日本海海戦を設計した天才参謀は、なぜ晩年に宗教へ傾いたのか|秋山真之の生涯

日本海海戦を設計した天才参謀は、なぜ晩年に宗教へ傾いたのか|秋山真之の生涯

1918年2月、神奈川県の小田原。49歳の海軍中将が、友人の別荘で息を引き取った。秋山真之。13年前、日本海海戦の作戦を練り上げ、「天気晴朗なれども波高し」の一文を書いた男だ。

日本海海戦の勝利は、秋山の頭脳なしには語れない。司馬遼太郎の『坂の上の雲』で主人公の一人として描かれたこともあって、今では明治の海軍でいちばん有名な参謀と言っていい。

でも、私が秋山という人に強く惹かれるのは、海戦の天才だったからだけではない。あれほど合理的で、数字と図表で戦争を考え抜いた人が、晩年には宗教や霊の世界に深く傾いていった。その落差に、ずっと引っかかっている。

この記事は、秋山真之の一生を追いながら、その理由を考えてみる。日本海海戦そのものの詳細は日本海海戦の解説に譲り、ここでは人物に焦点を当てる。

目次

秋山真之を一言で

連合艦隊参謀・秋山真之
連合艦隊参謀・秋山真之。
資料:撮影者不詳/出典・利用条件(Public domain)
項目 内容
生没 1868年(慶応4年)〜1918年2月4日
出身 伊予国松山(愛媛県松山市)
最終階級 海軍中将
学歴 海軍兵学校(17期)を首席で卒業
代表的な役割 日露戦争の連合艦隊先任参謀(作戦担当)
兄 秋山好古(陸軍大将、日本騎兵の父)
親友 正岡子規(俳人)

松山の貧乏士族の家に生まれて

秋山真之は、伊予松山藩の下級武士の家に生まれた。明治維新の年だ。松山藩は戊辰戦争で幕府側についたため、明治になってからの立場は苦しく、秋山家も貧しかった。

5人兄弟の末っ子だった真之が生まれたとき、両親は育てきれずに寺へ出そうかと考えたという話が残っている。それを止めたのが、10歳ほど年上の兄の好古だった。「おれが勉強して、豆腐ほどの厚みのお金をこしらえるから」と言って、弟を家に残させたと伝えられる。

この兄・好古は、のちに陸軍で日本の騎兵を一から育て上げ、日露戦争の黒溝台会戦などでロシアの大騎兵団と渡り合うことになる。好古は、学費のかからない師範学校を経て陸軍士官学校に進み、フランスに留学して騎兵を学んだ。当時の日本の馬は小さく、騎兵の歴史もほとんどない。そんな中で、ヨーロッパ最強とも言われたロシアのコサック騎兵と戦える部隊を、一からつくり上げなければならなかった。好古は、騎兵に機関銃を持たせ、馬から降りて陣地で戦わせるという工夫で、数で勝るロシア騎兵に立ち向かった。「日本騎兵の父」と呼ばれるのは、このためだ。

兄は陸、弟は海。秋山兄弟は、明治の日本が近代国家として立ち上がっていく姿そのものだった。そして、貧しい家から身を立てるために学費のかからない道を選び、その先で国の運命を背負う立場にまで上っていったという点で、二人はよく似ていた。

正岡子規との青春:文学をあきらめた海軍士官

少年時代の真之の一番の友だちが、同じ松山の正岡子規だった。

二人はそろって東京に出て、大学予備門(のちの第一高等学校)に通った。子規は文学に、真之もまた文学に夢中になっていた。真之は文才があり、若いころは子規と一緒に文学の道を夢見ていたとも言われる。

でも、真之は途中で予備門をやめ、海軍兵学校に進む。学費がかからないうえに給料まで出る学校だったからだ。兄の好古に学費を頼り続けるわけにはいかない、という事情もあったと思う。親友と夢を分かれ、真之は軍人の道を選んだ。

