1905年3月、奉天。日本陸軍はロシア軍を破って、この満州の大都市を手に入れた。新聞は大勝利を書き立て、東京の街は提灯行列で沸いた。
ところが、勝った側の司令部の空気はまるで違った。逃げていくロシア軍を追いかける力が、もう残っていなかったからだ。兵は疲れ切り、砲弾は足りず、将校は大勢死んでいた。満州軍の総参謀長だった児玉源太郎は東京に戻り、「早く戦争をやめる算段をしろ」と政府の尻を叩いたと伝えられている。
私は、日露戦争の本当の姿はこの場面に詰まっていると思っている。
「日本はなぜロシアに勝てたのか」という問いには、東郷平八郎の名采配とか、兵士の勇敢さとか、いろいろな答えがある。どれも間違いではない。でも一番正確な答えは、たぶんこうだ。日本は、戦場で勝ち切る前に、戦争を「勝ったことにして終わらせる」ことに成功した。そして、その本当の勝因を、のちの日本はきれいに忘れてしまった。
大日本帝国の歴史が好きな人間として、私は日露戦争を帝国の「頂点」だと思っている。明治の指導者たちは、自分たちの国の弱さを誰よりもよく知っていた。だからこそ慎重で、したたかで、最後まで現実を見ていた。その現実感覚が、40年後の昭和の指導者たちからは消えていた。頂点の姿を知ることは、そこから転げ落ちていった理由を知ることでもある。
この記事は、日露戦争の全体像をひととおり押さえたうえで、そこを掘り下げる。旅順攻囲戦、日本海海戦、乃木希典については個別の記事があるので、それぞれのところでリンクを置いておく。
30秒でわかる日露戦争
まず流れをざっくり。
| 時期 | 出来事 |
|---|---|
| 1895年 | 日清戦争の講和直後、ロシア・ドイツ・フランスの三国干渉で遼東半島を返還させられる |
| 1898年 | ロシアが旅順・大連を租借。日本が返した場所を、ロシアが取る |
| 1902年1月 | 日英同盟が結ばれる |
| 1904年2月 | 旅順口のロシア艦隊を日本の駆逐艦が奇襲。仁川沖でも交戦。2月10日に宣戦布告 |
| 1904年5月 | 鴨緑江会戦。日本陸軍が満州へ入る |
| 1904年8月 | 黄海海戦、遼陽会戦。旅順要塞への第1回総攻撃 |
| 1904年10月 | 沙河会戦。バルチック艦隊がヨーロッパを出発 |
| 1905年1月 | 旅順要塞が降伏。ロシア国内では「血の日曜日事件」 |
| 1905年1〜3月 | 黒溝台会戦、奉天会戦 |
| 1905年5月 | 日本海海戦。バルチック艦隊がほぼ全滅 |
| 1905年9月 | ポーツマス条約で講和。同じ日、東京で日比谷焼打事件 |
開戦から講和まで、約1年7か月。短いようで、日本にとってはギリギリの長さだった。
なぜ戦争になったのか:10年越しの「臥薪嘗胆」
話は日清戦争の直後にさかのぼる。
1895年、日本は清に勝って、下関条約で遼東半島を手に入れた。ところが、すぐにロシア・ドイツ・フランスの3か国が「返せ」と迫ってきた。三国干渉だ。日本には3大国とやり合う力はなく、泣く泣く返した。
そして3年後、その遼東半島の先端にある旅順と大連を、ロシアが清から租借した。日本からすれば、自分が返させられた土地を、返せと言った当人が持っていったわけだ。国内には「臥薪嘗胆」、つまり屈辱を忘れず耐えて力を蓄えよ、という空気が広がった。
さらにロシアは、1900年の義和団事件のどさくさで満州に大軍を送り込み、そのまま居座った。満州を押さえたロシアが次に朝鮮半島に手を伸ばせば、日本ののど元に刃物を突きつけられることになる。日本の指導者たちは、ここを本気で恐れた。
