一人の日本の将軍が、その生涯で三つのまったく違う決断をしている。1938年、満州とソ連の国境に押し寄せたユダヤ難民を、上の許可を待たずに満州へ通した。1943年、自分の指揮下にあるアッツ島の守備隊に、増援を送れないまま玉砕を命じた。1945年8月18日、日本が降伏した3日後に、千島列島の占守島へ上陸してきたソ連軍への反撃を命じた。
樋口季一郎。陸軍中将。淡路島の生まれで、石原莞爾の親友で、北方軍司令官。イスラエルでは今も名前が知られ、日本では長く忘れられていた人だ。
この人が面白いのは、三つの決断の方向がばらばらに見えることだ。難民を救い、部下を救えず、降伏後に戦った。だが並べてみると、一本の線が通っている。「目の前の人間を、今ある権限の範囲で守る」という線だ。この記事では、樋口が何を決め、何を決められず、そしてなぜ戦後に語らなかったのかを追う。
樋口季一郎とは何者か、3分でつかむ
1888年、兵庫県の淡路島に生まれた。大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て陸軍士官学校に進み、1909年に21期で卒業。中央幼年学校からの同期に石原莞爾がいて、生涯の友人だった。陸軍大学校は30期。1925年からポーランドの公使館付武官を務め、ここでロシア語とロシア情勢、そしてポーランドに多く住んでいたユダヤ人の事情を知る。この駐在が、後の決断の土台になる。
1937年8月、少将としてハルビン特務機関長。翌1938年3月、満ソ国境のオトポール駅にナチスの迫害から逃れたユダヤ難民が押し寄せ、満州国が入国を拒んで立ち往生した。樋口は難民の受け入れを決め、満鉄の松岡洋右総裁と交渉して輸送列車を手配し、難民をハルビンから上海方面へ送った。これがオトポール事件である。
1939年に中将、第9師団長を経て、1942年8月に北部軍司令官として札幌に着任した。以後、北方軍、第5方面軍と名前は変わるが、終戦まで北海道・樺太・千島・アリューシャンを担当する司令官であり続けた。1943年5月のアッツ島玉砕、7月のキスカ島撤退、1945年8月の樺太と占守島の戦いは、全部この司令官の管轄で起きた。
1945年12月に予備役。戦後は多くを語らず、1970年10月、82歳で亡くなった。
石原莞爾の親友、ポーランドの駐在武官
樋口の思想を語るときに外せないのが、石原莞爾との関係と、ポーランドでの3年間だ。
石原莞爾とは中央幼年学校からの同期で、二人とも陸軍の主流から外れた場所でものを考える人間だった。石原が満州事変を起こし、後に日中戦争に反対して東條と衝突したのは別の記事で書いたが、樋口はその石原の隣にいて、同じ空気を吸いながら、石原より穏やかな形で同じ結論に達している。日本の敵はソ連であり、ドイツと組むことも中国と泥沼の戦争をすることも、ソ連を利するだけだという考えだ。
ポーランド駐在は1925年から28年。当時のポーランドはソ連と国境を接し、ロシア革命から逃れてきた人々とユダヤ人が多く住む土地だった。樋口はここでソ連の内情を学ぶと同時に、ヨーロッパのユダヤ人がどういう扱いを受けているかを肌で知った。ナチスが政権を取るのはこの5年後で、樋口はその前段階のヨーロッパを見ていたことになる。
日本陸軍でユダヤ人問題に詳しい将校は数人しかいない。樋口は安江仙弘と並んでその一人で、1937年12月にはハルビンで開かれた極東ユダヤ人大会に日本側代表として出席し、ナチスのユダヤ人政策を批判する演説をしている。ドイツと同盟を結ぼうとしていた陸軍の将校としては、かなり踏み込んだ発言だった。オトポール事件は、この3か月後に起きる。
極東ユダヤ人大会と「河豚計画」
オトポール事件の3か月前、1937年12月にハルビンで第1回極東ユダヤ人大会が開かれた。満州と中国に住むユダヤ人の代表が集まる会議で、樋口は関東軍と特務機関を代表して出席し、祝辞を述べた。その内容は、ナチス・ドイツのユダヤ人政策を名指しで批判し、ユダヤ人が祖国を持てないことへの同情を語るものだった。日独防共協定が結ばれた翌年に、陸軍の少将がこれを公の場で言っている。