ちなみに子規は、この予備門の時代に、アメリカから伝わったばかりの野球にも夢中になった。のちに「打者」「走者」「直球」といった野球の言葉を日本語に訳したのも子規だと言われている。真之と子規は、本を読み、文学を語り、ときにはボールを追いかける、ごく普通の明治の青年だったのだ。

子規はその後、俳句と短歌の革新に生涯をささげ、結核と闘いながら、1902年に34歳で亡くなる。日露戦争が始まる2年前のことだ。親友がいない世界で、真之は日本海海戦を迎えることになる。

文学をあきらめた真之が、のちに海戦の報告電報で後世に残る名文を書くことになるのは、なんとも皮肉で、少し救われる話でもある。

海軍兵学校を首席で:「型破り」な秀才

海軍兵学校での真之は、ずば抜けていた。1890年、17期を首席で卒業している。

要点

この頭の使い方は、のちに戦術の研究で大きく花開く。

卒業後の真之は、日清戦争に巡洋艦「筑紫」の乗組員として加わった。小さな旧式艦で、華々しい活躍の場はほとんどなかったが、近代の海戦を自分の目で見たことは大きかった。日本の艦隊が、巨大な戦艦を持つ清国の北洋艦隊を、速力と速射砲の手数で圧倒していく。艦の大きさではなく、使い方で勝敗が決まる。真之はこの戦争から、そのことを学んだのだと思う。

アメリカ留学:マハンと、サンチャゴの閉塞作戦

日清戦争に巡洋艦の乗組員として加わったあと、1897年、真之はアメリカに留学する。

ここで真之は、海軍戦略の大家アルフレッド・セイヤー・マハンを訪ね、教えを受けた。マハンは『海上権力史論』で知られる、当時世界でもっとも影響力のあった海軍思想家だ。真之はマハンから、何をどう学ぶべきかの助言を受け、膨大な戦史を読み込んでいった。

そして1898年、米西戦争が起きる。真之は観戦武官として、キューバのサンチャゴ港をめぐるアメリカ海軍の作戦を間近で見た。アメリカ海軍は、スペイン艦隊が閉じこもった港の入口に古い船を沈めて塞ごうとする「閉塞作戦」を試みた。真之はこの作戦を詳しく分析した報告書を書いている。

この経験は、6年後に直接つながる。日露戦争で、連合艦隊は旅順港に閉じこもったロシア艦隊を封じ込めるため、まさに同じ閉塞作戦を繰り返すことになるのだ。

技術好きとして面白いと思うのは、真之が「戦争を見る目」を持っていたことだ。何が起きたかではなく、なぜそうなったか、自分たちならどうするか。真之は戦場を、教科書として読んでいた。

海軍大学校の教官:日本海軍の戦術をつくった人

日露戦争当時の連合艦隊幹部
日露戦争当時の連合艦隊幹部。
資料:伊藤正徳の掲載資料(原写真の撮影者不詳)/出典・利用条件(Public domain)

帰国した真之は、1902年から海軍大学校で戦術を教える教官になる。ここで真之は、日本海軍の戦術を体系化していった。

ここで面白いのが、真之が西洋の戦術だけでなく、日本の古い兵法も研究していたことだ。瀬戸内海で活躍した村上水軍の兵法書を読み込み、そこから着想を得たとも言われている。西洋の最新の海軍理論と、日本の古い水軍の知恵。その両方を組み合わせるところに、真之の独創性があった。

真之が教えた戦術の考え方は、単に艦の動かし方ではなかった。敵の意図を読み、自分の弱点を知り、勝つための条件をつくる。そのための思考の型を、士官たちに叩き込んだ。

技術ファン目線:「図上演習」で戦争をシミュレーションした

技術好きとして、もう一つ書いておきたいのが、図上演習の話だ。

真之は海軍大学校で、机の上の海図に艦隊の駒を並べ、敵と味方に分かれて動かしながら作戦を検討するやり方を重視した。今で言えば、戦争のシミュレーションだ。敵がこう動いたら、こちらはどう動くか。何通りものパターンを試し、どの場面でどの判断が必要になるかを、実際の戦いの前に頭の中で何度も経験しておく。