交渉はあった。満州はロシア、朝鮮は日本、と勢力圏を分け合う案も話し合われた。でもロシアは日本を本気で相手にしていなかった。小国の日本が大国ロシアに戦争を仕掛けてくるはずがない、と見ていたのだ。この「なめられていた」ことが、結果的に日本の奇襲を成功させる一因にもなる。
10年間で何を準備したのか:賠償金で買った「六六艦隊」

資料:撮影者不詳/出典・利用条件(Public domain)
臥薪嘗胆はスローガンだけではなかった。日本はこの10年間で、本気で戦争の準備をした。
その原資になったのが、皮肉なことに日清戦争で清から取った賠償金だ。2億両という巨額の賠償金の多くは、軍備の拡張に回された。海軍は戦艦6隻と装甲巡洋艦6隻を柱にする「六六艦隊」を整備し、その多くをイギリスなど海外の造船所に発注した。日本海海戦の旗艦「三笠」も、この計画で生まれた1隻だ。
もう一つ、同じ賠償金を使って建てられたのが、福岡の八幡製鉄所だ。1901年に操業を始めたこの製鉄所は、のちに日本の重工業と兵器生産を支える心臓になる。戦艦を外国から買うしかなかった国が、いつか自分で造れる国になるための、長い投資の第一歩だった。
陸軍も、師団の数を増やし、ドイツ式の参謀教育を進めた。日清戦争のときの7個師団から、日露戦争の開戦時には13個師団まで拡大している。
投資家の目で見ると、これは見事な「再投資」だ。前の戦争で得た利益を、次の戦争に勝つための設備に全部つぎ込んだ。ただ、その結果として日本の財政には、もう余力がほとんど残っていなかった。だから日露戦争の戦費は、借金に頼るしかなかったのだ。
国力差はどれくらいあったのか
日露戦争を語るときによく出てくるのが「国力10倍差」という言葉だ。
数字の取り方でいろいろ変わるが、国家予算でおよそ8倍、平時の陸軍の兵力でおよそ10倍、というのがよく引かれる目安になる。海軍もロシアのほうが大きかった。普通に考えれば、勝てる相手ではない。
ただ、ロシアにも弱みがあった。ここが大事だ。
一つ目は、距離。ロシアの国力の中心はヨーロッパ側にあって、満州は地球の反対側と言っていいほど遠い。兵も物資も、単線のシベリア鉄道で何千キロも運ばなければならなかった。日本は海を渡ればすぐ朝鮮・満州に着く。戦場に近いのは日本のほうだった。
二つ目は、戦力の分散。ロシアは西にドイツやオーストリアという大国を抱えていて、全軍を極東に回すわけにはいかなかった。海軍も、旅順の太平洋艦隊、ウラジオストクの巡洋艦隊、そしてヨーロッパのバルト海艦隊(のちのバルチック艦隊)とバラバラに置かれていた。日本はこれを一つずつ叩くことができた。
三つ目は、国内の不安定さ。戦争中の1905年1月、首都サンクトペテルブルクで、請願に向かった民衆に軍が発砲する「血の日曜日事件」が起きる。ここから革命の動きが広がり、ロシアの政府は戦争どころではなくなっていく。
国力の差は本物だった。でも、その国力を極東の戦場に「届けられる量」で比べると、差はずっと縮まる。日本の指導者はそこに賭けた。
開戦:先手を取るという賭け

資料:撮影者不詳/出典・利用条件(Public domain)
1904年2月6日、日本はロシアに国交断絶を通告した。そして2月8日の夜、旅順港の外に停泊していたロシア太平洋艦隊を、日本の駆逐艦が魚雷で奇襲した。同じころ、朝鮮の仁川沖でもロシアの軍艦と交戦している。正式な宣戦布告は2月10日だった。
宣戦布告の前に攻撃を始めたことは、のちに真珠湾と並べて語られることもある。ただ当時の国際法では、宣戦布告の前の攻撃が明確に禁じられていたわけではなく、西洋の新聞にもむしろ日本の大胆さをほめる論調があった。国際法が整えられるのは、この戦争のあとだ。
