日本陸軍の将軍で「名将」と呼ばれる人は少ない。負けた軍隊だから当然だ。その少ない中で、実戦の現場を知る元軍人が口を揃えて最初に名前を挙げるのが宮崎繁三郎である。ノモンハンで唯一まともに勝った連隊長で、インパールではコヒマを落とし、作戦が崩壊すると殿軍を引き受けて負傷兵を置き去りにせずに帰ってきた。最後はビルマで師団長として、包囲網を突破して部下を連れて生き延びた。
それだけの戦績がありながら、宮崎は陸軍の中枢に一度も呼ばれなかった。参謀本部にも陸軍省にもほとんどいたことがなく、外回りの厳しい戦場ばかりを回された。戦後は東京の下北沢で陶器屋を開き、近所の人にも軍人だったことをほとんど話さず、1965年に静かに亡くなっている。
「不敗の名将」という呼び名は、正直に言えば少し盛られている。宮崎も負けているし、部下を大勢死なせている。ただ、日本陸軍の指揮官の中で「同じ状況に置かれたら、この人の下にいたい」と思わせる将軍は、私の知る限りこの人と栗林忠道くらいだ。この記事では宮崎が何をどう戦い、なぜ報われず、どう生きたかを追う。
宮崎繁三郎とは何者か、3分でつかむ
1892年、岐阜県の生まれ。岐阜中学から陸軍士官学校に進み、26期で卒業した。同期に硫黄島の栗林忠道がいる。陸軍大学校も出ているが、卒業成績は64人中29番。エリートコースに乗れる順位ではなかった。
1939年、新潟の新発田にあった歩兵第16連隊の連隊長としてノモンハン事件に出征し、停戦直前の9月にソ連軍から高地を奪って確保した。関東軍がぼろ負けした戦場で、ほぼ唯一の明確な戦果である。
1944年、少将として第31師団の歩兵団長になり、インパール作戦ではコヒマ攻略の左突進隊を率いた。作戦が崩壊し、師団長の佐藤幸徳が独断で撤退すると、宮崎は第15軍の撤退を守る殿軍を引き受け、負傷兵を担いだまま部隊を建制のまま連れ帰った。同年秋に中将、第54師団長としてビルマ西部のアラカン戦線に投入され、1945年7月にペグー山系を突破してシッタン河を渡り、終戦を迎えた。
戦後は東京・下北沢で「岐阜屋」という陶器小売店を開いた。1965年8月に亡くなるまで、その店の親父として暮らした。
階級で言えば中将止まり。作戦を立案した側ではなく、他人が立てた無茶な作戦の現場を任され続けた人である。
出世できなかった理由:幼年学校、陸大、派閥
宮崎がなぜ中枢に呼ばれなかったかは、経歴を見れば分かる。
日本陸軍の人事は、入口と成績でほぼ決まっていた。陸大を出ているかどうかで「天保銭組」と「無天組」に分かれ、無天組は原則として佐官で止まる。陸大を出ても、卒業時の成績上位者に授けられる恩賜の軍刀を受けた「軍刀組」でなければ参謀本部の作戦課には行けない。そして作戦課を通らなければ、軍の中枢で作戦を書く側には回れない。宮崎は陸大を出ているので無天組ではないが、軍刀組でもなかった。
日本陸軍のエリートは陸軍幼年学校から陸士に進む。宮崎は岐阜中学からの入学で、幼年学校の同窓の輪に入っていない。次に陸大の成績で、上位6人の恩賜組と、それに続く数人が参謀本部の中枢に行く。宮崎は64人中29番だった。さらに宮崎は陸軍内の派閥、皇道派にも統制派にも属していない。この三つが揃うと、どれだけ現場で結果を出しても人事の順番は回ってこない。
その結果、宮崎は「便利に使われた」。難しい戦場に投入され、結果を出し、次の難しい戦場に送られる。ノモンハンもインパールもアラカンも、全部そうだ。東條英機のような軍政官僚が中央を握り、辻政信のような参謀が作戦を書き、宮崎のような人間がその尻拭いをした。