日本海海戦の前にも、連合艦隊ではこうした検討が繰り返されたと言われる。七段構えの作戦が、敵がどう出てきても対応できる何重もの網になっていたのは、この「事前に何度も戦っておく」発想があったからだと思う。

今の自衛隊でも、図上演習やコンピューターを使ったシミュレーションは作戦研究の基本になっている。120年前に真之がやっていたことは、形を変えて今も続いているのだ。

日露戦争:連合艦隊の頭脳

呉で撮影された戦艦三笠(1905年2月)
呉で撮影された戦艦三笠(1905年2月)。
資料:撮影者不詳/出典・利用条件(Public domain)

1904年、日露戦争が始まると、真之は連合艦隊の先任参謀、つまり作戦を立てる責任者として、司令長官・東郷平八郎のそばに仕えた。戦争の全体像は日露戦争の全体像で、東郷については東郷平八郎の解説で書いているので、ここでは真之の役割に絞る。

旅順で苦しみ、陸軍を急かした

開戦直後、真之は旅順港のロシア艦隊を封じ込める作戦に取り組んだ。アメリカで見たサンチャゴの閉塞作戦を、自分の手で実行することになったのだ。しかし旅順の閉塞は何度試みても完全には成功せず、多くの犠牲を出した。

港の中にロシア艦隊が健在なうちは、連合艦隊は旅順から離れられない。そこにバルチック艦隊がヨーロッパから来れば、挟み撃ちになる。真之は、陸軍に旅順港を見下ろせる203高地を早く落としてほしいと、焦りを募らせていたと言われる。203高地からの観測で港の艦隊に砲撃を集中できれば、海軍は旅順から解放されるからだ。このあたりの陸海軍の駆け引きは旅順攻囲戦の解説で書いた。

七段構えの戦法

バルチック艦隊を迎え撃つために、真之が練り上げたのが「七段構え」の作戦だと言われている。

対馬海峡にやってくる敵艦隊を、昼の主力艦隊同士の決戦だけでなく、夜の駆逐艦や水雷艇による魚雷攻撃、翌日の追撃と、何段階にも分けて繰り返し叩く。一度の決戦で取り逃がしても、次の段、その次の段で必ず仕留める。黄海海戦で敵を取り逃がしかけた苦い経験が、この「取り逃がさないための何重もの網」という発想につながったのだと思う。

実際の日本海海戦では、初日の昼の決戦でほぼ勝負がつき、七段すべてを使うことはなかった。でも、何重にも構えていたからこそ、初日の決戦に全力を注げたとも言える。

「天気晴朗なれども波高し」

1905年5月27日の早朝、哨戒中の仮装巡洋艦「信濃丸」が、バルチック艦隊を発見した。この一報を受けて、連合艦隊は出撃する。そのとき東京の大本営に送られた電報の最後に、真之は一文を付け加えた。

「本日天気晴朗なれども波高し」。

天気が良く見通しがきくので、敵を逃がさずに戦える。一方で波が高いので、小さな艦艇は動きにくいが、射撃の訓練を積んだこちらの砲撃に有利だ。そんな意味を、たった一行に込めた。もともとは当日の天気予報をもとにした言葉だったが、真之の手で、戦いの見通しまで伝える名文になった。

電報の全文は「敵艦見ゆとの警報に接し、連合艦隊は直ちに出動、これを撃滅せんとす。本日天気晴朗なれども波高し」というものだった。前半は、いわば業務連絡だ。そこに最後の一文が加わったことで、ただの出撃報告が、戦いの前の緊張と決意を伝える文章になった。大本営でこれを読んだ人たちは、連合艦隊が勝つ自信を持って出ていったことを、行間から感じ取ったはずだ。