この奇襲で旅順艦隊を全滅させることはできなかったが、港に閉じ込めることには成功した。制海権をある程度握れたことで、日本は陸軍を朝鮮半島に送り込めるようになった。日露戦争は、ここから「海で道を開き、陸で前に進む」戦争になる。
陸の戦い:勝ち続けて、削られ続けた

資料:Image credit is “Copyright 1905 by Underwood & Underwood N.Y.”/出典・利用条件(Public domain)

資料:Imperial Japanese Navy General Staff/出典・利用条件(Public domain)
陸の戦いを一言でまとめると、日本は大きな会戦にはほぼ勝ち続けたが、一度もロシア軍を殲滅できなかった。勝つたびに兵と弾が減り、ロシア軍は後ろに下がって増援を待つ。この繰り返しだった。
1904年5月の鴨緑江会戦で、黒木為楨の第1軍が朝鮮と満州の境を越えた。近代の日本陸軍が、ヨーロッパの大国の陸軍に正面から勝った最初の戦いで、世界はかなり驚いた。
8月末から9月初めの遼陽会戦は、日露双方が十数万の兵をぶつけた大会戦になった。日本は勝ったが、ここで砲弾不足が深刻になる。開戦前の見積もりをはるかに超えるペースで弾を撃ち尽くし、国内の工場は増産に追われた。近代戦は、弾薬を作る力の勝負だということを、日本はこのとき思い知らされた。
10月の沙河会戦をはさんで、戦線は冬に入って膠着する。翌年1月の黒溝台会戦では、ロシア軍の冬季攻勢で日本の左翼が崩れかけ、騎兵を率いた秋山好古らが必死に持ちこたえた。秋山真之の兄だ。
その裏で、旅順では第3軍が要塞と格闘していた。乃木希典が率いたこの軍は、数度の総攻撃で甚大な損害を出し、1904年12月にようやく203高地を落とし、1905年1月に要塞を降伏させた。旅順の戦いは日露戦争の中でも特に重いテーマなので、詳しくは旅順攻囲戦の解説と乃木希典の生涯に譲る。
そして1905年3月の奉天会戦。日本軍およそ25万、ロシア軍30万以上という、当時の世界で最大級の陸上戦闘だった。日本は旅順から回ってきた第3軍も投入して大きく回り込み、ロシア軍を退却させた。3月10日に奉天を占領し、この日はのちに陸軍記念日になる。
ただ、冒頭に書いたとおり、ここで日本陸軍は力尽きた。ロシア軍はまだ北に大軍を残していて、シベリア鉄道で増援も届き続けていた。日本にはもう、それを追いかけて決定的な一撃を加える兵も弾もなかった。陸の戦いは、実質的に引き分けに近い形で止まったのだ。
この戦争で日本が動員した兵力は、延べで100万人を超えた。当時の人口は5,000万人足らずだから、働き盛りの男性のかなりの割合が戦場に送られたことになる。農村から若者がいなくなり、家族は重い税と国債の割り当てに耐えた。戦場で勝ち続けることと、国がそれを続けられることは、まったく別の話だった。
海の戦い:旅順艦隊とバルチック艦隊

資料:Cassell’s/出典・利用条件(Public domain)
海では、日本は二つの艦隊を相手にしなければならなかった。旅順にいる太平洋艦隊と、ヨーロッパから回ってくるバルチック艦隊だ。この二つが合流したら、日本の連合艦隊は数で負ける。だから、合流する前に片方ずつ潰す必要があった。
1904年8月の黄海海戦で、旅順を脱出してウラジオストクへ向かおうとした太平洋艦隊を、連合艦隊が迎え撃った。決定的な撃滅には至らなかったが、旗艦が被弾して艦隊は散り散りになり、大半は旅順に逃げ戻った。その後、旅順の艦隊は、203高地からの観測に基づく砲撃で港の中で沈められていく。陸軍の旅順攻撃が、海軍にとっても死活問題だったのはこのためだ。
