10月から1944年8月まで、井上は海軍兵学校の校長だった。江田島の校長として彼がやったことで一番有名なのが、英語教育を廃止しなかったことである。
戦争が始まると、陸軍士官学校は「敵国語」として英語を入試から外し、世の中では野球用語まで日本語に言い換えさせる空気になっていた。海軍兵学校にも「英語をやめろ」という圧力がかかった。井上はこれを一蹴した。彼の言い分は、海軍士官は世界中の海に出て行く、そこで英語ができない士官は使い物にならない、そもそも敵と戦うなら敵の言葉を知らなければ話にならない、というものだ。
もう一つ、彼が力を入れたのが一般教養だ。井上は生徒に「軍人である前に人間としての教養を持て」と説き、歴史や文学、音楽まで学ばせた。彼自身がギターを弾き、外国語を何か国語も話す人間だったから、これは自分の生き方そのものだった。「軍人に教養は要らない」という当時の空気の中で、これはかなり異質だった。
なぜここまでこだわったか。私はこれを「戦争に負けた後の日本」を見据えていたからだと思っている。井上は開戦前から負けると言い続けた人だ。負けた後、若い士官たちが生きていくには、鉄砲の撃ち方より英語と教養が要る。1943年の江田島でそこまで考えていたかは断言できないが、戦後の井上が英語塾を開いたことを考えると、この校長時代と晩年は一本の線でつながっている。
ちなみに江田島の旧兵学校は今も海上自衛隊第1術科学校として使われていて、見学ができる。赤レンガの生徒館と大講堂は井上が校長だった当時のままで、行くと「ここで英語の授業を守ったのか」という実感がある。呉から船で20分ほどなので、大和ミュージアム目当てで呉に行くなら合わせて回ることをすすめておく。長門と大和のどちらが海軍に必要だったかを書いた比較記事を読んでから行くと、井上の「戦艦無用論」がもう少し立体的に見える。
海軍次官として:終戦工作と「最後の大将」
1944年7月、東條内閣が倒れて米内光政が海軍大臣に復帰した。米内は井上を海軍次官に引っ張り上げた。井上は嫌がったが、米内から直々に頼まれて8月に次官に就いた。三羽烏のうち二人が、5年ぶりに海軍省に戻ってきたことになる。山本はもういない。1943年4月、ブーゲンビル上空で撃墜されていた。
米内海相と井上次官が何をやったかというと、表向きは戦争の継続で、裏では終戦への道を探ることだった。井上は海軍省内に終戦のための研究を密かに命じ、戦争の終わり方を考えさせた。1944年の夏にそれをやるのは、見つかれば軍法会議どころではない。井上が「一億玉砕だけは避けなければならない」と考えていたのはこの時期で、彼の目的はもう戦争に勝つことではなく、日本という国を残すことに移っていた。
一方で、この時期の井上には辛い場面もある。海軍次官として、特攻が組織化されていく過程を見ることになった。井上は人間爆弾のような兵器に強い嫌悪感を持っていて、桜花の開発にも反対したとされるが、次官の権限で止められるものではなかった。彼が反対し続けたものが、彼の目の前で制度になっていく。この構図は三国同盟のときとまったく同じだ。
1945年5月15日、井上は海軍大将に進級した。帝国海軍が最後に大将にした人物である。同時に軍事参議官となり、次官を退いた。終戦の3か月前に、その組織に「あなたは正しかった」と言われたようなものだ。本人がそれを喜んだとは思えない。
戦後:横須賀の岬で英語を教えた30年

敗戦後の井上の人生は、彼を語るときにいつも最後に置かれる。それだけの重さがある。
井上は東京裁判で訴追されず、公職追放を受けたのちは一切の職を断った。財界からの誘い、公的な援助、旧海軍関係者からの生活の世話、全部断った。理由は本人の言葉によれば、軍人として国を守れなかった人間がその国から何かをもらう資格はない、という一点に尽きる。
住んでいたのは横須賀市長井、三浦半島の小さな岬の上の家だった。収入がないから家財を売り、それでも足りない。そこで井上が始めたのが英語塾である。近所の子どもたちを集めて英語を教えた。月謝はわずかで、払えない家の子は無料だった。元海軍大将が、小学生に「This is a pen」から教えている。想像すると少し滑稽で、そして胸に来る。