そして旗艦「三笠」のマストに揚がったZ旗の「皇国の興廃この一戦にあり、各員一層奮励努力せよ」という文言も、真之によるものとされる。文学をあきらめた青年は、日本の運命を決める海戦で、二つの名文を書いたのだ。

三笠という艦そのものの数奇な一生は、戦艦三笠の解説にまとめている。

海戦の翌日:降伏を受け入れに行った参謀

日本海海戦の翌日、5月28日。生き残ったロシア艦隊の一部が、ネボガトフ少将に率いられて連合艦隊に囲まれ、降伏の意思を示した。

このとき、降伏を受け入れる使者として敵の旗艦に乗り込んだのが、真之だったと伝えられている。降伏の旗が揚がったあとも、敵艦がまだ動いているとして、連合艦隊はしばらく砲撃を止めなかった。真之が東郷に砲撃の中止を求めたという話も残っている。

自分が設計した作戦で、目の前の敵艦隊が崩れていく。その最後の場面で、敵の艦に乗り込み、降伏した提督と向き合う。勝利の頂点にいたはずの真之が、このとき何を感じていたのかはわからない。でも私は、晩年の真之の迷いの始まりは、この日の海の上にあったのではないかと、つい考えてしまう。

天才参謀の「奇行」

真之は、天才であると同時に、かなりの変わり者だった。逸話はたくさん残っている。

軍服のポケットに炒り豆を入れていて、考えごとをしながらぼりぼり食べていた。風呂にもあまり入らず、身なりには無頓着だった。作戦を考えるときは、寝転がって天井を見つめ、何時間も動かないこともあった。食事中にも急に考え込んで、箸が止まったまま動かなくなった、という話もある。

どこまで本当かはわからない。でも、周りの人がそういう話を語り継ぎたくなるくらい、真之は「普通ではない」人だったのだろう。頭の中では、いつも艦隊が動いていたのだと思う。

こういう人が組織の中で力を発揮できたのは、東郷平八郎という、自分の案をじっと聞いてくれて、最後の責任を負ってくれる上司がいたからだ。天才の参謀と、それを使いこなす寡黙な司令長官。この組み合わせが、日本海海戦の勝利を生んだ。

参謀という仕事の難しさを考えるとき、私はいつも、太平洋戦争の陸軍の参謀たちのことを思い出す。作戦の神様と呼ばれながら、責任を取らなかった参謀もいれば、敵の動きを読み抜いて孤独に警告を発し続けた情報参謀もいた。その対比は辻政信の解説と堀栄三の解説で書いた。真之は、天才であっても、最後の判断と責任は司令長官に委ねるという、参謀の本分を外れなかった人だったと思う。

『坂の上の雲』の真之と、史実の真之

真之の名前を広く知らしめたのは、なんと言っても司馬遼太郎の『坂の上の雲』だ。2009年から2011年にかけてはNHKでドラマにもなり、真之の名前はさらに広まった。

小説の真之は、ひらめきに満ちた天才で、少し子どもっぽいところもある、魅力的な人物として描かれている。私もこの小説で真之を好きになった一人だ。

ただ、小説はあくまで小説だ。研究者の中には、日本海海戦の作戦を真之一人の功績のように描きすぎている、という指摘もある。実際には、参謀長の加藤友三郎をはじめ、多くの士官が作戦づくりに関わっていた。東郷ターンの判断も、最終的には司令長官の東郷が下したものだ。また、「天才の奇行」として語られる逸話の中にも、後から膨らんだものがあると考えられている。

だからといって、小説の価値が下がるわけではないと私は思う。史実の真之を知ったうえで小説を読み返すと、司馬遼太郎が真之のどこに惹かれ、何を描きたかったのかが、かえってよく見えてくる。小説と史実の両方を行き来するのが、一番楽しい読み方だ。

戦後の真之:勝利のあとの空白

東京で迎えられる東郷と海軍士官たち(1905年10月)
東京で迎えられる東郷と海軍士官たち(1905年10月)。
資料:Underwood & Underwood, publisher/出典・利用条件(Public domain)