そして1905年5月27日から28日、対馬沖の日本海海戦。半年以上かけて地球を半周してきたバルチック艦隊を、連合艦隊が迎え撃った。結果は、ロシア艦隊のほぼ全滅に対して、日本の損失は水雷艇3隻という、海戦の歴史でもまれな一方的な勝利だった。東郷ターン、信濃丸の「敵艦見ゆ」の一報、丁字戦法の真偽といった話は、日本海海戦の解説で詳しく書いた。
技術ファン目線:連合艦隊を勝たせた「見えない技術」
技術好きとして、ここは少し寄り道させてほしい。日本海海戦の勝利には、派手な艦隊運動の陰に、いくつかの技術があった。
一つは無線だ。日本海軍は開戦前の1903年に、国産の三六式無線電信機を採用していた。哨戒中の仮装巡洋艦「信濃丸」がバルチック艦隊を見つけ、その情報が無線で次々に中継されて、旗艦「三笠」まで届いた。敵の位置を早く正確に知ることが、そのまま勝敗に直結した。100年以上前のネットワーク戦と言ってもいい。
もう一つは砲弾だ。下瀬雅允が開発した下瀬火薬(ピクリン酸系の高性能炸薬)と、敏感に作動する伊集院信管の組み合わせで、日本の砲弾は命中すると激しく燃え上がり、ロシア艦の上部構造や乗員を焼いた。装甲を貫けなくても、艦を戦えない状態にできたのだ。ただ、この砲弾は扱いが難しく、日本側でも砲身の中で暴発する事故に悩まされた。そのあたりは腔発の解説にも書いている。
そして旗艦の「三笠」は、イギリスのヴィッカース社で造られた最新鋭の戦艦だった。当時の日本は、主力艦を自前で造る力をまだ持っていなかった。日英同盟は、外交だけでなく、軍艦や石炭といったハードの面でも日本を支えていたのだ。のちの英国生まれの戦艦の話は戦艦金剛の解説へ。
日本海軍の艦艇の系譜を一冊で追いたい人には、この本がいい。三笠から大和まで、技術の流れがつながって見える。
ロシア側から見た日露戦争:負けるべくして負けたのか
日本側の話ばかりだと見えないことがあるので、ロシア側の事情も書いておく。
満州のロシア軍を率いたクロパトキンは、もともと陸軍大臣を務めた実力者で、日本軍を甘く見ていたわけではない。彼の基本的な考えは、無理に決戦をせず、後ろに下がりながら時間を稼ぎ、シベリア鉄道で十分な兵力が集まってから反撃する、というものだった。広大な国土を持つロシアらしい、理にかなった戦い方だ。実際、遼陽でも奉天でも、ロシア軍は崩壊する前に退いている。
問題は、その「時間」が、ロシアの国内事情でどんどん目減りしていったことだ。負けが続く戦争に国民の不満は高まり、1905年には各地でストライキや反乱が起きた。黒海艦隊の戦艦ポチョムキンで水兵が反乱を起こしたのも、この年の6月だ。クロパトキンの「待てば勝てる」は、軍事的には正しくても、政治的には待てない戦略になってしまった。
海のほうはもっと悲惨だった。バルチック艦隊は、1904年10月にバルト海を出発すると、北海でイギリスの漁船団を日本の水雷艇と見間違えて砲撃するという大失態を演じる。ドッガーバンク事件だ。イギリスは激怒し、艦隊は日英同盟のイギリスが押さえる港や良質な石炭をほとんど使えないまま、アフリカの南端を回って半年以上も航海を続けることになった。
石炭を甲板にまで積み上げ、熱帯の暑さに耐え、乗員の士気も艦の状態も落ちた艦隊が、ようやくたどり着いたのが対馬沖だった。日本海海戦の一方的な結果は、東郷の采配だけでなく、この長すぎる航海と、それを強いた日英同盟の効果でもあったのだ。
ロシアは負けるべくして負けたのか。私は半分そうで、半分違うと思っている。陸の戦い方は筋が通っていたし、もう少し国内がもてば、日本は本当に危なかった。ロシアを負かしたのは、日本軍だけでなく、ロシアの国内政治とイギリスだった、と言ったほうが近い。
戦場の外で勝った戦争:外交・金融・情報

資料:撮影者不詳/出典・利用条件(Public domain)