この背景には、陸軍と海軍の一部にあった「河豚計画」と呼ばれる構想がある。ユダヤ資本を満州開発に引き込み、アメリカのユダヤ人社会を通じて対日世論を和らげる、というもので、河豚は美味いが毒があるという意味の名前だ。樋口も安江仙弘もこの構想に関わっていて、オトポールでの難民受け入れを純粋な人道と見るか、この計画の延長と見るかは今でも議論がある。
私は両方だと思っている。樋口はポーランドでユダヤ人の境遇を見た人間で、大会での演説は計算だけでは書けない内容だ。同時に彼は特務機関長で、満州にユダヤ人を受け入れることが日本の利益になるという説明を関東軍向けに持っていた。人道と国益が重なった場所で動いたからこそ、樋口の独断は事後に東條に認められた。人道だけなら処分され、国益だけなら動いていない。
オトポール事件:許可を待たずに難民を通した

1938年3月、満ソ国境のソ連側にあるオトポール駅に、ユダヤ難民が集まった。ドイツやオーストリアからシベリア鉄道で逃げてきて、満州を通って上海やアメリカへ向かうつもりだった人々である。だが満州国は入国を拒んだ。ドイツとの関係を気にしたからだ。難民は零下20度の駅に取り残された。
ハルビンのユダヤ人協会から相談を受けた樋口は、受け入れを決めた。特務機関長に難民の入国を決める権限はない。それでも彼は満州国の外交部に働きかけて入国を認めさせ、満鉄の松岡洋右総裁に直接掛け合って輸送列車を出させた。難民はハルビンに運ばれ、そこから大連、上海へと送られていった。
何人を救ったのかは、実は確定していない。2万人という数字が広まっているが、これは戦後にかなり膨らんだ数字で、当時の記録から確認できるのは数百人から数千人の規模と見る研究者が多い。樋口の評伝を書いた早坂隆も、この数字には慎重だ。私も「数百人から数千人」が堅実なところだと思っている。それでも、上の許可を待たずに国境を開けた将校がいたという事実は変わらない。
事件の後、ドイツ政府から抗議が来た。同盟関係を築こうとしている相手の敵を、日本の軍人が助けたのだから当然だ。樋口の責任問題が関東軍で持ち上がり、樋口は関東軍司令部に呼ばれて釈明した。このとき樋口を不問に付したのが、関東軍参謀長だった東條英機である。東條はドイツに対して「日本はドイツの属国ではない」という趣旨の返答をし、樋口を処分しなかった。
東條がこの判断をしたことは、私はもっと知られていいと思う。東條は後に三国同盟を結び、対米開戦を決めた首相だが、1938年の時点ではドイツに対して日本の独立性を守る側に立っている。人間は一つの色で塗れない。
樋口の名前は戦後、イスラエルの建国功労者を記した「ゴールデンブック」に記載された。杉原千畝の「命のビザ」より2年早い救出劇で、「もう一人の杉原千畝」と呼ばれる理由がここにある。ただし樋口本人は、この件を自分の功績として語ることをほとんどしなかった。
杉原千畝と樋口季一郎:何が違ったのか
「もう一人の杉原千畝」という呼び名で語られることが多いので、二人の違いを整理しておく。
杉原千畝は外交官で、1940年夏にリトアニアのカウナスで、外務省の訓令に反してユダヤ難民に日本通過ビザを発給した。人数は6,000人前後とされ、戦後長く外務省から冷遇されたが、1985年にイスラエルから「諸国民の中の正義の人」として顕彰され、今では教科書にも載っている。
樋口は軍人で、杉原の2年前に、上の許可なしに国境を開けた。救った人数は杉原より少ない可能性が高い。だが樋口の場合は、その後に関東軍参謀長の東條が事後承認したことで、組織としての決定に格上げされた。杉原が個人の抵抗として記憶されたのに対し、樋口の行為は「日本軍がやったこと」になり、戦後の日本ではそれが忘れられる理由になった。軍人の功績は語りにくく、外交官の功績は語りやすい。二人の戦後の扱いの差は、行為の差ではなく、日本社会が誰の功績を語りたがったかの差だと私は思っている。
もう一つの違いは、その後の人生だ。杉原はビザを出したあと、戦争の主役にならなかった。樋口はビザの5年後にアッツで玉砕を命じ、7年後に占守島で戦闘を命じている。人道の人としてだけでは語れない、戦争を指揮した将軍としての記録が樋口にはある。そこが、樋口を「杉原の軍人版」として片付けられない理由だ。