これは日本陸軍の人事の構造そのもので、宮崎個人の不運ではない。同じように現場で結果を出しながら報われなかった将校は、中川州男も栗林も同じである。むしろ宮崎は、報われなかった側の人間が「それでも仕事をする」とどうなるかを見せた最良の例だ。
ノモンハン:唯一勝った連隊長

1939年夏のノモンハンで、関東軍の第23師団はソ連軍の機甲部隊に包囲殲滅された。8月末に戦線が崩壊し、日本側は第2師団や第4師団を慌てて送り込む。宮崎の歩兵第16連隊は第2師団の片山支隊の先頭として鉄道で送られ、下車と同時に「昼夜兼行で急進せよ」という命令を受けて、三日間ほぼ駆け足で戦場へ向かった。落伍者は出たが、翌日には全員が追いついている。
到着した戦場は悲惨だった。第23師団は兵力の7割以上を失い、部隊としての形をほとんど保っていない。ソ連軍は戦車と砲兵で圧倒的に優勢で、日本側の対戦車兵器は火炎瓶と肉薄攻撃が中心だった。この状況で新しく到着した連隊に求められたのは、崩れた戦線に穴を空けないことで、宮崎はまず連隊の配置を固め、夜間の偵察で敵の位置を確かめてから動いた。
9月上旬、宮崎の連隊はソ連軍が押さえていた高地に夜襲をかけ、奪取して確保した。関東軍全体が負け続けた中で、決められた目標を取って守り切った戦闘はこれだけと言っていい。
奪った高地は、ソ連軍の砲撃と反撃の中で停戦まで持ちこたえた。第23師団の残存部隊が次々と後退する中で、到着したばかりの連隊が最前線で陣地を守り続けたことになる。宮崎はここでも、夜間の偵察で敵の砲兵の位置を確かめ、昼間は兵を壕に入れて損害を抑えた。派手な突撃ではなく、取った場所を失わないための地味な作業が、この連隊の「勝ち」の中身だった。
ここで宮崎がやったことで有名な話がある。高地を取った後、彼は兵に石を集めさせ、連隊名と日付を刻んで地面に埋めさせた。停戦交渉になったとき、どこまで日本軍が実際に占領していたかを証明するためだ。ソ連との停戦は9月16日に成立し、その後の国境画定交渉で日本側が拠点を主張する根拠の一つになった。交渉は翌1940年6月まで続き、国境線はおおむねソ連・モンゴル側の主張に沿って引かれたが、宮崎の連隊が確保した一帯は日本側の線に残っている。負けた戦争の交渉で、自分の連隊が取った土地だけは取り返された形だ。石を埋めた連隊長の判断が、外交の場で効いた例として今も語られている。
私がこのエピソードを好きなのは、宮崎が「戦闘の先」を見ていたことだ。高地を取るのは軍人なら誰でもやる。取った後に外交交渉で使える証拠を残しておくところまで考える連隊長は、そうはいない。宮崎は勝ち方だけではなく、勝った後の始末まで含めて指揮していた。
ノモンハン全体の敗因と、それが北進論に与えた影響についてはノモンハン事件の記事で書いた。宮崎の戦いは、その大きな敗北の中の小さな例外だった。
インパール①:コヒマを落とすまで

インパール作戦がどういう作戦だったかを先に押さえておく。1944年3月、ビルマの第15軍がインド東部の英軍拠点インパールを攻略するために、第15師団、第33師団、第31師団の3個師団を国境のチンドウィン河から西へ送り込んだ。山を越え、ジャングルを抜け、3週間で目標に到達する計画で、補給は牛や羊を連れて歩き、途中で食べ、足りない分は英軍の物資を奪う前提だった。牟田口はこれを「ジンギスカン作戦」と呼んだ。3週間で終わるはずの作戦は7月まで続き、雨季と飢餓と病気で3万人以上が死んだ。撤退路に死体が並んだことから「白骨街道」の名が残っている。