ここからが、この記事で一番書きたかったところだ。
日露戦争の勝因を戦場だけに求めると、どうしても説明がつかない。国力8倍の相手に、戦場で勝ち切れなかったのに、なぜ講和に持ち込めたのか。答えは戦場の外にある。
外交:最初から「終わらせ方」を考えていた
日本の指導者たちは、開戦の時点で、ロシアを完全に打ち負かせるとは思っていなかった。だから戦争を始める前から、どうやって終わらせるかを考えていた。
1902年の日英同盟は、その土台だった。イギリスは直接参戦はしないが、ロシア側に別の国が加われば日本側で参戦する、という約束だ。これでフランスやドイツがロシアを助けて参戦する道が、事実上ふさがれた。三国干渉のような袋叩きは、もう起きない。
さらに日本は、開戦と同時に金子堅太郎をアメリカに送り込んだ。金子はセオドア・ルーズベルト大統領とハーバード大学の同窓で、個人的なつながりがあった。アメリカの世論を日本寄りにし、いざというときに講和の仲介をしてもらうための布石だ。実際、日本海海戦のあと、講和を仲介したのはルーズベルトだった。
金融:戦費の大半は借金だった
日露戦争の戦費は20億円あまりで、日清戦争のおよそ10倍に達した。当時の日本の国家予算の何年分にもあたる金額だ。
国税庁の資料によれば、戦争中に2度の非常特別税で地租や所得税などを引き上げ、相続税や通行税も新しくつくったが、それでも増税でまかなえたのは全体の1割ほどにすぎなかった。残りの大部分は、国内と海外で借金をして集めた。
この海外での借金、つまり外債の募集に奔走したのが、日本銀行副総裁だった高橋是清だ。開戦直後、日本の勝ちを信じる投資家はほとんどいなかった。ロンドンで苦戦していた高橋を救ったのが、アメリカの銀行家ジェイコブ・シフだった。シフは帝政ロシアのユダヤ人迫害に強い反感を持っていて、1904年5月の最初の外債では、引受額のおよそ半分を自分の銀行で引き受けた。
投資家として面白いのは、外債の値段が戦況と連動していたことだ。日本が勝つたびに日本の外債は買われ、次の募集の条件もよくなった。逆に負ければ、金が集まらなくなる。日本は戦場で勝ち続けなければ、戦争を続けるお金そのものが手に入らなかった。日露戦争は、ロンドンとニューヨークの金融市場でも戦われていたのだ。
ちなみに、今も私たちが払っている相続税は、もともとこの日露戦争の戦費をまかなうために1905年に生まれた税金だ。戦争のために始まった税が、戦争が終わってからも100年以上残っている。今の防衛増税の議論を見ていると、この話を思い出さずにはいられない。
情報:明石元二郎という「一人の師団」
もう一人、忘れてはいけない人がいる。陸軍の明石元二郎だ。
明石はヨーロッパを拠点に、ロシア国内の反政府勢力や、ロシアの支配下にあったフィンランドやポーランドの独立運動家と接触し、資金を流して、ロシアの後方を揺さぶる工作を進めた。その資金は当時の100万円にのぼったとも言われる。この工作がロシア革命の動きにどこまで効いたかは今でも議論があるが、ドイツ皇帝が「明石一人で満州の日本軍20万に匹敵する」と評したという話が残っているほど、存在感は大きかった。
戦場で勝ち切れない国が、外交で味方を固め、金融で戦費を集め、情報で敵の背中を揺らす。日露戦争の日本は、持っている手札を全部使って戦っていた。現代の情報機関については日本の情報機関一覧も参考になる。
ポーツマス条約と日比谷焼打事件:「勝ったのに」怒った国民
1905年8月、アメリカのポーツマスで講和会議が開かれた。日本の全権は外務大臣の小村寿太郎だ。