日露戦争が終わると、真之は「連合艦隊解散の辞」を起草する。「勝って兜の緒を締めよ」で結ばれる、あの有名な文章だ。戦争に勝っても気をゆるめず、平時こそ訓練に励め、という戒めを、真之は格調の高い漢文調の文章で書き上げた。アメリカのセオドア・ルーズベルト大統領がこれに感銘を受け、英訳させて自国の軍に配ったという話も伝わっている。真之の文章は、海の向こうの大統領の心まで動かしたのだ。

ただ、戦後の真之は、目に見えて精彩を欠いていった。

日本海海戦で、真之は自分の考え抜いた作戦が完璧に近い形で実現するのを見た。でも、その勝利の陰で、多くの人が死んでいる。敵の艦隊では何千人もの水兵が海に沈み、味方にも戦死者が出た。旅順の閉塞作戦では、真之が関わった作戦で多くの部下を失った。

真之は、その重さを一人で抱え込んでいたのではないかと私は思う。作戦を立てる参謀は、自分の頭の中の計算で、人の生き死にを決めることになる。勝てば勝つほど、その計算の重さは本人にのしかかってくる。

その後、真之は軍艦の艦長や、海軍省の軍務局長などを務めるが、日露戦争のときのような輝きを取り戻すことはなかった。第一次世界大戦が始まると、ヨーロッパに出かけて戦争の様子を視察している。そこで真之が見たのは、国の総力を挙げて何年も続く、日露戦争とはまるで違う規模の戦争だった。塹壕で何十万人もの兵が向き合ったまま動けず、戦場には飛行機や潜水艦、毒ガスといった新しい兵器が次々に投入されていた。海の上でも、ドイツの潜水艦が商船を沈めて、イギリスの補給線を締め上げようとしていた。艦隊同士が一日で決着をつける日本海海戦のような戦いは、もう過去のものになりつつあった。

日本海海戦を設計した人間として、真之はこの光景をどんな思いで見たのだろう。自分が完成させた戦い方が、目の前で古くなっていく。それを誰よりも早く理解できたのは、たぶん真之自身だったと思う。

晩年:宗教と霊の世界へ

そして晩年の真之は、宗教の世界に深く傾いていく。

真之はさまざまな宗教や霊的な思想に関心を持ち、なかでも当時急速に信者を増やしていた新宗教の大本(おおもと)に強く惹かれたことが知られている。海軍の中にも大本に入信する人が出ていて、真之もその教えや予言の世界に近づいていった。

日本海海戦を数字と図表で設計した男が、なぜ目に見えない世界へと向かったのか。

私なりの3つの仮説

答えは本人にしかわからない。ここからは私の推測だが、3つの理由が重なっていたのではないかと考えている。

一つ目は、死者への思いだ。自分の作戦で死んでいった部下たち、海に沈んだ敵の水兵たち。その魂はどこへ行くのか。参謀として合理の極みで戦争を設計した人ほど、合理では答えの出ない問いに突き当たったのではないかと思う。

二つ目は、勝利の「説明のつかなさ」だ。日本海海戦の勝ち方は、あまりにも一方的だった。準備も作戦も完璧に近かったとはいえ、天候や敵の動き、偶然の一弾の命中など、人の力だけでは説明しきれない部分もあった。真之自身、あの勝利を「天佑」、つまり天の助けだと感じていたふしがある。勝利の中に人知を超えたものを見てしまった人が、その正体を知ろうとした、と考えることもできる。

三つ目は、時代の空気だ。第一次世界大戦で、真之はヨーロッパが総力戦で疲れ果てていく姿を見た。日本がいずれ同じような戦争に巻き込まれることを、誰よりも早く見通していたのかもしれない。その不安が、未来を語る宗教の予言に引き寄せられる理由になった、と見る人もいる。