作戦の全体像と敗因はインパール作戦の記事にまとめたので、ここでは宮崎の部隊が何をしたかに絞る。
第15軍司令官牟田口廉也が押し通したこの作戦は、補給を最初から放棄したまま3個師団をインド領内へ送り込んだ。第31師団の目標は北のコヒマで、インパールへの英軍の補給路を遮断する役目だった。
宮崎は第31師団の歩兵団長として、高田の歩兵第58連隊を基幹とする左突進隊を率いた。チンドウィン河を渡り、道のないアラカンの山を越えて、3週間でコヒマに到達している。普通ならこの行軍だけで部隊は疲弊するが、宮崎の部隊は4月初めにコヒマの町を攻撃し、数日で主要部を占領した。英軍から見れば「こんな早く来るはずがない」場所に来た部隊で、英印軍の記録でもこの時期の第58連隊の強さは特筆されている。
現地の戦闘で宮崎が何をしていたかは、防衛省が公開している元自衛官の記録に細かく残っている。ある高地の攻撃で部隊が頓挫したとき、宮崎は予備隊の中隊長を山頂に呼び、自分の目で敵の配置と地形を見せながら攻撃の方法を一つ一つ問答して理解させた。中隊長はそれを分隊長以上の全員に現地で伝え、部隊は「平時の演習のように整然と」攻撃して一時間足らずで高地を取った。
歩兵団長が一個中隊の攻撃をここまで細かく見ることは、当時の日本陸軍では珍しい。宮崎は「精神力で突っ込め」とは言わなかった。地形を見せ、方法を教え、それが伝わったことを確認してから前に出した。だから彼の部隊は、同じ突撃でも損害が少なく、しかも成功した。
インパール②:抗命、殿軍、そして負傷兵

コヒマを落としても補給は来なかった。牟田口の計画では英軍の補給物資を奪って戦う予定だったが、英軍は空輸でコヒマとインパールを支え続け、日本軍は雨季の中で餓え始めた。5月末、第31師団長の佐藤幸徳は「これ以上いれば師団が全滅する」として独断で撤退を命じた。日本陸軍史上ほぼ唯一の、師団長による抗命である。
このとき第15軍が宮崎に出した命令は、撤退する第15師団と第31師団の側面を守る殿軍だった。宮崎は歩兵第58連隊の残りを率いてインパールとコヒマを結ぶ街道に残り、6月下旬に英軍の南北両方向からの進撃が合流するまで持ちこたえた。第31師団の主力が撤退できたのは、宮崎の部隊が道を塞いでいたからだ。
殿軍という仕事について少し説明しておく。撤退は軍事行動の中で最も難しい。前に進むときは全員が同じ方向を向いているが、退くときは敵に背を向けるので、追撃されれば部隊は崩れる。だから誰かが最後尾で敵を止め続けなければならず、その役目を殿と呼ぶ。殿は一番危険で、一番損害が出て、一番評価されない。うまくいけば「主力が無事に退けた」ことが手柄になり、殿の部隊が何をしたかは記録に残りにくい。
宮崎に殿が回ってきたのは、彼の部隊が最も統制を保っていたからだ。統制のある部隊にしか殿はできない。裏を返せば、崩壊寸前の第15軍で、まともに動ける部隊は宮崎の歩兵第58連隊しか残っていなかったということでもある。宮崎はこの役目を1か月近く続け、その間に連隊はさらに削られた。
撤退中の宮崎部隊が他の部隊と違ったのは、負傷兵を捨てなかったことだ。インパールからの撤退路は「白骨街道」と呼ばれ、歩けなくなった兵は道端に残され、そのまま死んだ。宮崎は担架で運べる者は運び、運べない者にも護衛を付け、部隊の建制、つまり指揮の系統を崩さずにチンドウィン河まで戻った。日本軍のインパール撤退の記録で、指揮系統を保ったまま戻ってきた部隊は宮崎の部隊くらいで、英軍側もそれを「他と違う部隊」として記録している。