アッツ島:救えなかった部下

1942年8月、樋口は北部軍司令官として札幌に着任した。担当は北海道、樺太、千島、そしてアリューシャン列島のアッツ島とキスカ島。ミッドウェー作戦の陽動として占領した二つの島に、陸海軍合わせて8,000人近くが置かれていた。
北部軍という組織について少し書いておく。北海道の札幌に司令部を置き、樺太、千島、そしてアリューシャンまでを担当する軍で、太平洋戦争では最も北の戦域だった。1942年6月、米軍はアリューシャンのダッチハーバーを日本海軍に空襲され、その直後にアッツとキスカを日本軍に取られている。アメリカ本土に最も近い日本軍の占領地で、米軍にとっては威信の問題だった。だが日本側から見れば、アッツもキスカも本土から3,000キロ離れ、補給は海軍の船に頼るしかなく、冬は氷と霧で船も飛行機も動けない。守るには遠すぎ、捨てるには近すぎる島だった。樋口の「捨て児」という言葉は、この地理をそのまま言っている。
着任した樋口はすぐに「アッツ島、キスカ島は陸海両軍による捨て児だ」と指摘し、両島の兵力増強と補給の確保を大本営に求めた。補給は途絶えがちで、増援も来ない。米軍が来れば守れない。彼の見立ては正確だったが、大本営はガダルカナルとニューギニアに手一杯で、北の二つの島に回す余力はなかった。
1943年5月12日、米第7師団がアッツ島に上陸した。守備隊は山崎保代大佐以下2,600人あまり。樋口は逆上陸作戦、つまり増援部隊を送り込んで米軍と戦う案を大本営に具申した。一度は現地にも増援を送ると伝えている。だが大本営はアッツ島の放棄を決めた。樋口は涙を流しながら、山崎大佐に「散華」を求める電報を打ったと防衛研究所の人物解説にある。5月29日、守備隊は最後の突撃を行い、玉砕した。日本軍で最初の「玉砕」で、大本営がこの言葉を初めて使った戦いである。
アッツの玉砕には、もう一つ書いておくべきことがある。この戦いで大本営は初めて「玉砕」という言葉を公式に使い、以後、島の守備隊が全滅するたびにこの言葉が繰り返されるようになった。守備隊が全員死ぬことを美しい言葉で包む習慣は、アッツから始まった。樋口はその最初の司令官になった。彼が望んだのは逆上陸で、玉砕ではなかった。だが記録に残る彼の名前は、玉砕を命じた側にある。
ユダヤ難民を救った男が、自分の部下を救えなかった。樋口は号泣したと伝わっている。この対比は評伝でも必ず書かれるが、私は少し違う角度で見ている。オトポールで樋口は「自分の権限の範囲で」動けた。特務機関長として現場にいて、満州国とも満鉄とも直接交渉できた。アッツでは、樋口は札幌にいて、増援を出す権限は大本営にあった。権限のある場所では救い、権限のない場所では救えなかった。樋口の限界ではなく、日本軍の意思決定の構造の限界だった。
アッツの詳細はアッツ島の戦いの記事に書いた。ここでは樋口の側から見た話に留める。
キスカ島:今度は連れ帰った

アッツが玉砕すると、次はキスカ島だった。5,000人以上が残っている。樋口はキスカについては撤退を主張し、大本営もこれを認めた。実行したのは海軍の第1水雷戦隊で、司令官は木村昌福。7月29日、霧の中で55分で5,183人を収容し、一人も失わずに帰ってきた。
キスカの撤退が決まるまでには、大本営の中でも議論があった。アッツで放棄を決めた直後に、キスカでは艦隊を危険にさらして5,000人を救うのか。海軍側には艦隊を失う恐れから慎重論があり、陸軍側にも「アッツの二の舞になるなら守備隊に戦わせろ」という声があった。樋口はここで撤退を押し通している。アッツで玉砕を伝えた司令官が、二度目は絶対にやらないと決めていたのだと私は読んでいる。木村昌福が霧を待てたのは、樋口が撤退という方針を陸軍側で固めていたからでもある。
この作戦で樋口が果たしたのは、陸軍側の意思統一だった。キスカの守備隊は陸海軍混成で、陸軍部隊の撤退を決め、守備隊に「毎日決まった時間に海岸で待て」という準備をさせ、海軍の艦隊が来たときに一斉に乗れる状態を作ったのは、北方軍の指示による。撤退の詳細はキスカ島撤退作戦の記事に書いた。