どれか一つではなく、全部が少しずつ混ざっていたのだと思う。天才であることは、ときに、普通の人より深い孤独を背負うことでもある。

49歳の死

1918年2月4日、真之は小田原で亡くなった。虫垂炎から腹膜炎を起こしたのが原因だった。49歳。日本海海戦から、まだ13年しかたっていなかった。

息を引き取ったのは、親しくしていた実業家・山下亀三郎の別荘だった。山下は、第一次世界大戦の好景気で海運業で巨万の富を築いた人物で、いわゆる「船成金」の一人だ。日本海海戦の天才参謀と、戦争景気の海運王。この二人の友情も、明治から大正へと移っていく日本の姿を映しているように見える。

投資家目線:海軍中将と「船成金」の友情

山下亀三郎の話を、もう少しだけ書いておきたい。

第一次世界大戦が始まると、ヨーロッパの国々は自国の船を戦争に回したため、世界中で船が足りなくなった。運賃は跳ね上がり、船を持っている人は笑いが止まらないほど儲かった。山下は、この好景気の波に乗って一気に財を成した。

ところが大戦が終わると、1920年には反動の恐慌が日本を襲い、多くの成金が没落していく。戦争がつくった好景気は、戦争が終われば消える。この構図は、今の防衛関連株の話にも通じるところがあると思う。真之が亡くなったのは、まさにその好景気の真っただ中だった。もし真之が戦後の恐慌を見ていたら、戦争と経済の関係について、何を語っただろうか。

兄の好古は、弟より長く生き、1930年に亡くなるまで、晩年は故郷の松山で中学校の校長を務めた。陸軍大将まで上りつめた人が、最後は地元の子どもたちの教育に身をささげた。秋山兄弟の生き方の違いを考えると、私はいつも少し胸が詰まる。

秋山真之から何を学ぶか

真之の一生を追っていると、二つの顔が見えてくる。

一つは、徹底した合理主義者としての顔だ。戦史を読み込み、敵を分析し、勝つための条件を何重にも積み上げる。西洋の最新理論と日本の古い兵法を組み合わせる柔軟さもあった。この姿勢は、今の自衛隊の作戦立案や、ビジネスの戦略づくりにもそのまま通じると思う。

もう一つは、その合理の先で、答えの出ない問いに向き合い続けた人としての顔だ。人の生き死にを計算で決めることの重さを、真之は最後まで手放さなかった。宗教に傾いたことを「天才の晩年の迷走」と片づけるのは簡単だが、私はむしろ、それだけ真剣に戦争と向き合った人だったのだと受け止めたい。

戦争を合理で設計できる人は、今の時代にもいる。でも、その合理の結果として失われた命の重さまで背負い続けられる人は、そう多くないと思う。真之の晩年の迷いは、戦争を考える人間が最後まで忘れてはいけないものを、私たちに教えてくれているのかもしれない。

日露戦争の勝利は、のちの日本海軍に「決戦で勝てる」という思い込みを植えつけた。でも、その勝利を設計した張本人は、勝利のあとで深く迷い続けた。もし真之がもう少し長く生きて、海軍の中枢で発言を続けていたら、昭和の海軍は違う道を歩んだだろうか。私はときどき、そんなことを考える。第一次世界大戦で総力戦の時代を見た真之なら、日本海海戦の再現を夢見るような考え方には、誰よりも早く疑問を投げかけていたかもしれない。勝利の設計者だからこそ、その勝利にしがみつくことの危うさがわかったはずだ、と私は思いたい。

よくある疑問に短く答える

丁字戦法は秋山真之が考えたのか

敵の艦隊の進路の前に、自分の艦隊を横向きに並べて押さえる「丁字」の形は、真之以前から海軍の戦術として知られていた考え方だ。真之はそれを日本海軍の戦術として体系化し、日本海海戦での作戦に組み込んだ。発明者というより、完成させた人と言ったほうが近い。実際の海戦が理想どおりの丁字になったかどうかについては、今も議論がある。