この撤退がどれだけ異常だったかは、日本軍の兵站はなぜ崩壊したのかの記事で書いた前提を知ると分かる。補給がない軍隊は撤退の途中で組織として溶ける。宮崎はその溶ける軍隊の中で、自分の部隊だけ溶かさなかった。
もう一つ書いておきたい。佐藤幸徳の抗命について、宮崎は戦後も佐藤を批判しなかった。上官の無謀な命令に部下の命を賭けることは、宮崎自身が最も嫌ったことだからだ。
敵から見た宮崎部隊
宮崎の評価で私が一番信用しているのは、日本側の証言ではなく英軍側の記録だ。味方は名将を作りたがるが、敵にはその動機がない。
コヒマで戦った英軍の将校で、戦後にラングーン郊外の捕虜収容所長を務めた人物は、収容した日本兵を前に、歩兵第58連隊ほど闘志が強く、粘り強く、勇敢な部隊を過去に見たことがないと語ったという記録が残っている。英軍第14軍を率いたスリム将軍の回想でも、コヒマとインパールの日本兵の粘りは、指揮官の無謀さとは別のものとして高く評価されている。
これは日本軍が強かったという話ではない。同じ日本兵でも、指揮官によって部隊の質がまったく違ったという話だ。牟田口の作戦は英軍から見ても無謀で、多くの日本軍部隊は飢えと病気で溶けていった。その中で「この部隊は違う」と敵に言わせた部隊が宮崎のところにあった。指揮官が変われば同じ兵がどこまで違う戦い方をするか、コヒマはその実験場だった。
コヒマの英連邦軍戦争墓地には、故郷に帰ったら私たちのことを伝えてほしい、あなたたちの明日のために私たちは今日を捧げた、という趣旨の碑文がある。英軍側にとってもコヒマはそれだけの犠牲を出した戦場で、その相手をしたのが宮崎の左突進隊だった。
第54師団長:ビルマ最後の突破

1944年秋、宮崎は中将に進級して第54師団長になった。第54師団はビルマ西海岸のアラカン戦線を守っていた師団で、1945年に入ると英軍の攻勢で戦線を維持できなくなる。
1945年春、英軍はラングーンを奪回し、ビルマの日本軍は東のタイ方面へ後退するしかなくなった。だが第54師団を含む第28軍はビルマ西部に取り残され、東へ帰るにはペグー山系という山地を越え、英軍が待ち構えるシッタン河を渡るしかなかった。7月、第28軍はこの突破作戦を決行する。雨季の増水したシッタン河を、空からも地上からも撃たれながら渡る作戦で、第28軍全体で見れば参加兵力の半分以上を失った。
その中で第54師団は、宮崎の指揮のもとで主力をまとめたまま山系を越え、河を渡った。ペグー山系は雨季には道が泥に沈み、部隊は装備を捨てて歩くしかなかった。英軍は日本軍の突破路を読んでいて、山を降りたところの平地とシッタン河の渡河点に火力を集中させた。第28軍の各部隊はばらばらに山を降り、河岸で撃たれ、渡河中に流された。その中で第54師団が師団の形を保って渡れたのは、宮崎が山を降りる前に部隊を集結させ、渡河点と時刻を決め、各隊に徹底させてから動かしたからだ。コヒマの高地でやったことと同じである。損害は大きかった。それでも師団として機能したまま対岸に着き、8月15日の終戦をそこで迎えている。宮崎の戦争は、勝ち戦から始まって、撤退と突破で終わった。三つの戦場で、彼は三つとも「部隊を連れて帰る」という仕事をやり遂げている。
宮崎繁三郎の戦い方、五つの型
宮崎の三つの戦場を並べると、共通する型が見える。私なりに整理すると五つになる。