樋口の側から見ると、アッツとキスカは同じ問題の二つの答えだ。増援を出せない島をどうするか。アッツでは大本営が放棄を決め、樋口は玉砕を伝えるしかなかった。キスカでは撤退が認められ、樋口は準備を整えて海軍に渡した。同じ司令官が、権限の有無で正反対の結果を出している。
1945年8月:樺太と占守島

樋口の生涯で、彼の判断が最も直接に歴史を動かしたのは1945年8月だ。
その前に、1944年から45年にかけての樋口の仕事を書いておく。1944年3月、北方軍は第5方面軍に改編され、樋口はその司令官として北海道と千島の防衛強化に取りかかった。アッツとキスカを失った後、次にソ連か米軍が来るのは千島列島で、樋口は最北端の占守島に第91師団を置き、戦車第11連隊を配備した。樺太には第88師団を置いた。1945年8月に占守島でソ連軍を迎え撃った部隊は、樋口が前の年から作っていたものである。占守島の4日間は、8月18日の判断だけで生まれたのではない。
8月3日、樋口はソ連の樺太侵攻を予期し、南樺太の第88師団に戦闘準備を命じた。ソ連はまだ日ソ中立条約を破っていない。それでも樋口は、ソ連の動きとヤルタ会談後の情勢から、参戦は近いと読んでいた。8月9日にソ連が満州に侵攻し、11日に樺太への攻撃が始まる。樋口の予測は当たった。樺太の戦いは8月15日を過ぎても続き、住民の避難と戦闘が並行して進んだ。
そして占守島だ。8月15日に日本は降伏した。だがソ連軍は17日夜から18日未明にかけて、千島列島最北端の占守島に上陸してきた。守備隊は第91師団で、戦車第11連隊もいた。現地から札幌の第5方面軍司令部に指示を求める連絡が入る。降伏している。だが敵が上陸してきた。どうするか。
樋口は自衛戦闘を命じた。降伏した後でも、上陸してくる敵に対して自衛のために戦うことは許される、という判断だ。守備隊は反撃し、戦車第11連隊が突撃し、連隊長の池田末男大佐が戦死した。戦闘は21日まで続き、ソ連軍は上陸部隊の半数近くを失った。停戦交渉の末、守備隊は武装解除され、その多くがシベリアに送られた。
この判断の法的な根拠についても書いておく。大本営は8月16日、全軍に対して積極的な進攻作戦を中止するよう命じたが、同時に、自衛のための戦闘行動は妨げないという一項を入れていた。停戦が完全に発効するのは8月18日の午後とされ、占守島へのソ連軍上陸はその前の18日未明である。つまり樋口の自衛戦闘命令は、大本営の命令の枠内にあった。降伏後に勝手に戦争を続けたのではなく、停戦発効前に上陸してきた敵に対して、大本営が認めた範囲で自衛したことになる。ただし、その枠を「使う」と決めたのは樋口で、同じ状況で何もしない選択もあった。
この4日間が何を止めたかは、占守島の戦いの記事とソ連の北海道占領計画の記事で詳しく書いた。スターリンは北海道の北半分の占領をトルーマンに要求し、拒否されている。占守島でソ連軍が予定より大きく遅れ、損害を出したことが、北海道への上陸を実行に移す余裕を奪った、という見方が有力だ。樋口の命令がなければ、北海道が分断されていた可能性は否定できない。
占守島の戦闘については、ヤルタの密約と合わせて読むと、スターリンが千島と北海道に何を求めていたかが見える。樋口が止めたのは、千島の島一つではなく、その先の計画だった。
樋口は降伏の3日後に、部下に戦えと命じた将軍である。この判断は今でも評価が分かれる。降伏後の戦闘は国際法上どうなのか、守備隊の犠牲は正当化できるのか。私の考えは後で書くが、一つだけ先に言っておくと、樋口の判断の基準は8年前のオトポールと同じだった。目の前にいる人間を、自分の権限で守れるなら守る。占守島で彼が守ろうとしたのは、島の守備隊と、その後ろの北海道だった。
戦後:ソ連の引き渡し要求と、語らなかった25年

終戦後、樋口は第5方面軍司令官として北海道の武装解除を指揮し、12月に予備役となった。