もう一つ、井上は戦後30年間、太平洋戦争についてほぼ何も語らなかった。回想録も書かず、講演もしなかった。戦後すぐの海軍の座談会には出ていて、そこでは相当に鋭いことを言っている。だがそれは内輪の記録で、公にされたのは彼の死後だ。晩年になってようやく海軍記者の取材に応じ、それが後に本になった。「自分が何を言ったか」より「何をやれなかったか」の方が、彼にとっては重かったのだろう。
1975年12月15日、井上は86歳で亡くなった。阿川弘之が『山本五十六』『米内光政』に続く海軍提督三部作の最後にこの人を選び、それが日本文学大賞を取ったのは、井上の生涯がそれだけ「小説として読める」ものだったからだ。
井上成美の言葉から見える考え方
井上には有名な演説や名言が少ない。山本の「やってみせ」のような一言で語れるものがほとんどなく、残っているのは会議の記録や兵学校での訓示ばかりだ。それでも、いくつかの言葉にこの人の思考の型が出ている。
一つは、軍人は政治に関わってはならないという考え方だ。井上は兵学校校長時代に生徒へ向けて「軍人と政治」の関係を繰り返し語り、軍人が政治に口を出した瞬間に国が壊れると説いた。五・一五事件と二・二六事件を海軍省の中から見てきた人間の実感で、陸軍が政治を動かして三国同盟と対米戦に突っ込んだ経緯そのものへの批判でもある。
もう一つは、敵を憎むなという教えだ。英語教育を守った理由とつながるが、井上は「敵国だから憎め」という空気を軽蔑していた。敵を知り、敵の強さを認めた上で戦うのが軍人で、憎しみで目を曇らせた軍隊は負けると考えていた。真珠湾のあと日本中が浮かれていた時期に、江田島の校長がそう言っていたのは相当に浮いていたはずだ。
そして戦後の座談会での、なぜ海軍は戦争反対を明確にしなかったのか、という問いかけ。これは同席していた元上司や元同僚への詰問であり、同時に自分自身への問いでもある。井上は自分が反対したことを誇らなかった。反対して止められなかったことを、最後まで恥じていた人だった。
井上成美は正しかったのか
ここまで読むと井上が完全な人物に見えるかもしれないので、批判の側もきちんと書いておく。
まず、性格がきつかった。理詰めで相手を追い詰めるので敵が多く、部下にも容赦がなかった。「井上に嫌われたら海軍で出世できない」と言われたほどで、逆に言えば「井上に好かれる人間しか使わない」という偏りもあった。山本五十六が人たらしで、米内が黙って腹をくくる人だったのに対し、井上は正論で人を切る人だった。三羽烏が三人揃って初めて機能した理由はここにある。井上一人では、陸軍とも海軍内部とも交渉が成立しない。
次に、「反対しただけ」という批判。三国同盟も対米戦も、井上は反対したが止められなかった。止めるためにもっと危ない橋を渡るべきだった、辞表を叩きつけるべきだった、という意見は当時からある。私はこれには一部同意する。ただし、辞表を出せば後任は同盟推進派になっただけで、その方が早く戦争になっていた可能性の方が高い。
そして珊瑚海。これは先に書いた通りで、井上に攻めの指揮官としての資質がなかったのは事実として認めるべきだと思う。ただ、海軍がそういう人間を艦隊司令長官に置いたこと自体が人事の失敗であって、井上の失敗ではない。
その上で、私の評価はこうだ。井上は「正しかったが、勝てなかった」。正しいことを言う人間が組織で勝てないのは、日本海軍に限らずどの組織にもある話で、だからこそこの人の生涯は80年経っても読まれている。小沢治三郎が「正しい戦い方を発明して、その全てを失った提督」なら、井上は「正しい戦争の形を予言して、それを見せつけられた提督」だった。
現代の目で読み直すと
自衛隊ファン、そして防衛産業を見ている投資家の目で井上を読み直すと、二つのことが引っかかる。