一つ目、自分の目で地形を見る。コヒマの高地でも、ノモンハンでも、宮崎は前線に出て地形を見て、それを部下に見せた。地図と精神論で指揮する司令官が多かった中で、これは決定的な差だった。
二つ目、命令を具体化してから出す。「攻撃せよ」ではなく、どこからどう攻めるかを問答で確認してから出す。命令が現場に届いた時点で実行可能になっている。宮崎の部隊が「演習のように」動けた理由はこれだ。
三つ目、兵の飯と足を管理する。三日間の急進で落伍者を翌日に追及させたノモンハン、雨季のアラカンを建制のまま戻ったインパール。どちらも兵の体力の限界を指揮官が把握していたからできたことである。宮崎が死の床で「兵は飯を食っているか」と言ったという話が残っているが、彼の指揮の全部がこの一言に入っている。
四つ目、上からの無理な命令を、現場で実行できる形に翻訳する。宮崎は佐藤幸徳のように抗命はしなかった。だが牟田口の命令をそのまま兵に下ろしたこともない。コヒマ攻略もシッタン突破も、命令の目的は受け取り、方法は自分で作り直している。これは日本陸軍で最も欠けていた能力で、多くの指揮官は無理な命令を無理なまま部下に押し付けるか、自分の責任で拒否するかの二択しか持っていなかった。宮崎はその間に三つ目の道を作った。
五つ目、戦闘の先を見る。ノモンハンの石碑、インパールの殿軍。どちらも「今の戦闘に勝つ」のではなく「この戦闘の後に何が要るか」を見て動いている。将軍の仕事は今日の勝ち負けではなく、明日部隊が存在しているかどうかだと、宮崎は理解していた。
宮崎繁三郎と栗林忠道:同期二人の対照
宮崎を語るときに、同期の栗林忠道を並べて見ると両方が立体的になる。
二人とも幼年学校を出ていない。宮崎は岐阜中学、栗林は長野中学からの陸士入学だ。二人とも陸大に進んだが、ここで差がつく。栗林は恩賜の軍刀組で、その後アメリカ駐在に出て、日本陸軍でも数少ない「アメリカを知っている将校」になった。宮崎は64人中29番の成績で、駐在にも中央にも縁がなく、部隊勤務と外地の戦場を回り続けた。
それでも二人の戦い方は似ている。栗林は硫黄島で万歳突撃を禁じ、地下陣地で持久戦をやり、米軍に大きな損害を与えた。宮崎はコヒマで精神論を排し、地形と方法を教えてから兵を動かし、撤退で部隊を溶かさなかった。二人とも「兵を無駄に死なせない」という一点で当時の陸軍の常識から外れていて、二人ともそれを中央からの評価ではなく現場の結果で証明した。
違うのは結末だ。栗林は硫黄島から帰ってこなかった。宮崎は三つの戦場から帰ってきた。硫黄島には撤退という選択肢がなく、ビルマにはあった、という戦場の違いが大きい。ただ私は、もし栗林がビルマにいたら宮崎と同じことをしたと思うし、宮崎が硫黄島にいたら栗林と同じことをしたと思っている。二人は同じ型の指揮官で、置かれた場所が違っただけだ。硫黄島の戦いの記事と並べて読むと、日本陸軍の「もう一つの可能性」が見える。
戦後:下北沢の陶器屋「岐阜屋」

復員後、宮崎は東京の下北沢で陶器の小売店を開いた。店の名前は故郷にちなんで岐阜屋。元陸軍中将が、茶碗や皿を売っている。
宮崎は戦争について語らなかった。回想録を書かず、講演もせず、旧軍関係者の集まりにもあまり顔を出さなかった。近所の人は彼が軍人だったことは知っていても、ノモンハンやコヒマで何をした人かはほとんど知らなかったという。かつての部下が店を訪ねてくると迎えたが、自分から昔話をすることはなかった。