日本が得たのは、韓国に対する優越権の承認、旅順・大連を含む遼東半島南部の租借権、長春以南の鉄道(のちの南満州鉄道)とその付属の権利、そして樺太の南半分だった。一方で、日本が強く求めた賠償金は1円も取れなかった。
ロシアの全権ウィッテは、ロシアは戦争に負けていない、と最後まで突っぱねた。陸では奉天の北にまだ大軍がいる、続けたければ続けよう、というわけだ。そして日本には、もう戦争を続ける力がなかった。小村は賠償金をあきらめて、調印した。
国民はこれに激怒した。新聞は勝利ばかりを伝えていて、日本がどれだけ追い詰められていたかを国民は知らされていなかったからだ。重い税と国債に耐え、多くの家族を戦場に送り出した人たちからすれば、賠償金ゼロは裏切りにしか見えなかった。
講和条約の調印と同じ1905年9月5日、東京の日比谷公園で開かれた講和反対の集会が暴動になり、内務大臣の官邸や交番、講和を支持した新聞社などが焼き打ちされた。日比谷焼打事件だ。政府は翌日、東京に戒厳令を敷いた。
私はこの事件に、日露戦争のもう一つの顔を見る。政府は戦争を終わらせることには成功したが、国民に本当のことを伝えることには失敗した。そして「勝った」という物語だけが、国民の記憶に残った。この物語が、のちに日本を縛ることになる。
技術ファン目線:日露戦争は「第一次世界大戦の予告編」だった
もう一度、技術の話に戻る。
日露戦争の陸の戦場には、機関銃、鉄条網、塹壕、大口径の榴弾砲がそろっていた。要塞に向かって歩兵が突撃すると、機関銃でなぎ倒される。だから兵は穴を掘って、少しずつ前に進む。旅順で起きたのは、まさにそういう戦いだった。
10年後の第一次世界大戦では、ヨーロッパの西部戦線で、同じことがもっと大きな規模で繰り返される。各国の観戦武官は満州で塹壕戦の恐ろしさを見ていたはずなのに、ヨーロッパの軍隊はその教訓を十分に生かせなかった。第一次世界大戦の戦場については第一次世界大戦の激戦地ランキングで書いた。
そして、教訓を生かせなかったのは、勝った日本も同じだった。
“勝ちすぎた”ことが太平洋戦争に残したもの

資料:Underwood & Underwood, publisher/出典・利用条件(Public domain)
日露戦争は、日本にとって間違いなく大きな成功だった。アジアの国が近代の戦争でヨーロッパの大国を退けたことは、世界に衝撃を与えた。不平等条約の改正も進み、日本は列強の仲間入りを果たした。
でも、その成功には、毒も混ざっていた。私は大きく3つあると思っている。
海軍:「もう一度、日本海海戦を」
一つ目は、海軍の艦隊決戦への固執だ。
日本海海戦があまりに鮮やかな勝利だったために、日本海軍は「戦艦同士の決戦で敵の主力艦隊を一挙に撃滅すれば戦争に勝てる」という考えから抜け出せなくなった。太平洋のどこかでアメリカ艦隊を待ち受け、潜水艦や航空機で数を減らしたうえで、最後に戦艦で決着をつける。この「漸減邀撃」の構想は、日本海海戦の再現を夢見たものだった。
でも太平洋戦争では、アメリカは日本が望む形の決戦には応じなかった。日本海軍は、来ない決戦を待ちながら、空母と潜水艦と補給線の戦いでじわじわと削られていった。このあたりは日本海軍はなぜ敗れたのかで詳しく書いた。
陸軍:「精神力で勝った」という誤読
二つ目は、陸軍の白兵主義と精神主義だ。
旅順や奉天で日本陸軍が苦しんだ本当の理由は、砲弾と兵站の不足だった。ところが戦後、陸軍の中では「最後は銃剣突撃と精神力で勝った」という物語が強くなっていく。1909年に改められた歩兵操典は、白兵突撃を戦闘の決め手として重視するものになった。