ここで一つ、広く語られている話がある。ソ連が樋口を戦犯として引き渡すよう連合国軍総司令部に要求し、それを知った世界ユダヤ人会議がオトポール事件の恩義からマッカーサーに働きかけ、GHQが引き渡しを拒否した、という話だ。樋口自身の回想と遺族の証言に基づいていて、評伝にも書かれている。ただし、この経緯を裏付ける公文書は確認されておらず、どこまでが事実かは研究者の間でも慎重に扱われている。私も「そう伝えられている」以上のことは書けない。
事実として言えるのは、樋口が東京裁判で訴追されず、シベリアにも送られず、日本で老後を過ごしたことだ。占守島で戦闘を命じた司令官がソ連にとって好ましくない存在だったことは間違いなく、それでも引き渡されなかった。
戦後の樋口は多くを語らなかった。回想録は死後に遺族の手で刊行されたが、本人が公の場でオトポールや占守島を語ることはほとんどなかった。1970年10月、82歳で老衰のため亡くなった。
近年になって、孫の樋口隆一が祖父の記録を整理し、評伝が出て、北海道石狩市に記念館ができ、故郷の淡路島にも銅像が建てられた。イスラエル側からの評価も再び注目されている。ただ本人が生きていたら、この扱いをどう思ったかは分からない。彼はアッツの2,600人を救えなかったことを、生涯引きずった人だった。
樋口季一郎の判断を貫くもの
三つの決断を並べて、私なりに樋口の考え方を整理する。
一つ目、権限の範囲で最大限に動く。オトポールでは特務機関長の権限を超えかけるところまで動いた。アッツでは増援の権限がなく、具申するしかなかった。占守島では方面軍司令官として戦闘を命じる権限があり、それを使った。彼は権限のない場所で無理をしなかった代わりに、権限のある場所では迷わなかった。
二つ目、敵はソ連だという一貫性。ポーランドでソ連を見て、満州でソ連と向き合い、北海道でソ連の侵攻を予期し、占守島でソ連を止めた。石原莞爾と共有していた戦略観で、ドイツとの同盟にも中国との戦争にも冷淡だったのはこのためだ。
三つ目、人道と軍務を分けない。ユダヤ難民を通したのは人道だが、彼はそれを軍人としての判断だと考えていた。極東ユダヤ人大会での演説も、軍人の立場で行っている。人道は軍務の外にあるものではなく、軍務の中で発揮すべきものだという考え方で、これは当時の陸軍ではかなり異質だった。
四つ目、語らない。三つの決断のどれも、彼は自分の功績として語らなかった。オトポールは「当然のことをした」、占守島は「自衛だ」、アッツは「救えなかった」。功績を語らない人は、失敗も語らないことが多い。彼は両方を抱えたまま黙っていた。
樋口季一郎は正しかったのか
評価が分かれる点をきちんと書く。
占守島の自衛戦闘命令は、降伏後の戦闘という重い問題を含んでいる。守備隊はこの4日間で数百人が戦死し、生き残った者の多くはシベリアに送られた。「北海道を救った」という結果から逆算して正当化するのは簡単だが、8月18日の時点で樋口にその結果は見えていない。彼が見ていたのは、上陸してくる敵と、武装解除の途中で撃たれる部下だった。自衛戦闘は国際法上も認められる範囲で、私はこの判断を支持する。ただし、その代償を払ったのは樋口ではなく占守島の将兵だったことは忘れてはいけない。
オトポール事件は、救った人数が膨らんで語られてきたことで、逆に事件そのものの信頼性を疑われる時期があった。2万人という数字を使う人は今でもいるが、私はやめた方がいいと思う。数百人でも数千人でも、許可なしに国境を開けた事実の重さは変わらない。数字を盛ることは、樋口の名誉を守ることにならない。
アッツについては、樋口を責める人は少ない。だが「アッツ、キスカは捨て児だ」と着任直後に指摘しながら、結局その捨て児の一方を見殺しにする命令を伝えた司令官であることは、本人が一番分かっていた。
その上で、私の評価はこうだ。樋口は日本陸軍の将官の中で、最も「決断の記録」が残っている人物である。多くの将軍は大本営の命令を伝達しただけで、自分で何かを決めた痕跡が薄い。樋口は三度、自分で決めた。一つは救い、一つは救えず、一つは止めた。決めた人間にしか、この記録は残らない。
現代の目で読み直すと