なぜ語らなかったのかは本人が言っていないので分からない。ただ、宮崎は殿軍でも突破でも、自分の部下が目の前で死ぬのを見続けた人だ。ノモンハンの石碑もコヒマの高地もシッタンの渡河も、語れば必ず死んだ兵の話になる。生き残った指揮官が自分の戦績を語ることを、宮崎は自分に許さなかったのだと私は思っている。同じ時代に、自分の作戦を正当化する回想録を書いた将軍が何人もいたことを考えると、この沈黙の重さは分かりやすい。
1965年8月、73歳で亡くなった。死の床で、もう意識がはっきりしない状態の宮崎が「敵はどうしている」「兵は飯を食っているか」と繰り返したという話が、部下や家族の証言として残っている。この話は宮崎の伝記のほぼ全部に出てくるので、どこまで正確かは検証しようがない。ただ、この人ならそう言っただろうと思わせる何かがある。
私は宮崎の戦後を、井上成美が横須賀で英語塾を開いたのと同じ種類のものとして見ている。どちらも軍人として国を守れなかったという意識があり、どちらも戦争を語らず、どちらも小さな仕事で生活を立てた。違うのは、井上が反対した戦争を宮崎は戦ったということだ。それでも二人の戦後の形は驚くほど似ている。
宮崎繁三郎は本当に「不敗の名将」か
ここで評価を冷静に書いておく。
まず「不敗」は言い過ぎだ。インパールは負けている。コヒマは落としたが保持できなかった。第54師団の突破は成功したが、損害は甚大だった。宮崎が負けなかったのは「与えられた任務を果たした」という意味であって、勝った戦争に参加したという意味ではない。
次に、宮崎の下でも兵は大勢死んでいる。コヒマの攻撃で歩兵第58連隊は中隊長クラスを次々に失い、殿軍の戦闘でも損害は大きかった。宮崎が「部下を死なせなかった」というのは、他の部隊と比べて相対的に、という但し書きが付く。牟田口の作戦の中で最も損害が少なかった部隊、というのが正確な言い方だ。
その上で、私の評価はこうだ。宮崎は日本陸軍の指揮官の中で、最も「兵に信頼された」将軍である。彼の部隊の生き残りが戦後に語る言葉には、他の指揮官への証言にはない温度がある。それは宮崎が兵を勝たせたからではなく、兵の限界を知り、兵の命を数字ではなく人として扱ったからだ。大日本帝国軍の名将ランキングで宮崎を上位に置いたのも、戦績の派手さではなくこの点による。
逆に言えば、宮崎のような将軍が中枢に呼ばれなかったことが、日本陸軍の病気そのものだった。太平洋戦争の愚将10人に名前が挙がる人間の多くは、幼年学校出身で陸大上位の、宮崎とは逆の経歴を持っている。組織は成績で人を選び、成績で選ばれた人が作戦を書き、書かれた作戦の現場で宮崎が兵を連れ帰った。
現代の目で読み直すと
自衛隊ファンとして宮崎を読むと、彼の型は今の陸上自衛隊の教育とかなり重なる。指揮官が現地を見る、命令を具体化する、隊員の体力と補給を把握する。当たり前のことだが、当たり前のことをやった将軍が日本陸軍では例外だった。
もう一つ、組織論の視点で見ると、宮崎の生涯は「現場で結果を出す人間が評価される仕組みがあるか」という問いになる。これは軍隊だけでなく官庁でも企業でも同じで、投資先の会社を見るときも、現場の実績で人が上がる組織かどうかは大きな判断材料になる。宮崎が出世しなかった陸軍が、どういう結末を迎えたかは言うまでもない。
技術の話も一つ付け加えておく。宮崎の型は「指揮官が現地を見る」ことに支えられていたが、今の戦場ではドローンと衛星画像がその役目の一部を代わりに担う。それでも最後に判断するのは人間で、映像を見ても「この道を兵が歩けるか」「この河を今夜渡れるか」を決める感覚は、現地を歩いた指揮官にしかない。宮崎がコヒマの山頂で中隊長に地形を見せた時にやっていたのは、今で言えば情報を現場の判断に変換する作業で、これは道具が進歩しても消えない仕事だ。