秋山真之は大本の信者だったのか

大本に強い関心を持ち、その教えに近づいたことは確かだが、どこまで深く信仰していたかについては、資料によって見方が分かれる。晩年の真之は、大本だけでなく、仏教やほかの宗教、霊的な思想にも幅広く関心を向けていた。「信者だった」と言い切るより、「答えを探して、さまざまな宗教をめぐった」と言うほうが実像に近いと私は思っている。

秋山好古と真之、どちらがすごいのか

これは本当に比べられない。好古は、ゼロから日本の騎兵を育て、日露戦争の陸の戦場でロシアの大騎兵団を相手に持ちこたえた。真之は、海の戦場で日本の運命を決める作戦を設計した。ただ、生き方としては、晩年に故郷の子どもたちの教育に身をささげた好古のほうに、私は強く心を動かされる。

自衛隊ファンとして:いまに生きる真之の戦術

真之が海軍大学校で講じた戦術の講義録は、のちにまとめられて今も読むことができる。海上自衛隊の幹部教育でも、真之の考え方は研究の対象になっていると言われる。

もちろん、120年前の艦隊戦の戦術が、そのまま今の海上自衛隊に使えるわけではない。でも、敵の意図を読み、何重にも備え、事前に何度もシミュレーションしておく、という考え方は、ミサイルと無人機の時代になっても変わらない。真之が残した一番大きなものは、具体的な戦法よりも、この「考え方の型」だったのだと思う。

秋山真之ゆかりの地を訪ねる

横須賀で保存されている記念艦三笠(2010年撮影)
横須賀で保存されている記念艦三笠(2010年撮影)。
資料:Nesnad/出典・利用条件(CC BY-SA 3.0)

真之のふるさと、愛媛県松山市には、秋山兄弟の生家が復元されて公開されている。小さな家で、ここから陸軍大将と海軍中将が出たのかと思うと感慨深い。

そして松山には「坂の上の雲ミュージアム」もある。司馬遼太郎の小説の世界と、秋山兄弟や正岡子規が生きた明治という時代を、建物ごと味わえる場所だ。建物を設計したのは安藤忠雄で、建築そのものも見どころになっている。子規記念博物館や道後温泉、街の真ん中の山の上に建つ松山城もあるので、一泊して回るのがおすすめだ。路面電車で主な場所をほとんど回れるので、車がなくても困らない。秋山兄弟や子規が見上げたのと同じ城を見ながら歩くと、明治の松山の空気が少しだけ感じられる。

もっと深く知りたい人へ

書籍と地図を広げた読書机
回想録と別の記録を読み比べ、情報が届いた過程と使われた過程を分けて考える。

真之を知るなら、やはり司馬遼太郎の『坂の上の雲』から入るのがいい。真之、好古、子規の3人を軸に、明治という時代そのものを描いた大作だ。ただ、小説なので、人物の描き方や会話には作家の解釈が入っていることは頭に置いておきたい。

長い小説を読む時間がないなら、耳で聴くのもいい。『坂の上の雲』のような大長編こそ、通勤や家事のあいだに少しずつ聴き進めるのに向いていると思う。

真之が戦った日本海軍の艦艇の全体像を写真と図で見渡したいなら、こちらもおすすめだ。

秋山真之の生涯は、日露戦争の勝利と、その後の日本の歩みを考えるうえで、欠かせない一つのピースだ。次は、日露戦争の10年前、日本が初めて近代国家として戦った日清戦争について書くつもりでいる。

出典・参考資料

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軍研ノート編集部のアバター 軍研ノート編集部 自衛隊・兵器 / 戦史 / サバゲー

自衛隊で6年間勤務した編集長を中心に、自衛隊時代の仲間やサバゲーを通じた知人と記事を制作。経験と公開資料をもとに、装備の仕組みや歴史、その背景にある人々の工夫を掘り下げています。「かっこいい」から、その先の理解へ。編集長のプロフィール → 運営・編集方針

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