自衛隊ファンとして樋口を読むと、占守島の判断は今の自衛隊の交戦規定や「自衛」の範囲の議論と直結する。降伏後、停戦後、あるいはグレーゾーンで敵が上陸してきたとき、現場の指揮官はどこまで判断できるか。1945年8月18日の札幌で樋口が考えたことは、80年後の防衛の議論とほとんど同じ問いだ。
もう一つ、北海道の防衛という観点でも樋口は現代につながる。ソ連が北海道を狙った1945年と、ロシアが再び北方に圧力をかける今とで、地理は変わっていない。占守島でソ連軍を止めた4日間の記憶が、北海道に陸自の主力が置かれ続けた理由の一つでもある。
樋口季一郎を深く知るための本
樋口の評伝は早坂隆『指揮官の決断 満州とアッツの将軍 樋口季一郎』(文春新書)が最初の一冊で、樋口本人の回想録『陸軍中将樋口季一郎回想録』(芙蓉書房出版)が一次資料になる。いずれもこの記事の執筆時点で当ブログの商品リストに未登録なので、書店やAmazonで直接探してもらいたい。ここでは合わせて読む本を挙げる。
『日ソ戦争 帝国日本最後の戦い』は、1945年8月の樺太と千島の戦闘を最新の研究で整理した本で、樋口が命じた自衛戦闘が日ソ戦争全体の中でどう位置づけられるかが分かる。記事の途中で紹介した。
『新版 昭和史 戦前篇』は、樋口が生きた時代の陸軍と政治の動きを一冊で追える本で、オトポール事件が三国同盟へ向かう空気の中でどれだけ異質だったかの背景になる。これも記事の途中で紹介した。
『失敗の本質』は、アッツ島の放棄とキスカ撤退を含む日本軍の意思決定を組織論で分析していて、樋口が「権限のない場所で救えなかった」構造を理解するのに役立つ。
長い本ばかりなので、通勤中に耳で聴く手もある。
石狩市の樋口季一郎記念館と、札幌のつきさっぷ郷土資料館には樋口の遺品と資料がある。北海道に行く機会があれば、占守島の資料と合わせて回ると、1945年8月の判断が立体的に見える。
よくある質問
樋口季一郎はユダヤ人を何人救ったのか
2万人という数字が広まっているが、当時の記録から確認できるのは数百人から数千人の規模で、評伝を書いた早坂隆も2万人には慎重な立場をとっている。人数は確定していない。
オトポール事件で樋口季一郎は処分されなかったのか
ドイツから抗議があり関東軍で責任問題が持ち上がったが、関東軍参謀長だった東條英機が不問に付した。樋口はその後、参謀本部第2部長に転じている。
樋口季一郎はなぜアッツ島に増援を送らなかったのか
樋口は逆上陸作戦を大本営に具申したが、大本営がアッツ島の放棄を決定したため増援は送られなかった。増援を出す権限は北方軍司令官ではなく大本営にあった。
占守島の戦いで樋口季一郎は何を命じたのか
1945年8月18日、降伏後に上陸してきたソ連軍に対し、第5方面軍司令官として自衛戦闘を命じた。戦闘は21日まで続き、ソ連軍の北海道上陸を実行する余裕を奪ったと見られている。
樋口季一郎の記念館はどこにあるのか
北海道石狩市に樋口季一郎記念館があり、遺品や資料を展示している。札幌市のつきさっぷ郷土資料館にも関連資料があり、故郷の淡路島には銅像が建てられている。
樋口季一郎はソ連に戦犯として引き渡されそうになったのか
ソ連が引き渡しを要求し、世界ユダヤ人会議の働きかけでGHQが拒否したという話が本人の回想と遺族の証言に基づいて伝わっているが、裏付ける公文書は確認されていない。樋口が訴追されず日本で老後を過ごしたことは事実である。
出典・参考
- 防衛研究所 史料室「陸軍中将 樋口季一郎 明治21年〜昭和45年」(主要略歴・人物解説)
- 早坂隆『指揮官の決断 満州とアッツの将軍 樋口季一郎』(文春新書)
- 樋口季一郎『陸軍中将樋口季一郎回想録』(芙蓉書房出版)
- 文藝春秋「ユダヤ難民救出 80年目の迫真証言」(樋口隆一 談)
- Newsweek日本版「もう一人の杉原千畝、樋口季一郎とオトポール事件」(早坂隆)
- 樋口季一郎記念館(北海道石狩市)公開資料







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