宮崎繁三郎を深く知るための本
宮崎の伝記は豊田穣『不敗の名将 宮崎繁三郎』(光人社NF文庫)が定番で、インパールの部分は高木俊朗『抗命』『インパール』(文春文庫)が佐藤幸徳の抗命と宮崎の殿軍を細かく追っている。いずれもこの記事の執筆時点で当ブログの商品リストに未登録なので、書店やAmazonで直接探してもらいたい。ここでは合わせて読む本を挙げる。
『失敗の本質』はノモンハンとインパールの両方を組織論として分析していて、宮崎が戦った二つの戦場がなぜ負けたのかを知るなら最初の一冊になる。記事の途中で紹介した。
『日本軍兵士』は、宮崎が守ろうとした「兵」の側から太平洋戦争を見る本だ。餓死、病死、負傷兵の扱い。宮崎の部隊が例外だったことが、この本を読むと分かる。これも記事の途中で紹介した。
そして『「超」入門 失敗の本質』は、その組織論を現代の仕事に引き寄せて読み直す入門書で、宮崎のような現場指揮官が組織で報われない理由を考えるのに向いている。
長い本ばかりなので、通勤中に耳で聴く手もある。
よくある質問
宮崎繁三郎はなぜ「不敗の名将」と呼ばれるのか
ノモンハンで高地を奪取し、コヒマを攻略し、インパール撤退の殿軍を務め、ビルマ最後の突破を率いるなど、与えられた任務をいずれも果たしたため。ただし参加した作戦自体は敗北しており、「不敗」は任務達成の意味に限られる。
宮崎繁三郎はノモンハンで何をしたのか
歩兵第16連隊長として停戦直前の1939年9月にソ連軍から高地を奪って確保し、連隊名と日付を刻んだ石を埋めて占領の証拠を残した。関東軍が大敗した中でほぼ唯一の明確な戦果とされる。
インパール作戦での宮崎繁三郎の役割は
第31師団歩兵団長として左突進隊を率いてコヒマを攻略し、師団長・佐藤幸徳の独断撤退後は第15軍の殿軍を務め、負傷兵を置き去りにせず部隊の指揮系統を保ったまま撤退した。
宮崎繁三郎はなぜ出世しなかったのか
幼年学校出身ではなく岐阜中学からの陸士入学で、陸大成績は64人中29番、陸軍内の派閥にも属していなかったため、参謀本部や陸軍省の中枢に呼ばれることがなく、最終階級は中将だった。
第54師団長として宮崎繁三郎は何をしたのか
1945年、ビルマ西部のアラカン戦線に取り残された第28軍の一部として、7月にペグー山系を越えてシッタン河を渡る突破作戦を指揮した。第28軍全体は半数以上を失ったが、第54師団は事前に集結と渡河計画を徹底したことで師団の形を保ったまま対岸に着き、終戦を迎えた。
宮崎繁三郎の戦後はどうだったのか
東京・下北沢で「岐阜屋」という陶器小売店を開き、戦争について語らずに暮らした。1965年8月に73歳で死去。死の床で「兵は飯を食っているか」と繰り返したという話が伝わっている。
出典・参考
- 豊田穣『不敗の名将 宮崎繁三郎』(光人社NF文庫)
- 高木俊朗『抗命 インパール2』『インパール』(文春文庫)
- 防衛省新潟地方協力本部「太平洋戦争 インパール(ウ号作戦)」第一部〜第三部、「歩兵第十六聯隊のノモンハン」(元新発田駐屯地援護室 佐藤和敏)
- 文春オンライン「山下裕貴・保阪正康・川田稔 座談会」における宮崎評(陸大成績・岐阜屋の記述)
- 戸部良一ほか『失敗の本質』(中公文庫)







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