弾が足りなかったという反省より、足りないのに勝ったという誇りのほうが前に出てしまった。日本は弾薬を作る力で列強に劣っていたから、それを精神力で補うしかない、という理屈は、太平洋戦争の補給軽視や無理な突撃にまでつながっていく。のちのノモンハン事件で、ソ連軍の火力と機械化の前に大きな損害を出したとき、その限界は一度はっきり見えていたはずだった。詳しくはノモンハン事件の解説へ。
組織が成功体験から学べなくなる、という話を突き詰めて考えたいなら、この本は外せない。日露戦争の成功が、のちの失敗の種になった構造がよくわかる。
満州:手に入れた権益が、次の戦争を呼んだ
三つ目は、満州だ。
ポーツマス条約で日本は南満州の鉄道と権益を手に入れた。じつは講和の直後、アメリカの鉄道王ハリマンが、この鉄道を日米で共同経営しようと持ちかけてきたことがある。桂太郎首相はいったん乗り気になったが、ポーツマスから帰国した小村寿太郎が猛反対して、話は流れた。多くの血を流して得た権益を、アメリカと分け合うわけにはいかない、という理屈だった。
気持ちはわかる。でも、もしこのとき満州にアメリカの資本が入っていたら、日米関係はかなり違う道をたどったかもしれない、と私は考えてしまう。実際には、満州をめぐって日米の利害は次第にぶつかるようになっていった。
そして、満州の権益を守るために置かれた部隊が、のちの関東軍になる。1931年、その関東軍の参謀たちが満州事変を起こし、日本は泥沼の道に踏み出した。日露戦争で得たものを守るための軍隊が、次の大きな戦争の引き金を引いたのだ。満州事変の中心人物については石原莞爾の解説にまとめてある。
日露戦争で亡くなった日本の将兵は8万人を超えると言われる。その犠牲の重さが、「この土地は手放せない」という感情を生み、それが40年後の破局につながっていった。私はここに、日露戦争の一番苦い教訓があると思っている。
朝鮮半島:もう一つの当事者
もう一つ、日本側の視点だけで日露戦争を語ると抜け落ちるものがある。朝鮮半島だ。
日露戦争は、もともと朝鮮半島と満州をどちらが押さえるかをめぐる戦争だった。そして戦場の一部は朝鮮半島そのものだった。戦争の勝利によって、日本は韓国に対する優越権をロシアに認めさせ、1905年には韓国の外交権を奪う第二次日韓協約を結び、1910年には韓国を併合する。
日本にとっての「国の存亡をかけた防衛戦争」は、韓国にとっては、自分の国の運命を自分で決められなくなっていく過程でもあった。同じ戦争でも、どこから見るかで意味がまったく変わる。ミリタリーの歴史を楽しむ者として、ここは忘れずにいたいと思っている。
自衛隊ファンとして:いまに残っているもの
日露戦争は、もう120年前の話だ。でも、今の自衛隊を見ていると、あの戦争の教訓がそのまま現代の課題として並んでいることに気づく。
弾薬を作る力と備蓄。遼陽で砲弾が足りなくなった話は、ウクライナの戦場で砲弾不足が問題になった今と、驚くほど重なる。いま防衛費の議論で「継戦能力」や「持続性」という言葉が繰り返されるのは、偶然ではない。
同盟と外交。日英同盟がなければ、日本は日露戦争を始めることすらできなかったかもしれない。今の日米同盟や、オーストラリア、イギリスとの協力も、同じ発想の延長線上にある。
お金。戦費の大半を借金でまかなった日露戦争は、戦争が財政の戦いでもあることを教えている。防衛費を増やすなら、その財源をどうするかは避けて通れない。
情報。敵の位置を無線でいち早く知った連合艦隊と、敵の後方を揺さぶった明石元二郎。情報を制する者が戦いを制する、というのは今も変わらない。