一つは、今の日本の防衛整備計画が、井上の「新軍備計画論」とどこか似た議論をしていることだ。大きな正面装備を揃えるより、島嶼防衛、無人機、海上交通の確保、スタンドオフ火力に予算を寄せる。80年前に「戦艦より基地航空と海上護衛」と書いた人間がいて、その通りになって、それを80年後にもう一度やっている。海上自衛隊と中国海軍の比較を書いたときにも感じたが、日本の海の戦いは結局「島と輸送路をどう守るか」に戻ってくる。
もう一つは組織論だ。井上のような「うるさい正論の人」を中央から遠ざける仕組みは、海軍だけの話ではない。防衛産業の企業も、官庁も、投資先の会社も同じ病気にかかる。正しい人を外に出した組織がその後どうなるかを、井上の生涯は実験結果として見せてくれている。
井上成美を深く知るための本
井上について読むなら、阿川弘之の『井上成美』(新潮文庫)が最初の一冊で、これは別格だ。ただしこの記事の執筆時点で当ブログの商品リストに未登録なので、書店やAmazonで直接探してもらいたい。ここでは井上の背景を理解するために合わせて読むといい本を挙げておく。
『昭和16年夏の敗戦』は、開戦の年の夏に政府の研究機関が「日本は必ず負ける」と結論を出していた話で、井上の「新軍備計画論」の半年後に同じ結論が別の場所で出ていたことがわかる。井上一人が異端だったのではなく、真面目に計算した人間は全員同じ答えに辿り着いていた。記事の途中で紹介したので、ここでは書名だけ挙げておく。
『日本海軍400時間の証言』は、井上の死後に元海軍軍人たちが集まって行った反省会の記録だ。井上がいない席で、井上が言い続けたことが結局どう扱われたのかが生々しく出てくる。三国同盟や特攻の話も出る。
そして『失敗の本質』。井上が組織に負けた理由を、組織論の言葉で説明してくれるのがこの本だ。「正しい人間が勝てない仕組み」を知りたいなら避けて通れない。
長い本ばかりなので、通勤中に耳で聴く手もある。阿川の三部作はオーディオブックになっているものもあるので、確認してみてほしい。
よくある質問
井上成美はなぜ「最後の海軍大将」と呼ばれるのか
1945年5月15日に海軍大将へ進級した人物が井上で、その後に海軍大将になった者はいない。その3か月後に終戦を迎え、同年12月1日に海軍省は第二復員省へ改編された。
海軍三羽烏とは誰のことか
1937年から39年に海軍省で三国同盟に反対した、海軍大臣・米内光政、次官・山本五十六、軍務局長・井上成美の三人を指す。三人が揃っていた時期は短く、山本が連合艦隊司令長官に出た1939年8月で実質的に解散した。
新軍備計画論には何が書かれていたのか
1941年1月に航空本部長の井上が海軍大臣に提出した意見書で、対米戦は艦隊決戦にならず島の奪い合いと通商破壊戦になる、だから戦艦ではなく航空機・潜水艦・基地航空・海上護衛に予算を回すべきだと主張した。原本は防衛研究所に残っている。
珊瑚海海戦で井上は本当に「逃げた」のか
空母翔鶴が大破し瑞鶴が艦載機の大半を失った時点で作戦中止と撤退を決めた。連合艦隊と軍令部はこれを弱気と批判したが、空母抜きで輸送船団を突っ込ませないという判断は、井上自身の「航空機を失った側は海を失う」という理論に沿ったものだった。
戦後の井上成美はどんな生活だったのか
一切の職と公的援助を断り、横須賀市長井の自宅で近所の子どもたちに英語を教えて生活した。戦争について公には語らず、1975年12月に86歳で亡くなった。
出典・参考
- 防衛研究所 史料紹介「新軍備計画論」(1941年1月30日、井上成美航空本部長提出)
- 新名丈夫編『海軍戦争検討会議記録 太平洋戦争開戦の経緯』(角川新書、解説 戸高一成)
- 阿川弘之『井上成美』(新潮文庫)
- 宮野澄『最後の海軍大将・井上成美』(文春文庫)
- 猪瀬直樹『昭和16年夏の敗戦 新版』(中公文庫)
- NHKスペシャル取材班『日本海軍400時間の証言』(新潮文庫)







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