そしてもう一つ、日露戦争の空気に直接触れられる場所が、今も残っている。横須賀の三笠公園に保存されている記念艦「三笠」だ。日本海海戦で東郷平八郎が立った艦橋に、実際に上ることができる。戦後は一時ひどく荒れ果て、娯楽施設のように使われた時期もあったが、国内外の人々の働きかけで修復され、今の姿になった。目の前の海には海上自衛隊や米海軍の艦艇が行き交っていて、120年前と今が同じ視界に収まる。この艦の数奇な一生は、別の記事でじっくり書くつもりだ。
日露戦争の日本は、戦場で勝ち切れなかったのに、戦争を終わらせることができた。その理由は、外交、金融、情報という戦場の外の力にあった。そして、その本当の勝因を忘れて「勝った」という物語だけを抱え込んだとき、日本は道を誤った。
私はこれが、日露戦争から今の私たちが受け取れる一番大事なメッセージだと思う。
よくある疑問に短く答える
結局、日露戦争は日本の勝ちだったのか
国際的には日本の勝利とされているし、日本は講和で多くのものを得た。ただ、ロシア軍を壊滅させたわけではなく、ロシア本土にはまったく手が届いていない。戦略目標を達成して有利な条件で戦争を終わらせた、という意味での勝利であって、相手を屈服させた勝利ではなかった。私は「判定勝ち」と表現するのが一番しっくりくると思っている。ボクシングで言えば、ダウンは何度も奪ったが、ノックアウトはできないまま最終ラウンドのゴングが鳴った、という感じだ。
なぜ賠償金を取れなかったのか
一言で言えば、日本にもう戦う力がなかったからだ。ロシアは「まだ負けていない、続けてもいい」と言い張れたが、日本は続けられなかった。交渉で強気に出られるのは、交渉が決裂しても困らない側だ。小村寿太郎が弱腰だったのではなく、日本の手札が尽きていた。
東郷ターンは本当に名采配だったのか
敵前で艦隊の向きを大きく変えるのは危険な賭けで、そこには今も評価が分かれる部分がある。ただ、日本海海戦の勝因は東郷ターン一つではなく、無線による索敵、砲撃の訓練、砲弾の威力、そしてバルチック艦隊の疲弊が重なった結果だ。詳しい検証は日本海海戦の記事で書いている。
『坂の上の雲』はどこまで史実なのか
大筋の流れや人物の配置は史実に沿っているが、小説なので、会話や人物の評価には司馬遼太郎の解釈がかなり入っている。とくに乃木希典の描き方については、史家のあいだでも異論が多い。物語として楽しみつつ、気になったところは史料や研究書で確かめる、という読み方がいいと思う。
もっと深く知りたい人へ

日露戦争を物語として味わうなら、やはり司馬遼太郎の『坂の上の雲』だろう。秋山好古・真之の兄弟と正岡子規を軸に、明治という時代そのものを描いた大作で、この戦争に興味を持った人の多くが、ここから入っている。小説なので史実との違いには注意が要るが、時代の空気をつかむにはこれ以上のものはないと思う。
秋山兄弟と正岡子規のふるさと、愛媛県松山市には「坂の上の雲ミュージアム」もある。小説の世界と明治という時代を、建物ごと味わえる場所で、日露戦争に興味を持ったら一度は訪ねてみてほしい。
長い本を読む時間がない人は、耳で聴くのもいい。通勤や家事のあいだに戦史を聴くようになってから、私の読書量はかなり増えた。
日本海軍の全体像を写真と図で一気につかみたいなら、こちら。日露戦争の艦艇から太平洋戦争まで、ビジュアルで追える。
この記事から先は、本文中のリンクから、それぞれの戦いや人物の記事に進んでほしい。陸の戦いなら旅順攻囲戦、海の戦いなら日本海海戦、人物なら乃木希典の記事がある。東郷平八郎、秋山真之、戦艦三笠、そして日清戦争の記事も、これから順に書いていくつもりだ。
明治の日本人がどうやってあの戦争を始め、どうやって終わらせたのか。そこを知ると、今のニュースの見え方も少し変わってくる。







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